>>433
1942年4月、福岡県第一区の候補に翼賛政治体制協議会から推薦されて立候補したときは、
選挙公報の中で「仕事の為には汗を流せ、人の為には涙を流せ、御国の為には血を流せ」
「お互は飽くまで米英を打倒し、アングロサクソンの世界制覇を覆滅すべく、
 一億一心国を挙げて老も若きも鉄火の一丸となり、如何なる困難の中にも突入し且つ此れを突破して、
 必勝不敗の態勢を完成せねばなりませぬ」と挨拶した。
翼賛議員としては、東條政権による朝鮮人徴兵法案の法制化に賛成。
1943年6月14日、天皇主義的な議員集団「八日会」の結成に発起人の一人として参加、
中野正剛や赤尾敏らと共に結成式に出席し、「激励的発言」をおこなった。
「大東亜戦争」の開始日に由来する名称を持つこの八日会の「信条」は、
「我等は一切の行動を国体の本義に発す」
「我等は大詔を奉戴し断じて戦ひ断じて勝つの信念を以て行動す」というものであった。
帝国議会予算委員としては戦時予算の全てに賛成するなど積極的に戦争協力していたが、
敗戦後は突如として軍国主義を指弾する側に転じ、
「私は戦争中は全水運動と共に、反戦的な言葉をつねに洩らし戦争の負けることを語つていた」、
「私はいつも反戦的な思想を表明していたわけであつた」
「私は根つからの反軍国主義者であり、民主主義者である」と語るようになった。

気骨w