佐々淳行氏死去 初代内閣安全保障室長

佐々淳行氏
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産経 2018.10.10 15:50
http://www.sankei.com/life/news/181010/lif1810100019-n1.html

 産経新聞の正論メンバーで初代内閣安全保障室長を務めるなど危機管理、安全保障のパイオニアとして知られる佐々淳行(さっさ・あつゆき)氏が10日、老衰のため死去した。87歳だった。通夜は15日午後6時、葬儀・告別式は16日午前11時半、東京都港区南青山2の26の38、梅窓院で。喪主は妻、幸子(さちこ)さん。
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追加ソース
「ミスター危機管理」被害減らす発想の重要性説く 佐々淳行氏死去

佐々淳行氏=大阪市北区中之島のリーガロイヤルホテル(頼光和弘撮影)
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産経 2018.10.10 19:49
https://www.sankei.com/life/news/181010/lif1810100023-n1.html

 「ミスター危機管理」として親しまれた佐々淳行(さっさあつゆき)氏が亡くなった10日、菅義偉(すがよしひで)官房長官は、記者会見で「危機管理のプロとして大いに活躍した。功績をしのび、ご冥福をお祈りする」と述べた。また、業績について「危機管理という言葉が多くの国民に知られるようになった」とたたえた。

 防衛庁へ出向中の昭和52年、米ソが核戦争の危機に直面した「キューバ危機」の米側対処を研究していたときのこと。「クライシス・マネジメント」という言葉が多用されていることに気付く。それに「危機管理」の訳語を当てて防衛白書に書き込んだのが、佐々氏だった。

 佐々氏は常々、国家的危機のときの政治権限の明確化などを訴えていた。

 だが平成7年の阪神大震災の際、災害対応で後手に回る村山富市(とみいち)政権を目の当たりにする。発生約2カ月後、産経新聞のインタビューで「危機管理システムの国家的な構造的欠陥がやられた」と無念の胸中を明かしている。

 父の弘雄氏は政治学者出身で後に朝日新聞論説委員室主幹などを経て参院議員。兄も東大から朝日を経て作家となった。戦国武将の佐々成政の流れをくむ佐々家の「家名を汚すことなかれ」と厳しく教育され、17歳のころ弘雄氏が亡くなり奨学金で東大に進学。

 当初は学者かジャーナリストを志望していたが、「国民の税金で卒業できた。恩返しに全体の奉仕者となる」と心に決める。

 一方、戦後間もない日本社会は連合国軍総司令部(GHQ)による「民主化」から一転、「レッドパージ」へ激変。極左と極右の両勢力に振り回され、不安定化する国家の危険性を痛感した佐々氏は、治安の安定に貢献したいと29年、国家地方警察本部(現在の警察庁)入りした。

 当時、日米安保などをめぐり学生や労働界の運動が隆盛し、過激派による闘争は苛烈(かれつ)を極めた。長野・軽井沢の企業保養所に連合赤軍が立てこもった47年の「あさま山荘事件」では警察庁から現地に派遣されて幕僚団の一員となり、顛末(てんまつ)を記した「連合赤軍『あさま山荘』事件」(文芸春秋)は映画の原作となった。

 退官後も危機管理に携わり、イラクによるクウェート侵攻やカンボジアでの文民警察官殉職などでも政府に提言を続ける。正論大賞の受賞が決まった際には「『危機に臨んで何をなしたか』については私の右に出る役人はいない。『わが人生に悔いなし』である」と回想した。

 他方、日本のあり方をめぐっても「先の大戦で敗戦した日本はあらゆる面で潰されたまま。歴史認識や領土問題で、まともに反論さえでない。真の再生に向けた若い力を待ち望んでいる」と語っていた。

前スレ(★1のたった日時:2018/10/10(水) 16:20:40.95)
【訃報】佐々淳行氏死去 初代内閣安全保障室長 危機管理、安全保障のパイオニア
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