https://ja.wikipedia.org/wiki/中華思想

日本
明が異民族王朝の清に支配されると、日本の朱子学者の一部、林羅山などは、日本の天皇家は中華正統王朝
である周王朝の分家である呉の太伯の子孫であるから、日本こそは中華であると主張し始めた。更に、明の
遺臣の一部は清に仕えることを潔しとせず抵抗もしくは亡命し、そのうちの一人である朱舜水は、夷狄によ
って治められている現在の中国はもはや中国でなく、亡命先の日本こそが中華であると述べた。日本の江戸
時代の儒学者山鹿素行は著書『中朝事実』の中で「日本ではすでに神道という聖教が広まっており、もし聖人
の道が行われていることが中華であることの理由ならば日本こそが中華である」という主張をした。これら
が後に水戸学や平田派国学へも思想的影響を与え、幕末の尊王攘夷論に結びつくこととなる。 また、国学者
本居宣長は歴史書『馭戒慨言』『うひ山ぶみ』『玉勝間』などの著作において「まづ漢意(からごころ)をき
よくのぞきさるべし」と儒教などの中華的精神の排除の必要性を強く主張している。

明治維新後は朱子学教育を受けた下級武士階級が政権を担ったこともあり、西洋のキリスト教社会に対抗す
るために朱子学的な道徳が広められ、太平洋戦争中に天皇を現人神として崇め奉り、軍部が敗色濃厚になるや
神州(中華正統王朝)不滅を唱えるに至ったのは、朱子学に基づく中華思想に影響されたものであるという[22]。

朝鮮
詳細は「小中華思想」および「中国朝鮮関係史」を参照
朝鮮の歴史においては中国と直接国境を接しているため安全保障の背景から皇帝に対し臣下の礼をとり国内
の敵対国との抗争に有利な立場を得たり儒教及びそれに伴う華夷観を受容し、中華に同化することで自国の
格上げを図る道を選択するなど[23]、自らを「中国(大中華)と共に中華を形成する一部(小中華)」と見なそうとした。