【歴史】邪馬台国時代のすずり5個出土 交易でも文字使用か「日本の文字文化の始まりを考える上で興味深い」 福岡・西新町遺跡
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西新町遺跡の出土品から確認されたすずり(柳田康雄教授提供)
https://www.nishinippon.co.jp/import/culture/20181123/201811230001_000.jpg
邪馬台国の時期と重なる古墳時代前期(3世紀半ば〜後半)に使用されたとみられるすずり5個が福岡市早良区の西新町遺跡から出土していたことが、柳田康雄・国学院大客員教授の調査で分かった。一つの遺跡から5個確認されたのは最多。同遺跡は王都のような政治的拠点ではなく、交易拠点だったと考えられており、まとまった数のすずりは、古代社会の経済活動でも広く文字が使われた可能性を示している。
弥生時代から古墳時代前期のすずりは、北部九州ではこれまで8個が見つかっていた。各地域の中心とみられる場所からの出土が多く、「王」などの権力者周辺による文字使用が想定されていた。西新町遺跡は中国の歴史書「魏志倭人伝」に出てくる「伊都国」と「奴国」の中間に当たり、古墳時代前期に朝鮮半島や日本各地から多数の土器がもたらされるようになり、倭の貿易港として急激に成長したと考えられている。
5個のすずりは2007年度までの調査で発掘され、砥石(といし)などとみられていた。柳田教授が他の遺跡の出土品と比較し、形状などからすずりと判断した。長方形の完全な形に近い状態のものが1個(長さ約10・4センチ)で破片が4個。いずれも厚さは0・5センチ前後で、破片も含めて両辺が確認できるものは幅が約4・4〜5・4センチ。3個には朱を使った跡があるという。
西谷正・九州大名誉教授(考古学)は「政治だけでなく経済でも文字が使われていた可能性が高まり、日本の文字文化の始まりを考える上で興味深い」と評価。柳田教授は「交易で普通に文字を使っていたと考えられる。他の遺跡の出土品を見直せば、もっと見つかるかもしれない」と話している。
西日本新聞 2018年11月23日 06時00分
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/culture/article/467782/ これ、魏だっけ?昔の中国の役人がもうちょっと真面目な仕事してれば
邪馬台国はどこかとかくだらない論争しなくて済んだのにね。
どうせ東の孤島の野蛮人の国だと思って鉛筆舐めながら適当に書いたんだろうな >>99
九州と奈良は船で連続していてそれより前から交易あったし、
同じ言語だから、文字を使う文化は2点間で均一化される。
はい論破。何も言えずに単純否定は通らないよ、このバカ爺。息してる? >>102
奈良は盆地だけど交通の便は良いよね。
だって当時は水路大和川を遡って船で乗り付けられたから。 >>93
すずりがあった=文書行政が行われてた
すずりがあった=史官が置かれ、史書が編纂されていた
なんて断定はアホみたいに飛躍した話
自分に都合のいい飛躍以外は想像も及ばないのはアホの子の証拠 大陸の文官駐留してんだから書道道具くらいなきゃおかしいわな >>102
それこそ言葉が均一化してる現代でさえ関西弁と博多弁はまるで別物なのに
3世紀の九州と近畿が「同じ言語だから、文字を使う文化は2点間で均一化される」
なんて無邪気に断定できるものなのかねえ
日本列島は常にひとつの日本って固定観念は根強いよね >>102
だいたい、大陸から漢語を文字として書く文化が伝わったことと
日本語を文字化して記すという行為は全くの別次元の話なんだけど
3世紀の日本でそこまで独自の文字文化が発達してたなんて証拠がどこにあるのかな?
あなたはびっくりするほど、言語や文字文化に対する教養が欠如してると言わざるをえない >>61
藤原バーニング不比等が日本書紀の編纂時に
旧記から世間の記録類に至るまで徹底的に焚書しただろう
大和政権の正統性を主張するための大犯罪 >>91
今後の共産革命で天皇家が殺滅されれば、途端にあちこちから「発見」されるかもしれないな >>104
いやその暫定は当たり前
物語でも書いたと思ってるのか >>106
言語族としての日本語は古代から全国一緒だからだけど。
はい論破。おまえの無教養さらせって誰が頼んだ?
あ?低能。 >>107
>だいたい、大陸から漢語を文字として書く文化が伝わったことと
>日本語を文字化して記すという行為は全くの別次元の話なんだけど
こんなことは誰も話題にしてない。
おまえが勝手に言い出してるだけ。全く無関係。
>3世紀の日本でそこまで独自の文字文化が発達してたなんて証拠がどこにあるのかな?
だからおまえが勝手に脳内で変換して別のこと言い出してる。
これはおまえが高齢爺という顕著な特徴。
>あなたはびっくりするほど、言語や文字文化に対する教養が欠如してると言わざるをえない
おまえが全然他人の文章を理解できない浅学無教養であることは明白。
おまえが無知な高齢者であることも明白。
息してる?あ?オラ 他地域の歴史からみても当たりまえだし。てことで
古代の交易でも文字が使われたことは別にニュースになるほどのことじゃないということ。 >>93
日本人の中で文字単体は使われていたとしても、「漢文」が一般の官僚層に普及するのは現状、飛鳥時代以降で間違いない
実際に、「文章」が墨で書かれた古墳時代以前の木簡、竹簡、土器は未だ出ていない
交易の窓口であった博多周辺でさえもだ
つまり、独自文字の存在が考古学上では検知できない以上、地方において歴史書を書くための漢文知識は飛鳥時代に生じたとみるしかない
ゆえに、歴史書という概念は、『史記』や『漢書』、正史『三国志』が日本に輸入されたであろう奈良時代以前にはなかった可能性だってある
硯の使い途は、帰化した高級官僚が外交文書を書くために使われたり、荷物に宛先や記号を書くために使われたとみるしかない >>65 大阪人の先祖が半島系なのを隠すために燃やしたって韓国人先生がいってるけどマジ?
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/ja/journal/AjiaShakaiBunka-Kenkyu/--/11/article/29729
>『日本書紀 「天智2年9月 7日条」に見れば、百済遠征軍の敗北に対して
「百済の州柔城が陥落されたから、百済という名前は今日で終わった。これから先祖墓所に二度と尋ねることができなくなった」という遠征軍の嘆声が見える。このように神社と韓国の繋がりは、思ったより多い。
参考
『新撰姓氏録』 : 815年編纂。この刊行をその息子(万多親王788-830)に言い付けた人が桓武であった。「弘仁私記(9世紀纂)」によれば先住民たちとの葛藤を解消するために桓武が韓日同族関係書籍を燃やすようにしたという。
また彼は794年平安京遷都と同時に王宮の中南北に韓神(百済神)と園神(新羅神)のための嗣堂を建立する。『延喜式(総 50冊 927年完成)』の巻第九に記録されている。そして平野神社を造って百済聖王(523-554)を称えるようにした。 桃の種とすずりじゃあ文化の差がありすぎる
証拠を上げるにしても邪馬台国にそちらが近いが脳みそ腐ってないかぎりわかる話 邪馬台国の王は文字がわかると言う事は、中国人か朝鮮人だな そんな遺跡あったっけと思ったら
髭男爵ひぐちくんの母校の敷地で、もう埋めて校舎が建ってるのか 筆記具があるなら、土器に「メイドイン邪馬台国」と書いとけYO! 縄文文明は、文字を使用してたんだよ。
お前等本当に学者か >>114
5世紀の倭の五王は12回もシナの南朝に朝貢してるんだから、『史記』や『漢書』、正史『三国志』も日本に輸入されたでしょう
5世紀には帰化した高級官僚だけでなく一般の官僚層にもある程度は普及していたはず。 そもそもこの時代の北部九州は朝鮮半島の律令制に組み込まれてただろ 福岡の街中なんだな。
1970年代から改築とか建て替えがある時に気長に発掘。
まだまだ眠ってそう
西新町遺跡(にしじんまちいせき)
発掘地 https://i.imgur.com/Q7B7LW4.jpg
発掘現場 https://i.imgur.com/3hHHLcV.jpg
奴国は交易の拠点だから、
注文・発送とか交換物の記録・管理に文字は不可欠。
逆に言えば「文字を扱えるので」手広く交易ができた。
北九州は当時の情報&海運先進国。
邪馬台国の卑弥呼も、伊都国に連合国の監視・外交・
祭祀の取次などを「書類」で任せてたと
魏志倭人伝に書かれてる >>43
荒くれ者ばっかだけど
福岡と違って
九州一の工業都市だからね
個人主義が強く商業と交易の福岡
職人気質の北九州
現代も変わらず >>123
この頃の朝鮮半島は小集落がまばらに存在するだけで
まだ百済や新羅のような国ができる前。
言語・風習などで区分される古三韓時代(馬韓、弁韓、辰韓)。
半島北西部はシナの2郡(楽浪郡、帯方郡)。
半島南端部は倭人国。
その2つだけが文明の地だった >>125
中央に文字が使える人間がいなくて
地方にいるなんて変
魏に国書を書くのに一々地方に王が出張?
九州に倭王もいたんですよ
九州は紀元前から中国に使者を送っていたんですから
始めて中国に使者を関西の天皇家は唐代から。 まさかとは思うけど、伝言ゲームを想像して言ってるバカは居ないよなww
あれは、どうでもいいような内容を複数の人が伝えるからだ
大切な内容なら、複数人居ても変化しないよ >>87
歴史は勝者の記録
大和朝廷以前の王たちは敗者なので歴史残ってないんだよ
出雲はめずらしく敗者として記録されてるけど、先祖のスサノオは
アマテラスの弟ということにして国を譲ったのは当然という感じにしてる 奴国の使者が漢に行って金印を拝領したのが西暦57年、その時に使者は漢字を見たはずだから
北部九州で漢字が使われ出したのはかなり古いと思う。 紀元前から北部九州地域は中国と交流があったんだから
3世紀に文字の書ける人がいてもおかしくないな
5世紀には立派な上奏文も書いて送ってるしな。 >>6
港を経由地と考えたら、
ケープタウンから南蛮文化とかな。 >>104
いや当たり前でしょ
北部九州は江南からの渡来人も普通に居住して朝貢までしてるのに、なんで文書の作成は行われてないと思うわけ? 文化を日本に教えてくれた中国には感謝しないといけないな
そして韓国にも >>114
北部九州には江南からの渡来人が既に住み着いており、漢語の知識は普通に伝わっている
それを否定するのは流石に無理があるかと思うけど
仮に奈良に伝わってなかったのなら、それは統一政権が出来てなかったって事になるのでは? ちなみに弥生末期に墨書土器が多いのが伊勢だからな。つまり南ではなく東へ向かったという事だ。
九州説はいよいよ終わりだね。 交易で文字なんてないない 現物同士と記憶
にかわでかためた墨は金より価値があってそんなの使えなかったし
大陸由来の文字使うやつなんて好きなようによみといてほぼ詐欺師と同様の意味合いだった
ほとんどは使い方なんてよくわからなくて飾りか重石に使うか
邪魔な部分を割って取り除いて砥石に使ってた
ほろんだけど文字はすでに木を削るのがもうあって
それを削るためのの砥石でなら若干需要はあったけど
そんなのそこら辺に落ちてる石で充分だしな 西新のムチャ近くに住んでるけど、西新町遺跡って初めて知った。
確かに防塁周辺とか高取の辺りは
掘れば何か出てきそうな雰囲気だがな。まさか商店街の中じゃないよな >>140
木簡や竹簡が無かったから墨書土器が残ったのでは。 西新いいなあ。サザエさん通りもあるし。
関係ないが、阿曇磯良の顔にはサザエとか付いてたっぽいw ちなみ発見される土器には当時「田」と描かれた物が多い。何かの記号として使ってたんだろう。
伊勢の松阪辺りに多いという事は、恐らく伊勢にで取れた丹を運んでいたんだろう。 今の文明のお前らがせっせとダウンロードしたエロAV入り記録媒体はすべて2万年後には
みれない。
縄文文明の時代にエロAVがあったが、今の文明は縄文文明より劣っているためみれない。 >>147
オオクニヌシの祖先ということになってる
出雲の主祭神がスサノオだった時代もあったようだ >>128
だから(九州の)卑弥呼が「倭王」なんでしょ。対シナ外交では。
九州内にも連合に参加しない国がある。
女王国から東に海を渡ればまた倭種の国がいろいろとある。
で、魏史でも困って東夷伝の中で倭だけが、「倭(国)」と表記できずに
「倭人」と表記されてる。倭が一つの国ではなく地理区分すら不明で
なんとなく「倭人の住むところ」としかくくりようがないからだ >>121
普及していたのなら、奈良、大阪(とくに難波宮)、福岡で5世紀代の文章資料が出てきてもおかしくない
だが、これだけ膨大な量の発掘調査が行われてきたのに、まったく出てこない
それと、その三書は竹簡に書かれているため、一書でも膨大な量になり、転写も輸入もそれはそれは大変だったとは思うが
日本におけるその三書からの引用を辿れるのは6世紀末〜7世紀初頭でしかなく、5世紀代以前の輸入はあくまでも可能性でしかないな そりゃ外交してたんだから言葉や文字くらいはあっただろう
ウホウホいいながら外交は出来ないしな 九州にいたのは伊都や奴国の王であって、女王国ではないよ、これらは男王の国。
あくまでも瀬戸内海より東にあるのが当時の女王国。 九州には女の王も多いよ、日本書記に出て来る。
琉球神道でも祭祀を司る巫女は権力を持つ男の王の次の位。
ポリネシア文化dさろうな 交易の記帳に使う文字は数字と相手や品物の名前程度だから、
漢字を略して一般人も使ってたのかも。
表音文字である仮名の誕生はこのあたりかもしれない 周と書いた土器が出土してるんだっけ
文字使ってたのは明らかだな 縄文時代の山内丸山でも他地域と交易していたんだろ?
やり取りを記す手段は意外に昔から国内にもあったのではないかな
なんとかいう怪しい古代文字とは言わんけどさ >>152
じゃあ、南にあって敵対してたクナコクは、どこ? >>158
狗古智卑狗(コウコチヒコウ)という男子が王になっている狗奴(コウド、コウドゥ)国が北九州で
漢より「漢委奴國王」の金印を授かり、漢と交易をしていた
その後、「漢を滅ぼした魏」は、
「大国主命」など、代々、王がいる伊都国
を國譲りで奪い取り、【新港】松江・出雲を開港して
隠岐からの目印になるデッカイ灯台(出雲大社)を建設して「出雲神の嫡裔、大国主命の神裔の宗像氏」が渡航を司った
奈良の新興国の「邪馬台国」を(親魏倭王)にした >>158
熊本から宮崎辺りに決まってるだろ。
女王国の傍国が説明した後で、奴国の南にあると書いてある。
北部九州には伊都や、奴国があり女王国と
協力関係にあるんだろ?
だから熊本や宮崎辺りにある狗奴国は瀬戸内海より東側の女王国に従わなかっただけの話だよ。 漢の時代
狗古智卑狗(コウコチヒコウ)という男子が王になっていた
北九州の、狗奴(コウド、コウドゥ)国は
漢より「漢委奴國王」の金印を授かり、漢と交易をしていた
その後、220年に後漢が滅亡し、狗奴国の「漢委奴國」の地位は消滅
魏・蜀・呉の三国時代に突入して、
魏は新たに
奈良の新興国の「邪馬台国」を(親魏倭王)にした
で
魏(220年 - 265年)の『魏志』倭人伝
帯方郡ー韓国−対馬國−一大国−末廬国−伊都国−奴国−不弥国−投馬国を経て邪馬壱國
朝鮮半島−対馬−隠岐−松江−出雲−奈良
九州ではなく島根なのは
九州は「漢委奴國王」だった「狗奴國」の勢力下で、邪馬台国は利用することが出来なかったから
梁(502年 - 557年)の『梁書』倭人伝
帯方郡−一支国−末廬国−伊都国−奴国−不弥国−投馬国を経て邪馬臺国
朝鮮半島−壱岐−松江−出雲−奈良のルート
九州が相変わらず無く、対馬が無く、五島列島が出てくるのは、
九州は相変わらず「漢委奴國王」だった「狗奴國」の勢力下で邪馬台国は利用出来ず
卑弥呼が死亡し、新たに壱与を女王とし、西晋に「親魏倭王」の禅譲の報告をしようとするものの
大陸との行き来が無い間に対馬は国力を増していた新羅の勢力下になってしまっていたから
隋(581年 - 618年)の『隋書』倭国伝
百済−竹嶋−耽羅国−都斯麻国−一支国−竹斯国−秦王国−十余国を経て難波津−奈良
朝鮮半島−済州島−対馬−五島列島−九州−大阪−奈良のルート
対馬が復活し、島根の変わりに九州が出てくるのは
北九州狗奴国がついに、大和の「日本国」に併合されたから(ヤマトタケルの西征) >>160
「狗奴國」と「邪馬台国」が、同じ港を使用して、大陸と交易した
というのは根本的にムリがある
「狗奴國」が北部九州一帯を勢力下に納めていたのならば
「邪馬台国」は北部九州一帯の港は使用できないし
「邪馬台国」が北部九州一帯を勢力下に納めていたのならば
「狗奴國」」は北部九州一帯の港は使用できない >>162
どんな理解力だ?
半島への渡航に便利な北部九州の港を使えないから対立したんだろw
九州南部に位置する狗奴国からすれば、北部
九州に基盤がある邪馬台国は邪魔で仕方ない。
だから対立する理由がある。 いい加減邪馬台国の位置論なんで脱却しろよ。
倭人伝にある邪馬台国とはヤマトだとはっきりしてんだから。
倭国伝に書いてあるとおりだよ。 >>8
文字が無かったら卑弥呼や臺與の使者いが
魏に云ったときは手紙を持っていかなかったとでも? >5個のすずりは2007年度までの調査で発掘され、砥石(といし)などとみられていた
頁岩という石材で作られ砥石としても利用されるから間違えるのも無理はない >>117
朝鮮エベンキは文盲。
朝鮮発音記号の諺文が考案される前の朝鮮語は
両替班(ヤンパン)という朝鮮式科挙を突破した官僚か
御抱え中国人の政治顧問、坊主しか読み書きできなかった。
漢字で書いてある資料しか無いからほとんど解らないwww 畿内説は記紀と合わないのも難点だね。
むろん、記紀は創作潤色著しいわけだが、肝心のヤマト側の記憶に卑弥呼も台与も倭国大乱も狗奴国も残ってないのは痛い。
こっから、乗っ取り説、焚書説はじめいろんな陰謀論交えて行かなきゃならんところは御苦労様ですw >>166
うーん。
晋書倭人伝によると、「通訳を重ねて入貢した」みたいな描写があるから、
少なくとも会話はバイリンガルじゃなかったっぽい。
んで、文書を持って行ったのなら、最初にそれを渡せば
「あー、倭国さんの使者の人ね。オッケーオッケー」で済む気もする。 >>14
侮蔑表現とかいうのは下種の勘繰り 伊都国のみは世紀に漢字で使っていた可能性がある
だからこそ伊都国の位置確認これこそが肝心要なのだと思う >>164
いや遣唐使が唐に行って初めて「日本は元(シナの記録にある)倭国です」
と宮廷で説明している中で
「日本は舊(もと)小國にして倭國の地を併せたり」と言ってる。(旧唐書)
つまり大和政権の国使が、
日本は小さな国だったが倭国を併合したという以上
卑弥呼が倭王だった倭国は「大和とは別の国」だったということ。
これは日本の国使が「邪馬台国は大和ではありません」と言ってるに等しい >>171
中国で言葉が通じないは寧ろ普通じゃ?
そもそも華北華南で人種も違えば言葉も違う 文字については古代中国に感謝してもしきれないな
今の簡体字は感心できないけど >>37
日本人大和朝廷圏は文字を書けなくても倭人邪馬台国圏は書けた可能性があるな
読み書きできたし中国の歴史なども全部頭に入ってた可能性も高い >>109
早く悪辣な新自由主義を打倒しろwウスノロ >>173
それこそ君の希望的推測にすぎないでしょ。
半島から対馬、北部九州から瀬戸内海をへて
畿内に至る交易ルートなんて、
弥生中期の時点で貨泉から鏡の出土、水銀朱の
流れに至るまで証明済だからな。
無駄な曲解は矛盾しか産まないから諦めな。
倭人伝のいう三世紀邪馬台国とはヤマトしか選択肢はない。女王国は瀬戸内海周辺の国々だよ。 >>178
吉田兼好 「硯を見るとワクワクが止まりません! ><」 そりゃ中国人は日本列島に関して知識も興味もないでしょう
後世に至るまで北九州に関しては正確だけど
それ以外は海の向こう東の国はみんな倭ぐらいのもんで
で女王国の海の東も倭人が住んでまっせってあるからね >>167
墨ではなく、辰砂などを擦るためのものゆえに発掘者が砥石だと判断するのは極く当然だよ まだ旧唐書とかほざいてる奴がいるんだなw
その記事に『併記して』「名前が気に食わないから自分で変えた」という記事がある
しかも由来が遣隋使の時の『太陽が出る場所だから』としていて連続性を示している
そしてその後の新唐書で遣隋使の時のタリシヒコと後の天皇の系譜がつなげて書かれてる
中国はわけのわからんどこぞの国が日本になったなんて認識してないのがわかる
時期的に壬申の乱の記事だと普通に理解されてる
こんなもんをしつこく出して「九州王朝だ!」とか邪馬台国の会のアホしか言ってないw 日本の考古学会まとめ
日本各地で「〜原人」ブームを巻き起こした日本の旧石器時代の遺物や遺跡とされていたものが、考古学研究家の藤村新一によって事前に埋設された石器を自ら発見した捏造だったとことが発覚した。
藤村は1970年代半ばから各地の遺跡で捏造による「旧石器発見」を続けていたが、石器を事前に埋めている姿を2000年11月5日の毎日新聞朝刊にスクープされ、不正が発覚。
これにより日本の旧石器時代研究に疑義が生じ、中学校・高等学校の歴史教科書はもとより大学入試にも影響が及んだ日本考古学界最大の醜聞となり、海外でも報じられた。
彼のかかわった全ての遺跡について再点検が行われ、上高森遺跡をはじめ多くの遺跡が旧石器時代の史跡としての認定を取り消された。
また、中国、韓国、北朝鮮といった歴史教科書問題で日本と対立している国々では「日本人が歴史を歪曲しているのが証明された」
「一研究家だけの問題ではなく、日本人の歴史認識そのものに原因がある」と大々的に報道された。
藤村の一連の発見に考古愛好家の一部から疑問の声も出ていたが、一介のアマチュアが疑義を唱えることすら憚られる状況となっており反証・反論を行うにはリスクの大きい規模になっていた。
また政府も関連遺跡を史跡に指定するなど事件を助長させ、地域住民も観光資源の観点に偏り商業的な効果を優先させてきた実態が浮き彫りとなった。
考古学界は捏造発覚以前の25年間、捏造を批判した学者や研究者を排斥したり圧力を加える事によって、事実上の学会八分(村八分)にして、捏造批判の声が噴出する気運を押さえつけた。 宗史でも「日本はずっと王統が変わらずに凄い」と称賛してる記事もある
珍説バカが珍説サイトの都合のいい抜粋しか見てないのがよくわかる 中国の史書を見るとこういうことになる
邪馬台国
↓
台与の後に男性王即位
↓
晋、宗、斉、梁、隋と連続して使節
↓
遣隋使の使節の大王と後の平安時代の天皇は同じ系譜と示す
↓
王統が変わらないと評価
こういうことになる
なのでよく持ち出す「倭国が日本に滅ぼされた(笑)」「筑紫城(笑)」とかも壬申の乱や、日本神話の写しだとわかるだけ
だからまともな学者はこんなもんをドヤ顔で出したりしない
単にそんなバカなこと言い出したら恥だからw >>187
>なのでよく持ち出す「倭国が日本に滅ぼされた(笑)」「筑紫城(笑)」
お前が持ち出してるだけだろ >>176
遣隋使なんか全く外交感覚のないうろんな態度で信用されず、
同じく外交感覚のないスフィンクスの謎かけみたいな国書の内容に
隋の皇帝はあきれて
お説教をわざわざ日本まで使者同行で言いに来させた。
倭国とはまるで違う文化なのが大和政権 >>185
石器捏造事件のwikiを適当にまとめただけやんw
圧力を加えたのは、アマチュアである藤村の捏造で飯を食ってた文化庁の某国家公務員や東京にある大学の教員とその一味だな
これは考古学界の極く一部での話であって、全体がそうであったかのような捏造はいけないなw >>181
それじゃ反論にも何にもなってないぞw
日の本が倭人伝のいう邪馬台国の一部だったと
考えればいい話。
そもそも邪馬台国が卑弥呼の死以降どうなったかの記述はないからな。これは狗奴国も同じ。
台与だって邪馬台国の女王とすら書かれていないんだからな。 朝鮮半島って言っても、ほとんど漢の帯方郡と極南界の弁辰韓なんだけどね。 倭国は日本
邪馬台国はエジプト
シュメール人「東の日の出国は楽園」
日本は日出づる国
漢字1文字は1等国
漢字3文字は3等国 倭国が周辺国を統合して
大倭国となり
それが転じて大和となる
倭国が統合した国の一つに邪馬台国があり、
読み方はヤマト国
大倭国は読み方をヤマトに改めた
そして大和政権が成立する >>163
両方大陸と交易していたんだから、別々の港
「狗奴國」は北九州で
「邪馬台国」が出雲 >>178
掘り返せば他の土地でも硯は出てくるんじゃね
最も重要なのはその硯が使われた年代だぞ
同じ遺跡で木簡、竹簡、木の破片、土器などに墨書したものが将来出土するかどうかだ。 九州説とかの珍説バカどもは
「きょだいないんぼうがー」
とかバカ丸出しの事を喚いて思考停止するだけだからな
こいつらに真実なんて用はないんだろw >>198
>「きょだいないんぼうがー」
お前が喚いてるだけだろ >>37
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露
傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
伊都国は書ける。一大率は桜田大臣並みかもしれんが w
収租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之
もう一つの機関がある。
この遺跡は、伊都からの輸出入品のはけ口、アウトレット専用市場だったかもね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています