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http://www.sakya-muni.jp/pdf/bunsho12.pdf

現代の多くの(※マルクス・新マルクス唯物史観の)仏教学者が、仏教が輪廻・死後を説くのは通俗的な教えとしてであって第一
義・勝義としてではないという根拠は、第 1 に無記説、第 2 に縁起説、第 3 に無我説の解釈
の仕方によると考えられるが、以上によって少なくとも原始仏教聖典によるかぎりはそうい
う解釈は許されないということが論証されたものと信じる。要するに原始仏教でも輪廻や死
後のあることは、縁起や四諦あるいは無常・苦・無我という仏教の第一義諦・勝義諦のレヴェ
ルで説かれていた、いやむしろその根底にあったということである。

しかし仏教が無我を説く以上輪廻の仕組みを説明することが難しいのも事実である。その
ために補特伽羅(pudgala, puggala)、非即非離蘊我、窮生死蘊、果報識、細意識、一味
蘊、根本識などを説く部派が現われたとされる。また大乗瑜伽行派の阿頼耶識もその流れに
あるものと考えられる。

したがって仏教が輪廻を説くとしても、それではそのシステムはどのようなものであった
のかということは別の問題として立てられなければならない。しかしこれはまた別の論文と
して扱うべき大きな課題であるので、ここでは原始仏教が輪廻をどのように考えていたかと
いうその基本的な姿勢だけを述べるに止めて、この論の結びとしたいと思う。

その基本姿勢というのは別に取り立てて説明するまでもない。われわれはいま生を受けて
生きている。少なくとも母親の胎内から生れてから現在までとにかく生存を続けている。仏
教の経典などが輪廻や死後を説くのを、仏教の本当の教えではないとする仏教学者も、この
数十年という間、生存し続けてきたこと自体は否定しないであろうし、それをも無記とはし
ないであろう。またこの生存をも縁起で解釈してはいけないとも言わないであろうし、四諦
説や無常・苦・無我説とは別の次元ともしないであろう。

原始仏教はこういう生存のあり方を五蘊で説明したわけであるが、このような五蘊として
の生存が生前にも続いてきたし、死後にも続くと考えるのである。この世に死んで次の生に
生れる前に「中有」という存在を認める考え方も(例えば説一切有部)、そのような存在の
あり方を認めない考え方もあるが(例えば南方上座部)、「中有」を立てる考え方では、
「本有」と次の「生有」の間に形式は違うけれども五蘊によって成り立っている存在がある、
と考えるだけのことである。この「本有」にもし霊魂というものを考える必要がなければ、
「中有」にも霊魂の存在を考える必要もないし、もし補特伽羅を考える必要がなければ死後
にもそのようなものを考える必要がないということである。

仏教の考え方の基本は、短期的に考えれば昨日と今日の間にコンマを打ち、今日と明日の
間にコンマを打てばすむことであるし、長期的に考えればこの世に生れてきたときにコンマ
を打ち、この世から去るときにコンマを打てばよいことであって、いずれにしても解脱を得
ないかぎりは生存は続くというのである。確かに昨日の私と今日の私は、五蘊が消滅しなが
ら連続しているとしても理解しやすいが、生前の私と死後の私の連続性を五蘊の相続で納得
するのは難しい。しかし原始仏教聖典から輪廻を理解するとすれば、以上のようになるので
はなかろうか。