135 カリフォルニアって反日、

150 カリフォルニアといえば高速鉄道のときも日本が入札できないように妨害してた

今では日本でも観光名所として有名なサンフランシスコだが、戦前、この地から排日が始まったと
知っている日本人は少ないのではないだろうか。

日露戦争の1年後の1906年4月18日早朝この町を大地震が襲った。世にいう「サンフランシスコ大地震」
であるが、律儀な日本人は義捐金として24万ドル≒50億円超をこの町に贈った。

この金額は、その他各国の援助金の総額より多かったのだが、アメリカの日本へのお返しは同じ1906年に
サンフランシスコの条例として定められた「日本人(日系を含む)」の隔離教育だった。

地震による校舎崩壊による整理集合というのが表向きの理由だが、たった百人
ぐらいの学童を、無理に東洋人学校にまとめる必要性は全くなかったと言われている。


これは、ルーズベルト大統領の異例の指示で1年で廃止されはしたが、地震の
翌年、1907年には、この地で「反日暴動」が起き、日本人コミュニティー
は甚大な被害を被っている。

さらに1908年には、日米紳士協定という名の実質的移民制限処置が行われ
ている。ーーーそれでも日本は日米友好を信じ、1909年にワシントンへ桜
を贈っている。
不幸にも害虫によって最初の桜は焼却処分にされてしまったが、駆除方法を完
璧にして、1912年に再度桜が贈られている。これが今有名なポトマック河
畔の桜である。
そのお返しにと頂戴したのが、1913年の「外国人排除法」である。

これは別名、「カリフォルニア排日土地法」ともいわれるものだが、要は子々
孫々日系人には土地を売らない、持たせない、という法律である。

その後も次々と日本を締め出す政策が取られているが、第一次世界大戦で米兵
として活躍した日系兵士が、やっと手に入れた帰化権や既に帰化している日本
人の権利まで剥奪するということを平気で行っている。

これが彼らのいう「民主主義」である。
この当時の民主主義は白人のものであって、黄色人種や黒人のものではなかっ
たのである。日本との友好を口にしながら、やっていることは真逆のことでは
ないのか。