東京が江戸だった時代から地方は奴隷

江戸は諸藩の犠牲の上で成り立ってた

徳川家は将軍様の為だけに、幕府予算の25%を大奥に使ってた

地方の大名は、江戸幕府への参勤交代と手伝い普請の負担で借金を抱えさせられ江戸に米を送らされた
諸大名に資材や人足を負担させて、江戸城とその城下町などの建設をやらせ借金漬けにして

江戸期は生産地と消費地を分離させて

弘前藩では天明の飢饉で農民や町人の3分の1が餓死したとされてるが
収穫された米が江戸や大阪に送られ換金されてた
弘前藩は多数の餓死者を出した、その年に40万俵を江戸に送っている

仙台藩も幕府への手伝い普請の負担で借金を抱え収穫された米は、ほぼ江戸に送られていた

元禄の飢饉 1691年〜1695年による弘前藩領内・津軽一円の餓死者は20万人にも及んだ

宝暦の飢饉 1755〜1757にかけて東北地方を襲った飢饉。現在の岩手・宮城の両県にわたる範囲で約5万ないし6万人の餓死犠牲者が出たとされる

天明の大飢饉(1781〜89年)  餓死者の数は、仙台藩で20〜30万人、盛岡藩で6万人、津軽藩で8万人余、南部藩で6万5000人、八戸藩で3万人余に及んだ
弘前藩では農民の3分の1が死亡

天保の飢饉 1830年代の天保3年〜10年の連続凶作 天保4年、秋田藩の人口はおよそ40万人、うち死者が10万人
津軽藩では天保10年だけで餓死者3万6000人

江戸(現在の東京)は地方の農民の死屍累々の上で成り立ってた