■堺屋メモ3
経済の東京集中政策

東京一極集中を決めた重要法案団体令が公布される前に、すでに全国団体をつくっていた業界がありました。
典型的なのは繊維業界です。明治時代から繊維業界には全国団体があり、そのほとんどが大阪にありました。

政府では、「これはけしからん」ということになったのですが、当の団体は大阪から動かない。
1960年代になって大阪の繊維団体を東京へ移すことが通産省の重要テーマになりました。
繊維団体は紡績協会、毛織物協会、化繊協会、アパレル協会など、十数団体、その職員も800人ほどいる。
その上に繊維新聞などのマスコミも大阪にあります。これら繊維業界と通産省の摩擦が激しくなりました。

そこへ、昭和43(1968)年に日米繊維摩擦が起こります。これは国際問題だから国が交渉しなければならない。
アメリカは日本の繊維品輸出を自主規制するように主張しましたが、その限界の数量をどうするかが決まらない。
ところが通産省は、対米交渉するには大阪の繊維団体が東京へ移転することが先だ、という条件を出しました。
当時は通産省には繊維局があり、局長は三宅さんという人でしたが、

「敵は米国にあらず大阪なり」と断言したものです。

当時の宮沢喜一通産大臣の在任期間には解決できませんでした。
ようやく次の田中角栄通産大臣になり、宮崎輝さんという当時の旭化成の社長が
「800人の職員をいっぺんに移せといわれても住宅も手当てできないし、
コストもかかるから、紡績や化繊、合繊、毛織物などいろいろな団体の上に、
屋上屋を架すような繊維工業連合をつくって、その本部を東京へ置き、私がその会長になって
三田のマンションに住みますから、何とかアメリカと交渉してください」ということで決着しました。

しかし、その後も通産省は圧力をかけ続け、いまや繊維工業団体の中で大阪に本部事務局が残っているのは、
紡績協会ただ一つ。あとは全て移転しました。