記事から逆算して200年前後の間、最大時で八十戸、
少なくとも数十戸の集落が存続してたにしては残ってる墓の数が少なすぎるよね
柿渋を製造して柿渋による二次的な生産品をつくったり柿渋を使った技術を供与して
暮らしていた集団の集落ならば、もともと半定住の住み方だったんじゃないの

柿渋は、防腐・防虫・防湿効果があるんで、昔の木造の建物の基礎部分や塀や外壁に
塗られたりしてたんだが、そういうのは現地まで行かないと対応できないわけだし、
柿渋を使った二次製品をつくるには二次製品の材料のある場所でないといけない
比較的大きな需要のある場所や、生産拠点になる場所の何か所かに集落をつくって、
その時々の作業上の必要によって移動しながら暮してた人々じゃないかと

そうだとすれば、他の定住農民集落と違い、疫病が発生したと同時に他の拠点への
転居が進行して高速で無人化したと考えられる
墓が少ないのも、そこを一時的な住居として使っていて本拠地とはしていない住人が
一定の割合を占めてたからだと考えればつじつまが合う