総踊り
https://www.asahi.com/sp/articles/ASL8371RZL83IIPE032.html

 父母は僕が生まれる前の1933年、父の実家があった小樽から、旧満州(中国東北部)に渡りました。醸造業を営むわが家は関東軍に酒を納め、ガラス工場やホテルも経営していました。従業員に「坊ちゃん」と呼ばれていた僕は、ゆりかごの中でうたた寝していたようなものです。終戦の年は、小学1年生でした。
 〈1945年8月8日、旧ソビエト連邦が日本に宣戦布告し、旧満州に侵攻。南樺太や千島列島にも攻め込み、戦闘となった。〉
ハルビン避難中、機銃掃射に

 出張中だった父を残し、母は僕と7歳上の姉、3人の女中を連れてハルビンへの避難を決めます。11日夜、軍人やその家族を避難させる軍用列車に乗りました。避難列車がなかなか来なくて駅が大混乱する中、母がかけ合って特別扱いを受けたのです。
 翌朝、列車が止まり、機銃掃射に遭いました。母に指示されるまま座席の下に潜り込んだら、バババババーッと銃撃音がして、通路の床板に1メートルほどの間隔で穴が開きました。頭からわずか、30〜40センチのところです。穴の周りは、木がささくれだって山になっている。軍人が僕のほうを向いて倒れ、頭から血を流して死んでいました。
 その後、動かなくなった列車に代わり、軍が調達してきたのは石炭を運ぶ無蓋車(むがいしゃ)でした。川にさしかかった時のこと。関東軍はソ連の侵攻を遅らせようと橋などを爆破していました。その鉄橋は完全には壊れていませんでしたが、人を乗せたままではもたない、と。そこで全員下りて、川を歩いて渡ったのです。
 渡り終えたときは、平原に夕闇が迫っていた。乗ってきた無蓋車を見ると、別の団体が乗り込もうとしていました。中国人の襲撃やソ連軍の機銃掃射を受け、着の身着のまま逃げてきた満蒙開拓団の人たちです。列車を見て、助かったと思ったのでしょう。しかし軍人は「これは軍用列車だ」と空にピストルを撃ち、下りるよう命じました。
 〈満蒙開拓団は、31年の満州事変後、日本各地から中国東北部に送り込まれた農業移民団。農村の貧困を救う名目だったが、北方警備の役割も負わされた。〉
 確かに元々の乗客と団員全員が乗るのは人数的に無理で、「乗れるだけでも」という開拓団員の懇願を軍人はきっぱり断りました。でも食べ物もないまま置き去りにすれば、襲撃や機銃掃射に遭わなくても、生きていけないだろう、と子どもにもわかりました。
■人間のエゴ、僕も加…