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https://ja.wikipedia.org/wiki/中国のキリスト教

イエズス会士たちは以後、明朝と清朝の宮廷を中心に活躍し、キリスト教を宣教しながら、西洋の最先端の
科学知識を惜しみなく中国に伝えた。リッチ以降の著名なイエズス会員としては、明の宮廷に西洋科学を伝え
たサバティーノ・デ・ウルシス(熊三抜)、明末および清初の宮廷で暦法を伝えたアダム・シャール(湯若望)、
康熙帝の信頼厚く工部侍郎に任ぜられたフェルディナント・フェルビースト(南懐仁)、フェルビーストの後
を継ぎ『康熙帝伝』を著したジョアシャン・ブーヴェ(白晋)、ネルチンスク条約締結において清朝側の代表
としてロシアと交渉したジャン・フランソワ・ジェルビヨン(張誠)およびトマス・ペレイラ(徐日昇)、康熙帝
の側近として20年以上仕えたドミニク・パルナン(巴多明)、実測によって『皇輿全覧図』を完成させた
ジャン・バティスト・レジス(雷孝思)、三代の皇帝に仕えて多くの絵画を残したジュゼッペ・カスティリオ
ーネ(郎世寧)、『孫子』『呉子』『司馬法』などをフランス語訳によってヨーロッパに紹介したジョセフ・
マリー・アミオ(銭徳明)などがあげられる。 17世紀後半にはロシア人コサックが北京などに入植し、正教が
再度伝来した。 しかし、フランシスコ会やドミニコ会などがイエズス会の適応政策を批判、イエズス会は中国
における偶像崇拝を容認していると教皇庁へ訴えた。これが典礼論争である。欧州各国の王権が強まる中で国
を超えて活動しながら教皇に忠誠を誓うイエズス会は危険視され、これを機会に総攻撃を受ける。典礼論争は単な
る宗教問題ではなく、政治問題でもあった。1773年に中国におけるイエズス会は解散に追い込まれ、宣教活動も
終止符を打つことになる。一方で、正教会は存続した。