>>904

イギリスのワット・タイラーの反乱(1381年)は、徴税に来た役人が狼藉を働き平民が反乱(実際には貴族・富裕層も参加)をおこす事態となったが
反乱側の要求である増税の撤廃と、平民の就職・移動の自由(農奴制 の廃止)を国王側はあっさりと認め、反乱以降は平民の労働賃金は上昇し続けた
以降数十年間は領主達は反乱を恐れて反乱側に対する追求(国王の政策顧問殺害者を除く)はほとんどおきなかった

日本では一向一揆で宗教勢力によるクーデターや反乱の反省から寺請制度を導入して寺(特に親鸞・弟子の子孫達)を
特権階級として体制側に組み入れたが、(本田正信)等が懐柔策・分断策を行う

しかし宗派分断政策は幕府との間に回復不可能な遺恨・溝をのこし、長州の反幕勢力を支援させる根拠にもなったという
明治維新においては西本願寺は月性を生み出し、新政府は西本願寺を雄藩なみと位置づけ重視した(長州の維新功労者には真宗門徒が
多く維新に対する貢献度は無視できない)

明治維新の廃仏棄釈から西本願寺は影響を受けず勢力を維持・拡大した

一向一揆の解体の過程、さらに幕府に近い東本願寺の取り込みも、現行の権力構造に組み入れることで、権力の維持を図ることにある

一向一揆型の反乱は(20世紀前半よりも21世紀現在において)共産主義者の脅威よりはるかに深刻なものと考える
明治維新の元勲の子孫達や公家(木戸、西園寺、近衛)が、共産思想に入れ込んだり共存を目指したのもまた
共産思想をとりこんで権力維持を図るためともいえ、共産主義・社会主義という詐欺無神論思想カルトが壊滅し思想が終わった残りかすしかない
現状において権力の中枢の反極にあるため、無視・敵対視をするのは当然だろう

公家や明治元勲一族の実体験において、権力の中枢から離れた一時的な富・権力は実力という個人の能力・運によって盛衰するが、権力の中枢に近くいることができれば
無能が一族にいたり不運に見舞われても、一族の繁栄(富と権力)は約束されるということである

逆に言うならば一向一揆のような命知らずの宗教勢力の反乱は権力維持に対する最大の脅威であり、4-5世紀が経過してもいまだに支配階層にとって
恐怖を取り除けないほどの印象を与えたということだろう

https://ja.wikipedia.org/wiki/大谷暢顯

大谷 暢顯(おおたに ちょうけん、1930年3月27日 - )は、浄土真宗の僧である。法名は「淨如」。
真宗大谷派第二十五代門首(現門[1])。元全日本仏教会会長。明仁(現天皇)の従兄弟にあたる。
兄は大谷光紹、大谷暢順、弟は大谷光道。

https://ja.wikipedia.org/wiki/大谷光勝

文化14年3月7日(1817年4月22日[3] )、東本願寺第二十代 達如の次男として誕生。近衛忠煕の猶子となる。
明治元年(1868年)、近代に入ると、親密であった東本願寺と江戸幕府との関係を払拭し、明治新政府と
の関係改善を図るため、勤皇の立場を明確にする。そのため、北陸や東海地方へ巡教・勧募し、軍事費1万両・米4千俵
を政府に献上する。
明治14年(1881年)、公式の宗派名が「真宗大谷派」と定まる[5]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/寺請制度

例えば、現在の静岡県小山町にあたる地域で江戸時代に存在していた32か所の寺院の由来を調べ
たところ、うち中世から続く寺院は1つのみで、8か所は中世の戦乱で一度は荒廃したものを他宗派
の僧侶が再興したもの、他は全て慶長年間以降に創建された寺院であったとされている。また、
別の研究では元禄9年(1696年)当時存在した6000か所の浄土宗寺院のうち、16世紀以降の創建
が9割を占めていたとされている。