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収容所の結果は200年前にイギリスが確認済み
チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%A4_(%E7%AC%AC2%E4%BB%A3%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%A4%E4%BC%AF%E7%88%B5)
救貧法改正
イギリスには16世紀以来、救貧法という法律があり、教区ごとに救貧税をとって貧困層保護を行っていたが、
18世紀末頃から貧困層保護の方法について、救貧院収容から直接現金支給へ移行する教区が増えていった(それぞれ院内救済・院外救済と呼ばれた)。
しかし院外救済は救貧税が高くつくため、多額納税者である中産階級から強い反発が起こっていた。
また政治家の間でも院外救済は労働者の労働意欲を削ぐという考え方が広まっていた
そこでグレイ伯爵内閣は1832年にも救貧法事情調査の王立委員会を創設した。
同王立委員会は1834年2月にも「院外救済は労働者を堕落させ、労働意欲を削いでいる」
「労働能力者への院外救済は全廃されるべき」「救貧政策は救貧院収容によってのみ行われるべき」
「救貧院に収容される者の生活水準は収容されていない者の生活水準を下回らねばならない(「劣等処遇の原則」と呼ばれた)」とする報告書をまとめた。
この調査結果に基づいてグレイ伯爵は同年のうちに救貧法改正を行い、院外救済を廃止し、今後の救貧政策は救貧院のみとした。
これにより労働者は、牢獄のような救貧院に入りたくなければ、低賃金でも労働しなければならない状況に追い込まれた。
自由主義ブルジョワの要求は満たされたが、労働者層からは激しい反発が巻き起こった。
とりわけ「劣等処遇の原則」は強く批判され、この不満は10時間労働の法制化を求める運動も加わって、後にチャーティズムとして爆発することになる。
救貧法 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%91%E8%B2%A7%E6%B3%95
新救貧法
19世紀に入って自由主義思想、古典派経済学が主流になると、救貧制度にも影響を及ぼした。福祉費用は削減される方向へ向かった。
こうして成立した1834年の新救貧法の骨子は以下のようになっている。
・議会から独立した救貧法委員会を設置し、救貧行政にあたる。
・教区(15,000)ごとの救貧を改め、教区連合(600)ごとに救貧を行う。
・院外救貧を全廃し、懲治院による救貧のみとする。
・救済は「最下級の労働者以下」の待遇とする。
こうした諸改革の結果、救貧税は劇的に抑制することに成功した。
フリードリヒ・エンゲルスは「最も明白な、プロレタリアートに対するブルジョワジーの宣戦布告」とこき下ろしたが、
当時は救貧法に甘える貧民たちに対する反感が勝っていた。
懲治院は史上最悪の環境となり、イギリス全土におよぶ貧民・労働者の暴動という事態を招き、
資本家と労働者の対立を激化させることになるなど、結局は新救貧法も悪化をたどることとなった。