南京事件を最初に世界に知らしめたのは、オーストラリア国籍の記者、ティンパーリーの
書いた“What War Means : the Japanese Terror in China”という書籍である。
南京事件の翌年の1938年に早くも出版された。ちなみに彼は英国のマンチェスター・
ガーディアンの中国特派員だった。
一流紙の特派員で、中国とも日本とも関係のない第三国の人物による書籍との触れ込みで、
彼の書籍には信頼が寄せられ、残虐行為の有力な証拠ともなった。南京大虐殺の日本断罪は、
この書物から始まったともいえるのだ。
北村氏が発掘した事実は、ティンパーリーの隠された素顔に関するものだ。じつは彼は公平な
ジャーナリストなどではなく、蒋介石の国民党の対外宣伝工作に従事していたというのである。
上の事実は『新「南京大虐殺」のまぼろし』(飛鳥新社)を書いた鈴木明氏も指摘しているが、
北村氏はさらに調査を進めてさらなる新資料にたどりついた。そのうちの一つは国民党中央
宣伝処の曾虚白処長の自伝だ。自伝のなかで曾は次のように書いている。
「ティンパーリーは都合のよいことに、我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に上海の
『抗戦委員会』に参加していた三人の重要人物のうちの一人であった。(中略)我々は秘密裡に
長時間の協議を行い、国際宣伝処の初期の海外宣伝網計画を決定した。我々は目下の国際宣伝に
おいては中国人は絶対に顔を出すべきではなく、国際友人を捜して我々の代弁者になって
もらわねばならないと決定した。ティンパーリーは理想的人選であった。かくして我々は手始めに、
金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の大虐殺の
目撃記録として2冊の本を書いてもらい、発行することを決定した」
こうして極めてタイムリーに日本断罪の書が出版されていった。公平な第三者の著作のはずが、
じつは国民党宣伝部の資金を受けていた人物によって書かれたものだったのだ。それが元に
なって南京大虐殺説が生まれてきた。