やまぐちQ&A 郷土のあゆみ

中 世

平安時代から鎌倉時代にかけては、地方の武士団が台頭し、周防国では朝鮮半島の百済(くだら)の王族を祖と称する大内氏、長門国では厚東氏が、確固たる地位を確立していきました。
室町時代に入ると、大内氏が、24代弘世(ひろよ)のとき防長2国を平定。山口に京の都を模した町をつくるとともに、朝鮮や明との貿易で財力を蓄え、大陸文化の導入に努め ました。


本県には、古くから大陸文化受容の先進地として、多くの遺跡が残されています。
響灘沿岸地域には、下関市の綾羅木(あやらぎ)郷(ごう)遺跡、梶栗浜(かじくりはま)遺跡、地蔵堂遺跡、下関市の中ノ浜遺跡、長門市の向津具王屋敷(むかつくおうやしき)遺跡など、中国大陸や朝鮮半島の古代文物を伴う遺跡が多く分布しています。


朝鮮通信使

大内氏没後、戦国時代を経て日本は長い鎖国の時代を迎えますが、江戸時代の鎖国下の日本にあって、李氏朝鮮は正式な国交のあった唯一の国でした。
将軍の代替わりや世子(世嗣)誕生などの折に、朝鮮国王の親書をもって来日した友好使節団を朝鮮通信使といい、1607年から1811年の200年余りの間に12回来日し、長州藩には潮待ちや風待ちのため、下関と上関に寄港しています。
文教を尊ぶ藩風を持つ長州藩では、朝鮮通信使を厚くもてなし、儒学の先進国であった朝鮮の文人たちから水準の高い文化の吸収に努めました。
http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/gyosei/koho/portal/qanda/ayumi.html