東京府と東京市が合併して誕生した現在の東京都は、戦時体制の強化を目的にして1943年に誕生した。
大正期に浮上した都制案は、それとは目的が異なるものの、東京都制の萌芽は、20年以上前から存在したことになる。

大正期の議論では、東京市15区と隣接する5郡が東京都に移行することが有力だった。これは現在の23区とほぼ同じ枠組みで、三多摩は東京都構想から外される想定だった。
三多摩だけで新たに多摩県になるか、もしくは神奈川県に再編入される案が有力視されていた。
南多摩郡に属していた町田は、このときに再び神奈川県に戻される可能性もあった。このときの東京都案は、うやむやに終わった。

そして、町田を大きく変えることになるのが、1927年に開業する小田原急行(現・小田急電鉄)小田原線だった。
横浜鉄道によって八王子から横浜へと続く絹の道の中継地点として栄えた町田は、小田急の開通で東京とのつながりを少しずつ強めていく。

しかし、町田が今のように東京のベッドタウンとして成長するのは、戦後の高度経済成長期まで待たなければならない。
小田急の開業で起きた変化は、農村・町田を軍都の後背地に変貌させたことだった。
日露戦争で勝利した大日本帝国は、世界の一等国になるべく軍備の増強を図ろうとした。
その第一歩として、大きな練兵場の開設を模索した。陸軍が使用していた青山練兵場(現・明治神宮外苑)は手狭なうえ、東京の都市化も重なって演習場として不向きになっていた。