大学生のころ、僕はまだキリスト教徒として生活していました。いろいろな教会のイベントや活動などにも参加して、同年代のクリスチャンの知り合いもたくさんいたのです。

そんな中で、ある正教徒の友人がいたのですが、彼が、学校で知り合いになった黒人の友人を教会へ連れていったとき、教会の神父が、

「もう二度と連れてきてはいけない」

と彼に言ったのだそうです。

理由は、もし、その黒人男性が教会を気に入って、洗礼を受けたい、と言い出した場合、教会としては拒否することはできない。そんなことになったら、同じ聖杯から領聖(聖餐)することになってしまう。そうなると他の信者の迷惑になる、ということなのだそうです。

正教会の聖餐式は、ぶどう酒の入った金属製の大きな杯に細かく割った
パンを浸し、一つづつスプーンですくい上げて、信者の口に入れる、という方式ですので、正直なところあまり清潔とは言えません。それに、どこの馬の骨とも知れない黒人が加わったら
迷惑になるだろう、とその神父は考えたわけです。

さすがにちょっと気が引けますので伏せ字にしますが、神父はさらに、

「◯◯人とか◯◯◯◯◯の人とかも連れてきちゃいけないよ」

と言ったのだそうです。

僕はその話を聞いて、心底びっくりしました。
でも、実際そんなものなんでしょうね。そういう僕だって、まるきり差別意識が無いのか、と言えばそれは言い切れません。「ああ、やっぱりな」などと考えてしまうこともあります。
しかし、聖職者がそんなこと、とも思いますよね。果たしてどうなんでしょうか。

その友人、彼も幼児洗礼ですが、「教会は悪いところ」ということになってしまったようです。
でも、考えようによっては、キリスト教の教理が差別そのものですよね。神父はキリスト教的には正しかったのかもしれません。