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【6】軍の調査団すらも放射能被害に無知
とはいえ、広島・長崎に原子爆弾が投下された事実について、軍部や政府が重大な関心を
持っていたことは疑いようがない。ところが繰り返すようにドローン空撮も視聴者提供の
スマホ動画も無い当時、原爆の実相を知るには、調査団が直接現地を訪問するしかなかった。

よって1945年8月6日の広島原爆直後、陸・海軍はそれぞれ調査団を広島に送り込んで
情報収集に当たっている。そのひとつ、呉鎮守府調査団(海軍)に加わった西田亀久夫氏は、
8月7日に広島市内に入って、意外にも以下のように当時の様子を述懐しているのである。

 爆心に近いところの被災者は、全身の衣服が消滅し、性別が不明だった。相生橋*のところでは、
欄干が強烈な爆風で飛び、自転車に乗ったまま、人が押しつぶされて、十センチくらいになって
圧死していた。(中略)  しかし、爆心地に近い、二、三百メートルのところの防空壕に
入っていて、空襲警報が解除になったことを知らずに退避していた人が、無傷だったことが
印象に残っているという。 「いま考えると、専門家として恥ずかしいけれど、原爆は、
その攻撃を事前に探知して人間への被害さえ回避すれば、致命的な打撃を与えるものではない、
『断固戦争を継続すべし』と正直なところそのときは思っていたのですよ。じつは、私の専門は
放射能の測定だったのですが・・・」
出典:『ヒロシマはどう記録されたか-NHKと中国新聞の原爆報道-』(NHK出版編、NHK出版。*相生橋は広島原爆の投下目標)

そう、被爆直後に広島市内に入ってその地獄の惨状を目にした調査団の専門家ですらも、
当時「放射線障害」という、原爆の最もむごたらしい被害の側面を無視していた。
いや、正確には無知故に、放射線のもたらす恐ろしさをこの時点では知らなかったのである。