>>569

孔子は「巧言令色鮮し仁」とするが、社会的身分が賎しかった孔子自身も10代の頃から 散々辛酸をなめていただろう(仕官しようとして下郎と鼻先であしらわれたりした)
だからこそ徳のある自分をさしおき、口先やおべっかばかりの人間が出世することが悔しかった、そして糾弾することになる
孔子とその弟子は礼を知る者=聖人こそが王となるとしたが、肥大化した自意識と、野合の子と揶揄された孔子の現実とは乖離が生じる
当時の常識から考えて儀礼(序列)や王朝序列に詳しいだけの孔子に天下人となる機会があるわけもない

「衛靈公問陳於孔子。孔子對曰。俎豆之事。則嘗聞之矣。軍旅之事。未之學也。明日遂行。在陳絶糧。從者病。莫能興。子路慍見曰。君子亦有窮乎。子曰。 君子固窮。小人窮斯濫矣。」

霊公に戦略について問われると返答に窮して、自身の学問の興味は王朝儀礼にしかないと答えた
即座に(理由を一切述べずに)衛を追われるように後にする。衛からの出奔した後すぐに食料が
なくなり弟子が腹をすかしたら、小人だから不満をもつと弟子をこき下ろした(先を見通さずまともな計画もなく逃げた師匠の責任は?)
(孔子は、素王であり君子の器、後には皇帝を超越する存在となったが、このエピソードからは凡人さが伺える。中国的英雄なら冗談の一言でも言っただろう)

「子曰。述而不作。信而好古。竊比於我老彭。」

自分は古いものが好きで、何も(新しいものは)作らないと孔子は言う。古きものとは、孔子が名声を得るために知ったかぶりをしていた(仕官後は除外)王朝儀礼のことだ
時代が変わっても、建前や外見を変えるけで、教えを変えることは許さない。だから後世においても、儒教において王朝儀礼とそれが定義する序列を変えることは罷りとおらぬ

https://ja.wikipedia.org/wiki/八イツ

「其或繼周者。雖百世可知也。」と100世後のことでさえも予期できるという孔子だが

「或問「」之。子曰:「不知也。知其者之於天下也,其如示諸斯乎?」指其掌。」

と自分の専門分野である祭りについて、知っている者から問われると、そんなものを知らぬ、知ってるなら天下を操れると言い訳する孔子

「子入太廟,事問。或曰:「孰謂人之子知禮乎?入太廟,事問。」子聞之曰:「是禮也!」」

と 太廟の中での儀礼について知っているとの話しは明らかに嘘だと見抜かれて問い詰められると、知らぬふりをするが礼儀と開き直る孔子

議論をするものを小人と見下すがこの節に限れば揚げ足どりにすぎず、自らの無知を指摘するための非難を交わすための方弁に使っていると言えるし
そうでなくとも批判に正面から向き合わないのは不誠実だろう。相手を信用しない猜疑心も行き過ぎだ
むしろ上から目線で相手を試すことで無用なストレスを与えて気遣いがない

『史記』孔子世家によると孔子は天子になれなかったことを嘆きながら失意のもとで死んだとされる
弟子や他者に自らの批判をさせない姿勢や、議論から逃げる姿勢は、過度な自尊心とマウント的気質が自らの徳を弟子をして天子座位と同一視するまでに至ることに繋がる

孔子には、なまじ中年になってから出世できたからこそ、若き日と晩年(君主にさえなれると弟子から持ち上げられる)の落差によって様々にこじらせた感情があるという指摘がある