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学問のすゝめ

政府の強大にして小民を制圧するの議論は、前編にも記したるゆゑ爰(ここ)
にはこれを略し、先づ人間男女の間を以てこれを云はん。抑(そもそ)も世に
生れたる者は、男も人なり女も人なり。此世に欠く可らざる用を為す所を以て
云へば、天下一日も男なかる可らず又女なかる可らず。其功能(こうのう 働き)
如何にも同様なれども、唯其異なる所は、男は強く女は弱し。大の男の力にて
女と闘はゞ必ずこれに勝つ可し。即(すなはち)是れ男女の同じからざる所なり。

 今世間を見るに、力ずくにて人の物を奪ふ歟、又は人を恥しむる者あれば、こ
れを罪人と名づけて刑にも行はるゝ事あり。然るに家の内にては公然と人を恥し
め、嘗(かつ)てこれを咎(とがむ)る者なきは何ぞや。女大学と云ふ書に、婦人
に三従の道あり、稚き時は父母に従ひ、嫁(よめい)る時は夫に従ひ、老ては子
に従ふ可しと云へり。稚き時に父母に従ふは尤(もつとも)なれども、嫁(とつぎ)
て後に夫に従ふとは如何にしてこれに従ふことなるや、其従ふ様(さま)を問はざる可らず。

 女大学の文(ふみ)に拠れば、亭主は酒を飲み女郎に耽(ふけ)り妻を詈(ののし)
り子を叱(しかり)て放蕩淫乱を尽すも、婦人はこれに従ひ、この淫夫を天の如く
敬ひ尊(たふと)み顔色(がんしよく)を和(や)はらげ、悦ばしき言葉にてこれを
異見(意見)す可しとのみありて、其先きの始末をば記さず。

 されば此(この)教(をしへ)の趣意は、淫夫にても姦夫(かんぷ)にても既に
己(おの)が夫と約束したる上は、如何なる恥辱を蒙るもこれに従はざるを得ず。唯
心にも思はぬ顔色を作りて諌(いさむ)るの権義あるのみ。其諌(いさめ)に従ふと
従はざるとは淫夫の心次第にて、即ち淫夫の心はこれを天命と思ふより外に手段あることなし。

 仏書に罪業深き女人(によにん)と云ふことあり。実にこの有様を見れば、女は生
れながら大罪を犯したる科人(とがにん)に異ならず。又一方より婦人を責(せむ)
ること甚しく、女大学に婦人の七去(しちきよ)とて、淫乱なれば去ると明に其裁判を
記せり。男子のためには大に便利なり。あまり片落なる教ならずや。畢竟男子は強く
婦人は弱しと云ふ所より、腕の力を本にして男女上下の名分(差別)を立(たて)たる教なる可し。