幕末から明治時代に活躍した福沢諭吉(一八三五〜一九〇一年)が教え子に贈った漢詩の書二点と手紙一点が、岐阜県飛騨市古川町の渡辺酒造店で保存されていた。書の一点に脱字があった。
手紙は、それを指摘した教え子にあてており、「赤面の至(恥ずかしい)」とつづる。「代わりに」と贈られたのが、もう一つの書だ。
専門家は「福沢の面倒見の良さや、おおらかな一面が見られる」と語る。 (浜崎陽介)
 教え子は酒造店二代目の渡辺一郎(一八六八〜一九四七年)。慶応義塾で福沢に師事し、散歩の供をするなど、目をかけられた。

 書と手紙は、一郎のひ孫で酒造店五代目の久憲さん(50)が昨年、店の蔵で見つけた。
明治維新から百五十年に関するドラマなどを見るうち、かつて父の久郎さん(82)から「福沢の書がある」と聞かされたことを思い出し、捜し出した。
 漢詩は二点とも七言絶句。一点(縦百七十二センチ、横四十五センチ)は「世の中が自分の思うようにいかないと嘆いても始まらない」という内容で、一郎が卒業から七年後の一八九七年、福沢宅にあいさつに出向いた際に贈られた。
 七言のはずが、結句は「無意人如意人」と六文字。「如」の前の「乃」が抜け落ちていた。
 これを指摘した一郎に対し、手紙は「こんな粗匆(そそう)ハ毎度之事ニ御座候(こんな間違いはしょっちゅうだ)」と書き、代わりの書を贈ると記した。
 翌年に約束通り、別の書(縦百三十八センチ、横五十四センチ)が贈られた。「刀を振るうことが老後の健康法」といった心掛けが書かれている。
 慶応義塾福沢研究センター(東京)の西沢直子教授は「教え子に間違いを指摘されて謝っており、偉ぶっていない。約束通りに書を贈り、地方の門下生との関係を大切にしていたこともうかがえる」と指摘する。
 今回の発見を知った同センターが確認したところ、書と手紙の内容は、慶応大が編さんし、岩波書店が一九六二(昭和三十七)年に発行した「福沢諭吉全集第十八巻」に記されていた。渡辺家側がかつて情報提供したとみられる。
ただ、手紙は、明治二十九(一八九六)年の書簡として紹介されているが、今回の確認により、正しくは同三十年と分かった。
 渡辺酒造店は一八七〇年創業。「蓬莱(ほうらい)」の銘柄で知られ、近年は輸出に力を入れる。書を初めて見た久憲さんは「迫力がある。
海外に目を向けた諭吉の精神を見習い、酒文化を世界に発信したい」と話す。

<福沢諭吉> 幕末から明治の思想家、教育者。豊前中津藩(大分県中津市)の武士の子として大阪で生まれる。渡米、渡欧して各国を視察し、西洋の制度や文化を紹介した。慶応義塾(慶応大)の創始者として知られる。
戦前の主要な日刊新聞の一つ「時事新報」を創刊。男女平等を唱えたほか、対清国主戦論者の一人でもあった。主な著書は「学問のすゝめ」「西洋事情」など。

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