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朝鮮戦争と日本の対応 ――山口県を事例として――
http://www.nids.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j8_3_03.pdf
そのようななかで最も重要な事案のひとつが、昭和天皇の御巡幸であった。1947年秋、宮内府から山口県に、
同年12月1日から5日間天皇が山口県を回られるとの通達がなされた。当時山口県は、後述するように在日朝鮮人
をめぐって治安が悪化しており、かつ反天皇感情から北朝鮮系のグループによる天皇暗殺計画の情報ももたらされていた。
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山口県庁は、「朝鮮情報室」を設置、朝鮮半島の情報収集に尽力していたが、1950(昭和25)年になると、情勢が
緊迫しているとの情報分析結果が出た。そのため、危機感を感じた田中知事は、上京を決断、6月21日大磯に吉田茂首相
を訪ね、「どうもこのままでは、有利な北朝鮮が侵攻する可能性が高いから、何とかして下さい」と報告したところ、
吉田首相は、「3日前に38度線を視察したジョン・フォスター・ダレス特使(のち国務長官)が、帰途日本に立ち寄り、
『米軍の指揮は旺盛で、装備も充実しており、決して心配ない』と言ったばかりだ」と怒り出したのであった(20)。

それからほぼ1週間後の1950(昭和25)年6月25日、田中知事の予想通り北朝鮮軍の南進によって、朝鮮戦争が勃発した。
その頃、外務省から、「韓国政府は、6万人の亡命政権を山口県に作るということを希望している」との電報が入り、
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それらの施設、宿舎等遺漏なきようにということであった。当時山口県は、県民分の米の配給も、半月以上欠配し、さらに
軍人の復員、下関などからの引揚げ者が増えつつあり、6万人分の食料を確保するのは困難であった。そのため、田中知事は、
再度久原を通して、GHQに山口県の実状を伝えさせたりした(24)。しかし、9月16日国連軍が仁川に敵前上陸を敢行した
ことにより、戦局は大きく逆転することになり、亡命政権構想も消えたのであった。

↑反日の顛末、末路 ぜったい、こういうふうになる   防がなければ…