イスラム教だろうがキリスト教だろうが仏教だろうが神道だろうが、基本的な考え方は同じなんだよ。
まず純粋な世界があって、それが神界であり、極楽であり、天国であるってこと。
そこから写って来て、だんだん降下して、澱んできて、この世の肉体人間とその社会がある。
その澱みの世界から、純粋な世界に移るには、「我」というものがあってはダメなんだよ。
たとえばイスラム教で、ムハンマドがある時、どからともなく音楽が流れてきたとき、悪魔の誘惑だというなことを言っているのは、
「我欲」を掻き立てられるからだ。
それを理由にISISなんかがよく楽器を燃やしていたけれど、楽器を使わないで、歌声だけで音楽を作ったりしていたけど、
そもそもやつらはイスラム教の本分を分かっていなかった。
楽器がダメなんじゃなくて、音楽が我を楽しませる、誘惑にかられるからだ。
楽器を燃やすなら、自分たちの口も燃やさなければいけなかったわけだ。 ナシードなんて作ってる以上。
我を排するための礼拝行とか、日常の行いとか、瞑想とか、そういうものがあるわけだけど、神道にも禊というものがあるだろう。
あれは言ってみれば、我を払うということだ。
いろんな執着を払うということ。
こういう本来の意味を知らないで宗教を分析しても、なんの役にもたたない。