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【岩手】蝦夷のリーダー“アテルイ” 「大墓公」姓、朝廷が授与 「大墓公という姓は、地元のランドマークだった角塚古墳から取られた」
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2018/08/07(火) 18:32:37.67ID:CAP_USER9
墳丘上から杉の木が伸びる角塚古墳。古代から「胆沢地域のランドマーク」だった可能性がある(奥州市で)
https://www.yomiuri.co.jp/photo/20180807/20180807-OYTNI50012-L.jpg
角塚古墳周辺の主要な遺跡
https://www.yomiuri.co.jp/photo/20180807/20180807-OYTNI50011-L.jpg

由来「古墳」「田茂山」からか

 平安時代初期、胆沢(現奥州市)を拠点に朝廷軍と対立した蝦夷(えみし)のリーダー、アテルイ。今も歴史小説やドラマ、舞台の主人公として人気だが、文献上の記述は少なく、その生涯には謎も多い。近年、遺跡の発掘成果などを基にした新たな研究で、意外な人物像も浮かび上がってきた。その一端を紹介する。

 世界遺産候補になった大阪府堺市の大山(だいせん)古墳(仁徳天皇陵)で知られる前方後円墳。円形と台形の墳丘を合わせた堂々たる造りで、大和王権の権力のシンボルとも言える有力者の墓だが、奥州市胆沢には国内最北の前方後円墳がある。

 角塚古墳は全長約45メートル。高さ約4・5メートルの円形の墳丘から立派な杉の木が伸び、地元では「一本杉」の愛称で親しまれている国の史跡だ。築造は5世紀後半とされ、同じ胆沢で8世紀後半に活躍したアテルイとは約300年の開きがある。近年、二つの時代をつなぐ発掘成果が相次いでいる。

                 ◇

 角塚古墳周辺の繁栄の様子が分かるのは、約2キロ北にある5世紀代の中半入(なかはんにゅう)遺跡(奥州市水沢)だ。大阪府産の須恵器や宮城県産の黒曜石、久慈の琥珀(こはく)などが出土しており、近畿地方の古墳文化の影響を受けつつ、北東北の文物も受け入れている。

 石包丁などもあり、胆沢周辺ではコメ作りが盛んだったことがわかる。より北の地域では弥生時代に稲作が流入したが、寒冷のため根付かなかったとされる。胆沢は農業文化圏と非農業文化圏の交接点で、角塚古墳に埋葬された人物は、両地域の物資の流通を通じて力を蓄えた有力者の可能性がある。

 その後の遺跡として注目されるのが、5世紀後半〜6世紀前半の墓がまとまって見つかった沢田遺跡(奥州市胆沢)だ。角塚古墳の築造に関わった勢力の末裔(まつえい)による遺跡と解釈されているが、前方後円墳ではないため角塚古墳の被葬者より格下とみられる。

 当時は大和王権の力がより強固になり、東北でも徐々に地域の有力者の力がそがれていったとされる。墓の形の変遷は、中央と地方の力関係の変化を示しているのかもしれない。

                 ◇

 沢田遺跡に隣接する石田I・2遺跡でも大規模な集落跡が見つかっており、特に7世紀後半〜8世紀前半には竪穴住居が急増した様子が見てとれる。水田が広がり、南北の交易地として繁栄した胆沢でアテルイは生まれ育った。

 姓の「大墓公」は朝廷から与えられたものだ。この時代の文献では前方後円墳を「大墓」と称する例がみられる。地元の歴史研究団体「アテルイを顕彰する会」事務局長の朝倉授(さずく)さん(68)は「大墓公という姓は、地元のランドマークだった角塚古墳から取られた」と解説する。大墓を「たも」と読み、奥州市内の地名の「田茂山」が由来とする説も根強い。田茂山はアテルイが朝廷軍と戦った場所で、この説を有力視する研究者も多い。

 いずれにしても朝廷から姓を授けられたという事実は、アテルイ一族が朝廷と良好な関係を深めていた証しだ。アテルイはどのような心境の変化から“反逆者”になったのだろうか。

アテルイ

 本名は大墓公阿弖流為(おおはかのきみ・あてるい)。8世紀後半〜9世紀初頭、現在の奥州市を拠点に、朝廷に属さない蝦夷を率いた。延暦8年(789年)に朝廷軍を破ったが、同21年(802年)に征夷大将軍の坂上田村麻呂に降伏し、河内国(現大阪府)で処刑された。

読売新聞 2018年08月07日
https://www.yomiuri.co.jp/local/iwate/news/20180807-OYTNT50058.html
0745◆HKZsYRUkck
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2018/08/11(土) 19:39:16.12ID:bg+tnBVy0
>>744
これの出典は何なん?
俺は「俘囚」は蝦夷だと習った気がする。
0747◆HKZsYRUkck
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2018/08/11(土) 19:52:54.41ID:bg+tnBVy0
>>746
おお、ありがとう。
明治政府の編纂ということで、北海道旧土人以外は皇民という
建前に矛盾しないように記述したのかしらん。
0748名無しさん@1周年
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2018/08/11(土) 20:26:46.35ID:CiNEtMOA0
>>739
いやいや被差別部落を部落と略しているわけではなく、
部落は部落で、集落と同じ意味。

どっちかというと、被差別部落って言う言葉が後発でしょう
0750◆HKZsYRUkck
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2018/08/11(土) 20:39:01.41ID:bg+tnBVy0
>>748
(1) 被差別部落
(2) いわゆる被差別部落
(3) いわゆる部落
(4) 部落

みたいなステップで「被差別」が欠落していった気がする。
「携帯電話」の場合は語の後半が落ちたから、いきなりだったけど。
0751名無しさん@1周年
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2018/08/11(土) 20:47:31.47ID:ZbI3tVEf0
そりゃ違う。
集落 部落 地名
特に地名??同族が部落か
部が荘園に隷属な印象
0753名無しさん@1周年
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2018/08/11(土) 21:51:04.66ID:rP7TToX60
俘囚(ふしゅう)とは、陸奥・出羽の蝦夷のうち、朝廷の支配に属するようになったもの。 日本の領土拡大によって俘囚となったもの、捕虜となって国内に移配されたものの二種 の起源がある。 また、主に戦前戦中には戦時捕虜の身分にあるものも俘囚と呼んだ。
0754名無しさん@1周年
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2018/08/11(土) 21:54:48.32ID:YSsBzi390
朝鮮半島からの日本へ連行された戦争捕虜の数も凄かったもんな
0755名無しさん@1周年
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2018/08/11(土) 22:36:51.23ID:8aDTXnR10
阿弖流為
0756名無しさん@1周年
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2018/08/11(土) 22:38:27.67ID:y+8vGDay0
でも、今の東北人はエミシと関係ないけどなw

どうでも良いけど、クール・ジャパン頑張れよ。
ねぶたもそうだけど、鮮やかな金や赤などの平安・鎌倉の鎧兜、 日本刀、
アニメやゴジラ、ウルトラマン、仮面ライダーなど、東北発祥は重要なんだからw
0757◆HKZsYRUkck
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2018/08/11(土) 22:47:39.72ID:bg+tnBVy0
>>756
> でも、今の東北人はエミシと関係ないけどなw

関係ないのか? 本当に関係ないのんか?
東北人じゃない俺ですら、>>638を読んだら尻の穴がムズムズしてくるぞ。
0758名無しさん@1周年
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2018/08/11(土) 22:48:42.51ID:bi9iyt7C0
高橋克彦の小説は面白かった
0759名無しさん@1周年
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2018/08/11(土) 22:57:46.84ID:y+8vGDay0
>>757
ほとんど関係ないと思うよ。
平安末期、鎌倉時代、南北朝の頃の移住者がほとんどだからねw
0760◆HKZsYRUkck
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2018/08/11(土) 23:02:03.69ID:bg+tnBVy0
>>759
そうなんか?
蝦夷を俘囚として他の地域に移した記録は知っているが、
倭人を入植させた記録はどんなもんじゃろ。
0761名無しさん@1周年
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2018/08/11(土) 23:03:44.36ID:y+8vGDay0
>>760
記録も糞もないだろw
事実がそうなんだからw
0762◆HKZsYRUkck
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2018/08/11(土) 23:05:58.75ID:bg+tnBVy0
>>761
すまん。
その東北への移住者について教えておくれ。
何時頃の時期にどのくらいの人数が、どこからどこに入ったの?
0763名無しさん@1周年
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2018/08/11(土) 23:15:11.26ID:y+8vGDay0
>>762
主に関東経由かな?
武士は桓武平氏系や清和源氏(摂津源氏、河内源氏、大和源氏は石川氏など)、藤原秀郷系、
村上源氏は佐々木氏など、ってか、南北朝時代や戦国時代を知らないのか?w

てか、東北は南北朝の動乱が凄かっただろ? 南朝方で負けた方は帰農したり、北朝方の武将の傘下に入ったんだよ。
あと、「藩」とか知ってる? 幕末に戦ったのは武士だぞ?
0764名無しさん@1周年
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2018/08/11(土) 23:16:36.98ID:A6gMV8tK0
先住民族でしょ(´・ω・`)
0765名無しさん@1周年
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2018/08/11(土) 23:19:30.80ID:y+8vGDay0
あ、佐々木は村上源氏じゃない。宇多源氏か・・・
0766◆HKZsYRUkck
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2018/08/11(土) 23:21:38.25ID:bg+tnBVy0
>>763
んで、その結果として、>>756
> でも、今の東北人はエミシと関係ないけどなw

という状態に至ったと?
なぜ、そう言えるのだろう?
0767名無しさん@1周年
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2018/08/11(土) 23:21:48.73ID:0fYpGPc70
阿弖流為=悪路王なの?
阿弖流為と悪路王では最期が違うみたいだけど。
0768名無しさん@1周年
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2018/08/11(土) 23:22:29.20ID:k8nv8oPw0
まつろわぬ民の歴史って残ってないのかな
興味あるんだけど
0769名無しさん@1周年
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2018/08/11(土) 23:26:02.89ID:y+8vGDay0
東北地方の南北朝での主な勢力

【南朝方】
南部師行・工藤氏・伊達氏・北畠氏・大江氏・結城氏・多田氏・小国氏・菊池氏・山家氏・その他多数

【北朝方】
南部政長・曽我氏・浅利氏・安東氏・斯波氏・吉良氏・石塔氏・相馬氏・畠山氏・芦名氏・国魂氏・伊賀氏・その他多数
0770名無しさん@1周年
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2018/08/11(土) 23:26:59.29ID:y+8vGDay0
関ヶ原の合戦後の主な全国大名石高ランキング
※徳川・豊臣は除く

1. 前田利長(加賀/金沢) 119.5
2. 結城秀康(越前/北ノ庄)67.0
3. 伊達政宗(陸奥/仙台) 60.5
4. 蒲生秀行(陸奥/会津) 60.0
5. 最上義光(出羽/山形) 57.0
6. 島津忠恒(薩摩/大隈) 56.0
7. 黒田長政(筑前/福岡) 52.3
8. 加藤清正(肥後/熊本) 52.0
8. 池田輝政(播磨/姫路) 52.0
8. 松平忠吉(尾張/清洲) 52.0
11. 小早川秀秋(備前/岡山)51.0
12. 福島正則(安芸/広島) 49.8
【減封】
毛利輝元(周防/長門) 36.9
上杉景勝(出羽/米沢) 30.0

佐竹義宣(出羽/秋田) 20.0 ※元(常陸/水戸)は54.5であったが、上杉討伐に応えず、減封
0771名無しさん@1周年
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2018/08/11(土) 23:35:07.46ID:h0HeN+wU0
>>11
そんなに強かったのなら、
朝廷を攻め滅ぼせたはず
それができず一方的に攻められ、最後に滅ぼされている時点で強くはない
0772名無しさん@1周年
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2018/08/11(土) 23:35:30.99ID:nMdOBOwx0
>>750
いや、部落という言葉があって、
あとから被差別という言葉をくっつけただけだろ。

被差別という言葉と概念のほうが新しいだろう。
0773名無しさん@1周年
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2018/08/11(土) 23:35:48.74ID:y+8vGDay0
>>766
めんどうくさいなw
普通の住民とか中世以前ならググって調べれば?
古墳時代や物部系や蘇我系や小野系、尾張や信濃からの移住・・・
関東からの移住や、その他。
0774◆HKZsYRUkck
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2018/08/11(土) 23:40:19.01ID:bg+tnBVy0
>>772
もちろんそうだ。
「被差別部落」という言葉は、おそらく20世紀になってできた言葉だろう。
で、>>750はそれ以降の経過。

>>773
根拠を挙げられないことはわかった。
絡んで済まんかったな。
0775名無しさん@1周年
垢版 |
2018/08/11(土) 23:41:46.15ID:nMdOBOwx0
>>768
ないよ!
それで捏造された和田家文書群が
変に持て囃されたりしたわけで。
0776名無しさん@1周年
垢版 |
2018/08/11(土) 23:43:04.23ID:y+8vGDay0
>>774
根拠って何だよ、根拠ってw
事実なんだからどうしたらいいのよ?
0777名無しさん@1周年
垢版 |
2018/08/11(土) 23:49:37.08ID:6RHW7KAo0
>>763
実は、東北諸藩は農兵が多かったりする。
一旗揚げようとするため、農兵の方が和平に慣れた武士よりも戦闘の実績があったとする記録さえある。

武士の部隊が壊滅する中、マタギ兵が戦果をあげた例もある。
0778名無しさん@1周年
垢版 |
2018/08/11(土) 23:50:12.91ID:iFriz7nr0
司馬さんの街道をゆく第1巻では、関東武士は百済遺民の子孫ではないか、と推測していた
0782名無しさん@1周年
垢版 |
2018/08/11(土) 23:57:39.53ID:tlrscv840
>>251
チンタマゲ
0783名無しさん@1周年
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2018/08/11(土) 23:59:13.33ID:Ij12KujRO
>>334
野獣化してたんだろうな蝦夷って
0784名無しさん@1周年
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2018/08/12(日) 00:04:56.54ID:9uAMJeRN0
>>783
自分たちの要求を、重税を科す和人に、きちんと文書で突きつけてました。
0785名無しさん@1周年
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2018/08/12(日) 00:05:39.69ID:kRDXB8OG0
>>781
ああ、桓武平氏の熊谷氏の流れも東北にいるな・・・
てか、千葉氏系もいっぱいいる。新渡戸なんかもそう。
三浦系もそう。渋谷もそう。その系統だと、大谷翔平とかw
0787名無しさん@1周年
垢版 |
2018/08/12(日) 00:08:28.65ID:BAzHnVFe0
まだゴッドハンドごっこしてたのか...
0788名無しさん@1周年
垢版 |
2018/08/12(日) 00:08:53.83ID:9uAMJeRN0
>>785
新渡戸はモロにアイヌ語が苗字に入っているなw

当時の武士は支配地を苗字にしたから、必然的にアイヌ語地名が苗字になるんだよね。
0789名無しさん@1周年
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2018/08/12(日) 00:54:59.04ID:kRDXB8OG0
>>788
アイヌ語だという根拠はないと思うよw
0790名無しさん@1周年
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2018/08/12(日) 01:38:18.46ID:9uAMJeRN0
>>789
アイヌ語地名が東北北部にも多数あるコトを調査し、それが学会で認められた山田秀三の
『東北・アイヌ語地名の研究』のp.101に載っている。「ニッ・オ・ペッ」の木片が多い沢であったのではないかとしている。
これは平成5年の地名研究大会で発表された内容のようだ。

アイヌ語研究は>>159のバチュラー神父による誤りが多い例もあるので慎重にやらんといかんがね。
0791名無しさん@1周年
垢版 |
2018/08/12(日) 02:26:30.12ID:56fXxqIG0
利根川
http://www.ktr.mlit.go.jp/tonejo/m/m-tonegawa/gaiyou/about/B01.htm

 アイヌ語の「トンナイ」に由来するなど、いくつかの説があります。また、「トネ」の語源についてもいくつかの説があります。

(1)アイヌ語で、巨大な谷を意味する「トンナイ」に由来する。
(2)同じアイヌ語で、沼や湖のように広くて大きい川を意味する。
0792名無しさん@1周年
垢版 |
2018/08/12(日) 03:59:28.63ID:NX4NSO2x0
古代の関東蝦夷と近代の北海道アイヌが同じ言語を使っていたかどうか分からないからねぇ。(´・ω・`)
0793名無しさん@1周年
垢版 |
2018/08/12(日) 04:14:45.57ID:NX4NSO2x0
続日本紀によると、延暦八年六月の戦いは蝦夷の陽動作戦に乗ってしまって惨敗したらしい。
官軍の将はこんな昔から無能だったんだね。戦死した兵士カワウソ。(´・ω・`)
0794名無しさん@1周年
垢版 |
2018/08/12(日) 05:06:35.34ID:9uAMJeRN0
>>791
実際にはアイヌ語にそんな用例は無いようだ…。
勝手にアイヌ語を解釈する例は一杯ある。困ったモンだ。
0795名無しさん@1周年
垢版 |
2018/08/12(日) 05:52:29.81ID:kDUk542r0
>>743
そもそも803年に建築された志波城が811年頃に活動を早くも停止(水害のせいともいわれる)
それを縮小・移転した徳丹城も815年には護衛の兵力がいなくなったとされ
以後は俘囚(エミシ)が警護し、9世紀半ばで行政活動を終えたとされる
以上から次のことが解る
1田村麻呂最大の成果とされる志波城ですらわずか10年程度の活動でしかない
2それを継承した徳丹城はかなり縮小されておりしかも朝廷の兵力での維持はごく短期間
3朝廷は度重なるエミシ戦争で財政悪化に直面、820年頃には兵力を大幅に削減するまで追い込まれていた
4減退する朝廷兵力の代わりに俘囚(エミシ)が城・柵を護衛した
5結局エミシ軍がエミシ地域を統括しているに等しく、朝廷の支配とは名ばかりのものであった
0796名無しさん@1周年
垢版 |
2018/08/12(日) 06:02:11.97ID:g4tunjY60
大陸と半島からの防衛が必要なくなって蝦夷戦争が終わってでもうこの頃には日本国軍てもんが無くなっちゃうんだよな
徴兵制度に基づく国軍の歩兵部隊からプロの戦闘集団による騎兵部隊へ移行して後に武士が生まれる
時代は違うがヨーロッパと同じ道を辿った
0798名無しさん@1周年
垢版 |
2018/08/12(日) 06:22:30.20ID:SdVz7pC10
>>767
阿弖流為を「てれすこ」とするなら、悪路王を「すてれんきょう」とすればいい
0799名無しさん@1周年
垢版 |
2018/08/12(日) 06:28:02.66ID:NX4NSO2x0
ついでに言うと、「利根川」の「とね」は「刀禰」に由来するらしいよぉ。(´・ω・`)
0800名無しさん@1周年
垢版 |
2018/08/12(日) 06:29:09.38ID:H3GLGeeo0
三浦氏壊滅時、関東の100氏族が陸奥五戸市川に御取り潰しを免れるため移り住んだ。市川、船橋、中山、中井、三浦残党他多数。
北条独占の為の計略。
八戸三沢市平内青森に今でも一杯いる。
0801名無しさん@1周年
垢版 |
2018/08/12(日) 06:48:20.57ID:Rwnlme5f0
(朝鮮日報日本語版) ソウル大名誉教授「古朝鮮こそ東洋文明の起源、黄河文明にも影響与えた」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180810-00001861-chosun-kr

古朝鮮は野生馬を飼いならして独特の騎馬文化を発展させ、太陽と祖上神(檀君)を崇拝する共同信仰が発達した。
また、韓・ワイ・貊族の部族言語を統合して古朝鮮語が誕生し、これはウラル・アルタイ語族に属する言語の中では
最も古い歴史を持つ。
従って、西洋文明の始祖とされるメソポタミア文明・エジプト文明に対応する東洋文明の出発点は、黄河文明(3700年前)
ではなく古朝鮮文明と見るべき、というのだ。
0802名無しさん@1周年
垢版 |
2018/08/12(日) 08:31:20.44ID:BMA18sGb0
>>801
見ての通り朝鮮半島は数千年に及ぶ奴婢半島であったため
現代朝鮮人は現代朝鮮人の情緒の満足のための虚の歴史を
創成せねば自国内の歴史教育もたちゆかない状況にある。


朝鮮半島は、一言でいえば『中国人の創った中国の一地方』である。

キ氏朝鮮は中国の殷の流れ者が立てた。半島、最初の国家と
される衛氏朝鮮は中国の燕の逃亡者の衛満が立てた。
これらについては論争の余地ない。
半島人は昔は「ウリナラは中国から来た聖人が建国した」
という事にしていた。
日帝からの独立後、現在の韓国人の習性にもみられるように
国家としての歴史を持ちたいという民族意識に半島人が目覚めると、
「中国の流れ者が祖である」という真実では我慢ならなくなり、
恒例の誣告的所業が始まった。

妄想坊主の書いた『三国遺事』を愚かにもそのまま真実とし、
檀君を始祖に祭り上げた。
三国遺事は由来が不明で極めてあやしい文献で、イルヨンの
妄想脳のみで書かれたいわゆる偽書である。津軽外三郡誌などは
これにくらべると非常に上質である。
妄想談を歴史的事実とするところが、半島人らしいと言えば言え、
檀君神話のような伝説や歴史の捏造はよくあることであったが、
驚くことには、朝鮮半島という妄想半島では、近現代の20世紀
になっても次のような有り様だ。
『檀君古記?』や『花郎世紀?』 といった偽書が、今なお読まれ
日本のように文献批判されることなく、恥の上塗りのように出版
されるくらいの民度なのである。
もう驚愕するしかないのである。
0803名無しさん@1周年
垢版 |
2018/08/12(日) 08:35:10.10ID:KBg9mlFH0
チョンなんて、ずっと中国か日本の保護国か植民地だったから 独立国にはまだ早いんだろ。チョンは植民地がお似合いだ。 中国人や日本人の前で這いつくばってるの方が、チョンにはふさわしいのにね。
0804名無しさん@1周年
垢版 |
2018/08/12(日) 08:52:12.64ID:Oo+Travw0
>>666
口伝なんて全然情報量無いよ。

同じ時代の日本は、
広域的な徴税、暦の管理、物流、公共事業、
などを文字ベースで管理してる。
0805名無しさん@1周年
垢版 |
2018/08/12(日) 09:55:45.38ID:nN+fFwxZ0
>>734
青森にはウラル系Nが7%いるんだよ。昔の比率はもっと高かったかも。
蝦夷は全員騎馬兵で歩兵がいなかったから、
ツングース系騎馬民族の可能性はあるよ。
蝦夷はアイヌじゃない可能性は高い。
0807名無しさん@1周年
垢版 |
2018/08/12(日) 10:05:41.08ID:NjctwLPv0
国立総合研究院大学の宝来聰博士は、
1万2千年前の縄文人の人骨からmtDNAを採取し、北海道に住むアイヌ人のmtDNAと比較。
するとすべての遺伝子配列が一致する人が見つかり、アイヌ人のルーツは縄文人であると結論づけた。
https://blog.goo.ne.jp/jintai-117/e/b8ee047447bd1688d0e5418f44d87aa2

縄文人=アイヌ 
これはミトコンドリアDNAで証明されている。

つまり、エミシも大和民族も渡来人。
だからこそ、各地にアイヌの地名が残っているが、特に東北は多い。
なぜなら、エミシは「アイヌ系言語」を使っていたからだ。


蝦夷の一部が倭人と異なる言葉を話したことは、古代の文献資料からも裏付けられる。
日本語と区別して「夷語」とされ、しかも、平安時代の鎮守府には通訳が置かれていた。
https://plaza.rakuten.co.jp/odazuma/diary/201602270000/
0809名無しさん@1周年
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2018/08/12(日) 11:36:14.88ID:v2NVbnVV0
>>791
国交省も承知の上で書いてるんだろうけど蝦夷が関東にいた時代に利根と呼ばれてた川にそんな名前つけるだろうか。
今の利根川下流部(利根大堰より下流)ならそういう(2)の印象も分かるけどあれは江戸時代以降のもので、
以前は鬼怒川水系の内湾だった所でしょ。
現在の中川水系などになってる旧下流部についてはどうやら本来の呼称はかなり上流まで隅田川だったようだし、
本来利根と呼ばれてた群馬県内上流部も巨大な谷じゃなくて小規模な谷がたくさんあるのが利根と呼ばれてる川で、
大きな谷があるのは支流ばっかりじゃない。
0810名無しさん@1周年
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2018/08/12(日) 12:33:44.49ID:ghI8nBkQ0
ヤチ、ニタ、ベツとかアイヌ語(=縄文語)由来の地名だし、被差別部落のことが多い。

例)ヤチ中→ヤス中
0811名無しさん@1周年
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2018/08/12(日) 12:58:01.78ID:kDUk542r0
>>805
ツングースから文化を取り入れた日本固有のD系統(縄文人)が
アイヌ・エミシなのではないかな
0812名無しさん@1周年
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2018/08/12(日) 13:31:53.46ID:kDUk542r0
エミシの馬文化はいかなる由来か定かではないが
田村麻呂と激戦した8世紀後半には騎馬戦の名手であったのは確かなようだ
日本への馬の伝来は4世紀ごろと言われている
これは当時大陸で高句麗と激戦する中で、大陸の戦術を日本にも持ち込む必要があったのだろう
5世紀になると東国(特に群馬栃木など)は馬の名産地になる
これがいかなる経路で東北エミシに伝来したかだな
0813名無しさん@1周年
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2018/08/12(日) 13:42:03.16ID:kEsAjEym0
尾駮の牧
下北半島の付け根は馬産地
ポニーみたいな馬が主流の時代に野生の大型馬を捕らえ手なづけ献上していた。
0814名無しさん@1周年
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2018/08/12(日) 13:59:36.10ID:kDUk542r0
>>813
エミシの馬は体高が高く優美であったと言われるね
0815名無しさん@1周年
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2018/08/12(日) 14:16:00.44ID:D7Bfym9A0
大陸の戦術なんか使ってない

逆だね
日本固有の戦術に特化した

剣は直刀から、湾曲した日本刀に進化
騎射も日本固有のロングボウ
0816名無しさん@1周年
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2018/08/12(日) 14:33:43.83ID:+rD6gkys0
このスレ、長寿過ぎ
0818名無しさん@1周年
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2018/08/12(日) 15:45:02.95ID:v2NVbnVV0
>>813
野生状態の馬がいたってことはさらに前の時代にその地域に馬を持ち込んで放し飼いにしてた人が既にいたってことだよね。
騎馬民族征服説なんてとなえた人がかつていたけど、反朝廷勢力にも早い時期に馬は伝わっていたんだね。
0819名無しさん@1周年
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2018/08/12(日) 16:23:35.49ID:9uAMJeRN0
>>8
尾駮の牧は良いとして、ポニー云々は某氏の宣伝過多かと。

普通ポニーと言ったら、日本人ならドワーフポニーを想像するが、ポニーの本当の定義は範囲が広く殆どのアラブ種以外の馬は
ポニーに入ってしまう。アラブ種は確かに大きくて足が速いが、ご存じの通り骨折しやすく、戦闘では使えない。あくまで競走馬だ。

モンゴルもポニーでユーラシア大陸を制覇したし、日本のサムライが乗っていたのもポニーだ。
0820名無しさん@1周年
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2018/08/12(日) 16:24:55.16ID:9uAMJeRN0
ちなみに、南部藩はアラブ種を江戸時代から輸入して飼っていたから、尾駮の牧にアラブ種が
いたのは江戸時代からか?
0821名無しさん@1周年
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2018/08/12(日) 16:31:44.36ID:Z4riQ0lc0
エミシは元々ヤマト政権にいた人々、それも王クラスの人々と地元民の混血だと思うけどね
0822名無しさん@1周年
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2018/08/12(日) 16:39:57.17ID:StAdtWOH0
モンゴル馬とロシア馬の雑種だろ。江戸期じゃなく室町。それ以前はモンゴル馬だろ。
0823名無しさん@1周年
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2018/08/12(日) 16:40:12.77ID:MT7rZu6e0
>>41
それは「アイヌ文化の成立時期」と「アイヌの成立」を混同した暴論

アテルイはエミシであり、エミシはアイヌと同系統の言語、すなわち
東北各地に残る「アイヌ語地名」と呼ばれるものの元になる言語を話していた
0824名無しさん@1周年
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2018/08/12(日) 16:46:01.15ID:ghI8nBkQ0
体高1mくらいなんだから、ポニーと言ってよいよ。江戸時代までの馬はそんなもん。
0825名無しさん@1周年
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2018/08/12(日) 16:47:15.58ID:9uAMJeRN0
>>823
アイヌ文化を近世のアイヌが作っている様なムックリとかイヨマンテとか木製品に求めるとそうなるという話だよな。

それ以前にも、人種としてのアイヌ人は居ただろうし、言語や血のつながりはあったと思う。
0827名無しさん@1周年
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2018/08/12(日) 16:56:09.19ID:StAdtWOH0
長脛→三ノ輪山→虫、蛇→近畿の王
阿彦?安日彦?→越→まっかつ
0830名無しさん@1周年
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2018/08/12(日) 17:00:39.30ID:StAdtWOH0
三内丸山がアイヌ、エヴェン、近畿原住民を総て受け入れた。
蝦夷とは言わない。
原日本人。
0832名無しさん@1周年
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2018/08/12(日) 17:05:19.28ID:PKzgTblWO
>>678
長岡京は日向市じゃなく向日市ね
0835名無しさん@1周年
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2018/08/12(日) 17:09:13.21ID:kDUk542r0
>>821
大和政権あるいは大和政権と敵対した国津神が東北に移住してエミシの王となったのかもなあ
エミシ自身はD系統の濃い縄文人みたいな気はするが
0838名無しさん@1周年
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2018/08/12(日) 17:14:29.72ID:6tABqb9d0
歴史オタクがハッスルするスレ
0839名無しさん@1周年
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2018/08/12(日) 17:15:04.89ID:wfT5ERPc0
>>833
米は中国南部から渡来したので、南洋経由で漢人が流入して混血したと見るのが妥当だよね。
0841名無しさん@1周年
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2018/08/12(日) 17:18:59.41ID:D7Bfym9A0
つーか、平地で速度を早くするために作られたサラブレッドがでかいんですけどね
で、そんなの昔はいない
0842名無しさん@1周年
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2018/08/12(日) 17:20:48.39ID:gEUnOXtG0
>>831
732名無しさん@1周年2018/08/09(木) 00:54:16.09ID:iDAey4Ei0

新羅本紀

14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。
59年 夏の五月に倭国と友好関係を結んで修交し、使者を派遣し合った。
73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。
121年 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。
123年 春三月に倭国と講和した。
158年 倭人が交際のために訪れた。
173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)
193年 倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来。
208年 夏4月、倭人が国境を侵す。奈解王は将軍利音に反撃させた。
232年 夏四月に倭人が金城を包囲。
233年 五月 倭兵が東辺を攻めた。
249年 夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。1千人を捕虜にして立ち去った。
289年 夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。
これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。
いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
300年 春正月に、倭国と使者を派遣し合った。
312年 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿飡の急利の娘を倭国に送った。
344年 倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。
345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。
364年 倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。
393年 倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。
402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。
405年 倭兵が明活城を攻める。
407年 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める。
408年 春二月、王は、倭人が対馬島に軍営を設置し、兵器・武具・資財・食糧を貯え、我が国を襲撃することを企てているとの情報を手に入れた。
倭兵が出動する前に、精兵を選んで兵站をしようと考えたが、舒弗邯の未斯品曰く「兵は凶器であり戦は危険な事です。
ましてや大海を渡って他国を討伐し、万が一に勝つことができなければ、後で悔やんでも仕方ありません」王はこの意見に従った。
0843名無しさん@1周年
垢版 |
2018/08/12(日) 17:20:57.08ID:NX4NSO2x0
北日本の縄文人は「悪魔の門の洞窟人」と近いらしいから、ツングース系の人もいたのかもねぇ。(´・ω・`)
0844名無しさん@1周年
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2018/08/12(日) 17:21:13.63ID:gEUnOXtG0
765名無しさん@1周年2018/08/09(木) 01:56:49.20ID:lzgG6LDg0
>>732
倭人の代表的存在である邪馬台国の卑弥呼以前にも
倭人達は統一した活発な海外行動をとってたんだ知らなかった

26日本@名無史さん2018/08/11(土) 23:38:29.31
>>25
「 新羅と百済は、どちらも倭は大国で貴重な物が多いと考え
 
 倭人達を新羅人や百済人は敬い見上げている。」

中国王朝二十四史書 『 隋書倭国伝 』より抜粋

倭人たちより古代から格下民族だったことを朝鮮民族は自ら自覚してたのを
中国人の客観的史書でも明らかにしてる
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