【邪馬台国論争】畿内説vs九州説、「邪馬台国は東遷したか?」テーマに議論 福岡・飯塚、古代史連続講座に150人★4
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古代史連続講座で意見を交わす登壇者たち
https://www.nishinippon.co.jp/import/f_chikuhou/20190128/201901280001_000.jpg
考古学者の高島忠平氏が監修とコメンテーターを務める古代史連続講座「古代から未来のトビラを拓(ひら)く〜遠賀川の古代文化と邪馬台国」の第6回フォーラムが27日、飯塚市で開かれた。関西外国語大教授の佐古和枝氏と、元佐賀県立名護屋城博物館館長の田平徳栄氏が「邪馬台国は東遷したか?」をテーマに議論。約150人が参加した。
邪馬台国の場所については、九州説と畿内説のほか、九州から畿内に移ったという東遷説がある。畿内説の田平氏は「東遷はノー。邪馬台国は魏が認めた唯一の政権で、一貫して畿内にあってヤマト王権に引き継がれた」と主張。
一方、九州説の佐古氏は「北部九州にあった論拠は、大規模集落や王墓が複数あり、大陸系の遺物が出ているからだ。ただ、九州説でも疑問点はある」と話した。
西日本新聞 2019年01月28日 06時00分
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_chikuhou/article/482459/
★1:2019/01/28(月) 22:24:45.70
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1548839246/ >>87
>そう言いたいのは分かるが肝心の原材料が
>魏の時代敵国の呉の領内にあったのではどうしようもない
邪馬台国の会が魏は銅山を使えなかったから銅鏡を作れなかったと決め付けてるだけだろ?
畿内説にイチャモンつけるときは魏は銅鏡を作れなかった、九州説を主張するときは銅鏡を作れた、という見事な二枚舌www 邪馬台国の南の狗奴国
魏志倭人伝の狗奴国の版図はヤマトの南の南河内と和泉だろう
元々狗奴国は畿内くらいの版図があったんじゃないかな
2世紀末の畿内征伐で、なにわ、北河内、ヤマトは卑弥呼を共立した勢力によって征伐されたんだろうな
狗奴国の官、狗古智卑狗は河内彦だろう
サルタヒコの伝承に出て来る地名が集まっている堺も含まれている
狗奴国とクナト
何か関係があるのだろうか?
其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和
女王国の支配に抗った狗奴国
根の国底の国の侵略に抗ったクナト 倭国大乱前に存在した畿内の国は滅ぼされたのだろうか?
畿内にあった銅鐸とヒスイの勾玉の集落
弥生時代末期に営みが終焉
貴重な勾玉が放置されている
池上曽根遺跡は、日本最大の井戸や弥生最大の大神殿、鉄工房もあった弥生時代にかなり栄えた集落。6cm大の巨大勾玉が出土
大阪は他にも高槻市成合遺跡、東大阪市鬼虎川遺跡、四条畷市城遺跡、高宮八丁遺跡
など、きりがないほどヒスイ勾玉が見つかっている。
奈良の唐古・鍵遺跡、鉄鉱に納められた巨大勾玉が見つかっている。貴重な勾玉が放置されていた。
これらの集落の人々はどうなってしまったのだろうか?
仁徳天皇の治世、再び勾玉が大ブームになる。
弥生時代の勾玉勢力と何か関係があるのだろうか? >>102
悪いが君のせいで読むのに要らんスクロールしないといけない
独り言はブログにでも書いてくれまいか? ホツマツタエという真偽不明な言い伝えがある
スズ(銅鐸?)は暦の源
とか物の化成の話とか色々書かれていて、結構面白い
ウツホ(空)とカゼ(風)、ホ(火)、ミズ(水)の四気が化成して生じたのが鳥類(四化)で、
その中でもウツホ(空)が勝っている鳥は良く空を飛び(飛鳥か)、
カゼ(風)の勝る鳥は美声で囀(さえず)り(鶯?)、
ホ(火)の勝る鳥は良く水に泳ぎ(鴨?)、
特にミズ(水)に勝る鳥の羽は柔らかで上等な羽二重(はぶたえ)の原料となります。
スズという音で思い出すのは、サザキ
スズは古語で小さいという意味らしい。
小、少、スクナい
仁徳天皇
大雀命
オオ【サザ】キのミコト
鳥の王様はミソ【サザ】イ
日本書紀によれば、応神が生まれて喜んだのは、神産巣日の子スクナヒコナとある
スクナヒコナは鳥の服を着ていたという日本書紀の記述もあるな
神産巣日、サザキで思い出すのは、
布都主、武甕槌の件で、櫛八玉神が料理をする話
この、私のつくる【火】は、大空高く【神産巣霊】(かみむすひ)の御祖尊の、命の富み栄える【新しい宮居】の煤の長く垂れ下がるように【焼き上げ】、
地の下は底岩に堅く焼き固まらせて、
緒の長い綱を延ばして釣りをする海人の釣り上げた大きな鱸(【すず】き)をさらさらと引き寄せあげて、
割り竹でたわむほど打って捕らえた、立派な魚料理を献上します
倭国大乱前に存在した畿内の国は滅ぼされたのだろうか? てか、邪馬台国の研究者って三国志を全部読んでんのかお(´・ω・`)
つい数百年前の漢字の意味とかもすっかり変わるのに、執筆された時代の漢字の意味で、筆者の意図も理解してる人はいないだろうな
焚書坑儒は歴代王朝もやったし、歴史的にはつい最近もやったし、補完する資料が少ない
考古学以外の違ったアプローチも必要 >>100
ん?これはどこに該当するの??
>中国にはないとされていた三角縁の神獣鏡が大陸にもあったっていう記事だろ?
中国産の銅であっても国産の可能性があるんじゃねーのってのがそのサイトの主旨だと思うが 延喜式祝詞には、
皇御孫之命は、天之御蔭 日之御蔭と【隠坐て】とある
同じく、坐摩神社の井戸の神々は、皇御孫之命にお仕えして、天之御蔭、日之御蔭と隠れていたとある
また道饗祭の祝詞には、クナトが高天原で事を始めた皇御孫之命で、根の国底の国の侵略に抗ったと書かれている。
これが平安時代の朝廷の認識である。
天とか日は関係ないのである。
なぜこういう事実を覆そうとするのか?
魏志倭人伝で言うなら、狗奴国の勢力が600年の内乱を経て倭国大乱前の有り様を取り返したと言えるだろう。
記紀なら神武東征による被害者である畿内の在地の勢力が、600年の内乱を経て平安を取り戻したと言える。 敦賀〜多賀〜甲賀〜伊賀〜雑賀〜那賀(阿波)〜香賀(讃岐)〜英賀(播磨)
近畿式の銅鐸分布範囲とほぼ一致する
賀は牙
旗印を掲げた拠点
防衛拠点、いわゆる関、 【天岩戸】
2世紀後半までは天岩戸で囲まれた国があったんだろう
倭国大乱で滅茶苦茶にされたんだろうな 出雲国造神賀詞から抜粋
大穴持の命の申したまはく、
己命の和魂を八咫の鏡に取り託けて、倭の大物主くしみかたまの命と名を称へて、大御和の神奈備に坐せ、
◎八咫の鏡はオオナムチの和魂
八咫の鏡が今あるのは伊勢神宮
能の三輪に通じるな
三輪 能
思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。
三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
天の岩戸は関。
関の向こう側に追いやられていた勢力が、ヤマトを征伐し邪馬台国、ヤマト政権を作ったんだろう。
斎宮歴史博物館のホームページに面白い話が載っている。
神鳳寺縁起帳によれば、
天照大御神は蛇で、夜な夜な斎王の元に通っているらしい
その度に鱗を一つ落としていくんだとか
その鱗を櫃に収めているのだが、櫃が鱗で一杯になるとこの世の終わりが訪れるのだとか
この話は蛇で有名な三輪の神さんに通じる
当時の庶民の歴史認識が垣間見れて、面白い
なぜ明治維新以降、天照大御神が皇祖神になったのか?
歴史を書き換えたのは、どういう理由があったんだろう? 何をどう考えても九州だろうね
渡来するのも現実的だし
交易で栄えたと考えるのも自然 >>111
基本的には4年のものはないものとして扱うのは畿内説でも同じ
森さんが一蹴してるから >>23
東征はどの時代なんだろうね?
邪馬台国以前の話なのか?
(卑弥呼と崇神天皇は同時代でその後に大和朝廷は九州に侵攻して邪馬台国を征服)
邪馬台国後に九州のどこかの国が畿内を制圧して大和朝廷をたてたのか? 古墳やら鏡の分布からして、大学ではもう九州派の学者なんて残ってない
卑弥呼の時代には倭国の中心が畿内に遷移している
問題は、北部九州から畿内に中心が遷移した時期ときっかけだな >>107
「2004年、中国の「上海博物館展」が日本の幾つかの博物館で開催されている。
殷・周時代から前漢・後漢・唐等に渡る時代の、特に青銅器を中心に展示されていて、
日本では初めて公開されるものも多く、人気を集めている。私も4回見に行った。
鼎(てい)や爵(しゃく)や鬲(ゆう)など、ここでは表現できない初めて見るような
漢字の器も数多く展示されていた。
その中に鏡も5,6点展示されていたが、いずれも日本初公開だった。ここに1点、
私の目を引いた鏡があった。以下に紹介する「張氏車騎神獣画像鏡」である。初め見たとき
驚いてしまった。「これは、三角縁神獣鏡じゃないのか!」 大きさと言い、神と獣の神仙画像と
言い、何よりも、周縁部の切り口は正(まさ)しく三角形に見える。中国では三角縁神獣鏡は
出土していないはずではないか。これは何だろう。」
「3回目に見た後、私はこの展示を担当している博物館の学芸員に電話をして、この疑問を
ぶつけてみた。学芸員とは10数分間話したような気がするが、彼がこの鏡が三角縁神獣鏡では
ないとした理由は、結論から言えば、
(1).これは後漢の鏡で時代が違う。三角縁神獣鏡というのは魏の鏡であり、
魏の時代のものでなければ三角縁神獣鏡とは言えない。
(2).縁は三角のように見えるが、少し丸みを帯びているようにも見える。
この鏡の断面図は無いので、三角縁と言えるかどうかはわからない。
(3).中国から(三角縁神獣鏡が)出土していないと言っても、中国で魏時代の墳墓は
まだ1基しか発掘されていないので、今後出る可能性はある。
というものだった。
そして、会話の中では、「三角縁神獣鏡」とは書けないので「張氏作」としました、
というような事も言っていた。」
三角縁神獣鏡と呼ばれていないだけで、中国にも三角縁の神獣鏡はあるんだよ >>115
>(卑弥呼と崇神天皇は同時代でその後に大和朝廷は九州に侵攻して邪馬台国を征服)
卑弥呼と崇神が大和のヒメヒコ
宝賀寿男氏の系譜研究を信じれば、卑弥呼と崇神が姉弟もあり得る >>94
中国人の見解ね
「日本出土の景初四年銘三角縁盤竜鏡」について
王仲殊
http://www7b.biglobe.ne.jp/~ronnrinomichibiki/1hp-ronbun-keisho4nen-ouchuushu-yamataikoku.pdf
晋書の4年は誤記だと
故に鏡は日本製
魏とは違う。呉の職人? >>23
卑弥呼も台与も大和の斎王というのが最近の説 >>115
東征は物証がないし、逆に畿内勢力が九州を征服した痕跡もない
あるとしたら、婿入りなどの婚姻による同盟成立ではないかと
阿蘇なんかは大和から婿入りしている 安本美典先生が邪馬台国は筑紫平野と言ってた
卑弥呼の墓は平原とも
個人的には狗奴国(熊襲)除く全部の九州だと思っている 近畿は古代から銅鐸職人がいたから
呉の銅銭を銅鐸に変え、銅鐸を銅鏡に変えたんだよ 「銅鐸ネットFAQ」(昨夜、荒らしの中に飛び込んだため再掲)
-----
枝葉だけど、このスレにはFAQになるので、、、
あ、いかめしい公式の説明しか聞きたくない人はスルーで
(間違ってこのスレに来た人ぐらいだけどw)
銅鐸って何のための道具? はやし浩司(初期からのYouTuber)
https://youtu.be/dFByeIriw6Y
急に消えたのは合わせることができるようになったから。
銅鐸の地域分布 https://syoki-kaimei.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_221/syoki-kaimei/E59BB3EFBC93EFBC95E98A85E990B8E58886E5B883E59BB3.jpg
(少ない所は、広域情報が入手可能だったか非農業文化だったため) 銅鐸は生贄の儀式に使う
今も諏訪大社で使われているはず
生贄も健在
皇室に国を譲る事に反対した人々が出雲(奈良)
から長野に移動した さっさと邪馬台国に行って現地の人とあって
確認してこいよ ついでの卑弥呼の顔も見てきてくれ >> 72 魏と呉に交流してたのは同じ倭国だと思う。
斉国・燕国(羌族ら)の属国だった倭国邪馬台国。邪馬台国は燕へ朝貢してた。
燕の出身者公孫氏。公孫氏は燕王を名乗り、魏に対して呉と協力関係
公孫氏は羌、鮮卑ら異民族を積極的に登用
230年 呉 孫権の将軍の衛温・諸葛直らに兵1万を率いさせ、夷州および亶州(台湾、沖縄)へ
233年 公孫淵 呉 孫権の使者として来訪した張弥・許晏・賀達らを殺害
238年 公孫淵 魏に滅ぼされる。司馬懿は遼東の成年男子7000人も虐殺 公孫淵派らは近畿や関東へ逃げる 常世岐姫神社で公孫淵を祀る
239年 公孫淵の属国だった倭国邪馬台国は魏にすかさず朝貢しはじめる
魏に乗り換えた事の功績を認めた。
317年 五胡十六国 匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の国が北東部に乱立し倭国も巻き込まれる。
千葉や兵庫に古墳が突如出現。 トウマ姓って沖縄に多いんだよな。
投馬国と関係があるかもしれんね。 邪馬台国の時代かどうかはともかく北九州には呉の人間が来てる
その骨が古墳から出てDNA鑑定で呉の人間だと確認されてる >>13
九州だと別の王朝の可能性か跳ね上がり万世一系に悖る
本当にもう宗教だよな >>133
大和朝廷は邪馬台国のことを詳細に知ってて隠しているのか?
魏志倭人伝に出てくる事は知ってるが実態は知らないのか? 朝貢するくらい有力だった王朝の後継を僭称した方が有利になれる
って当時の政治的判断は十分理解出来るんだよ
問題はその大和朝廷自体が十分単独でも権威持つほど続いた今でも
その当時の意図もよく分からずに思考停止してそれに固執してる所だ 九州説は陰謀論がほんと好きだな
他国の国名をパクって自分の国の国名にしてしまった事例あるの? >>66
銅鏡は銅と錫の合金。
銅が多く錫が少なければ新品の10円硬貨のような
赤銅(シャクドウ)色
錫が多くなると白銀色になる。 >>134
両方だろう
日本に人類が現れる頃邑や国が建つ頃から数百年経ってる上に
記紀を編纂した理由が
天智天皇の時代乙巳の変の影響で記録が焼けてしまった事
更に各氏族の記録には箔付けの改竄がバシバシ入ってる事
乙巳の変だの百済敗走だの壬申の乱と厄介事続きで権威回復も計りたい
なんだから、もう訳わからん事になってる物を
そういうコンセプトで纏めなさいってのが記紀 >>138
邪馬台国とは離れるけど、乙巳の変が無ければ蘇我氏が天皇を
好き勝手に決めてやりたい放題で国家統一は大きく遅れたやろね
藤原を擁護する気はないが、日本のターニングポイントだったわな >>93
奈良の明日香アスカは「ア」という接頭語に、砂洲を意味する「スカ」という言葉が付いた
難波宮(大阪)から近い南河内の飛鳥(アスカ)が「近つ飛鳥」、
遠い大和の方を「遠つ飛鳥」と呼んで区別する。 >>135
冊封体制は
国外交易と国外権益の安全と国内の富を
もたらしてくれるからね。現在でも。
と言って国内の富に王朝の一極集中はなかったでしょうな。
先ず鉄は鎌鋤になったでしょうし、
但馬、出雲に家宝をさせだせとかケチ臭い王朝だし w >>7
三国魏の第2代皇帝明帝=曹叡の時
丙寅(ひのえとら),司馬宣王圍公孫淵於襄平,大破之。
……
(明)帝曰:「【四千里】征伐,雖云用奇,亦當任力,不當稍計役費。」遂以四萬人行。
@三国志 魏書三 明帝紀 //ctext.org/sanguozhi/3/zh
つまり洛陽から(瀋陽、沈陽に近い)襄平まで4000里という尺度と帯方郡から邪馬臺国まで
1万2千里という尺度は矛盾する。
九州説は破綻している。 いい加減その距離数で云々するのは無意味だと知ろうぜ
別に九州に人間が魏の使節に伝えたわけじゃねぇんだから
魏の人間がどう書こうと知ったこっちゃねぇわな
群から狗邪韓国までが7000、そこからちょろちょろ動いて2000-3000
どこに着いたかわからんが、旅は全部で12000つうんだから
どこかその辺りにしかならんわ、里って単位に惑わされたらあかん >>103
唐古・鍵遺跡の赤錆色の鉄鉱容器に入った勾玉
奈良にはかつて淡路島その他の鉄器工房から持ち込まれた大量の鉄製品があって
彼方此方(あなたこなた=あちこち)に鉄粉が飛び散り
粘土質の土に飛び散ったものは土団子を作って
中に勾玉を入れ振ると唐古・鍵遺跡出土の褐鉄鉱のような容器が出来上がる。 「邪馬臺国は九州」とこじつけるために短里に固執する九州派
長里と短里の二枚舌で書かれた魏志倭人伝を金科玉条にする九州派
吉野ケ里から楼観が出土したという証拠もないのに
倭人伝に合わせてでっち上げた九州派
ご都合主義の九州派
自今以後里程談義は禁止 なんか親の仇みたいに書いてるな
そんなに邪馬台国好きなんかw
どこに在ろうとおまえには1mmも関係ねぇんだから
そんなに熱くなるな、腹減るだけだぞ 邪馬台国が書かれている魏志を読むと畿内に邪馬台国ないよねってはなし
ゼロベースで考えた方がいいと思う
じゃあ、邪馬台国がどこかと言われたら熊本北部あたりと答えるけどね(ハート 近畿に鉄がなかったというのは九州派が奈良説を潰すための洗脳、プロパガンダ
騙されては逝けない 短い里にしろ長い里にしろ
万二千里じゃ韓国の倍でも届かないけど
畿内説が正しいよ? 長里とか短里とかじゃなくてさ
韓国から対馬とか
対馬から壱岐の島とか
そっちで「〜里」って書いてあってそれを基準にできるんだから
それで決まりだろ
こんな簡単なことをスルーしてうだうだと
バカじゃないの? 倭人伝は全てが誇張されてるってみんなわかってるじゃん。
邪馬台国は九州だよ。大きくみせてるだけww >>89 万葉集は藤原氏に対する怨念だらけの恨み歌集なんだっけ確か 日本書紀の作為は、
・尺を伸ばしてる < 王朝の古さを強調?口頭伝承の何かの間違い?半分神代と思ってる?
・女性(巫女)の役割の縮小 < 中国とコンタクトしてから男系に切り替えたから?
・朝貢の事実の抹消 < 中華秩序からの脱却という執筆当時のイデオロギー
大和と特定できれば、日本古代史の謎は一気に解けるかと思う 素直に読めば
日本列島全体のことを記述してるとは思わんよな普通に
九州内で収まってる話だろって思うよな 韓国から末路国まではちゃんと海を渡るって書いてるんだから
九州から海に出て近畿まで行くならそういう記述するわ 魏の使節に嘘をついたのは九州の勢力が機内のことを隠そうとしたってことだよ >>154
邪馬台国がどこであろうが、そもそも郡使は伊都国までしか行ってないのは明白
以降は伝聞に過ぎず、倭王に会った、宮殿を見た、墓を見たも嘘か、記録の混乱 女王国より北は戸数・道里を略載することが可能
って書いてるから >>160
短里がうんぬん言うヤツは
韓国から対馬までの距離をどう説明すんの? >>150
>韓国から対馬とか
>対馬から壱岐の島とか
>そっちで「〜里」って書いてあってそれを基準にできるんだから
基準になりません
当時渡海距離を測る方法はなかったから
実際、渡海三ヶ所の距離は倍くらい違うけれど、一律で千里としてあるでしょ?
現実に距離とは関係のない机上で作った設定値なんだから、基準にはならないよ
この辺を無視して短里はありまぁーすって言い続けるから、九州説はカルト化していく 梯雋と張政両方の話を適当にまとめたような感じはするな。
しかし実際に行ってる人が言ってるんだからしゃーない >>162
長里で計算したら
韓国から対馬までの距離が500kmになるんだけど >>161
海を渡るのは大変だから、
一回渡れば千里という表現にしてるだけ
だから、
朝鮮から対馬まで
対馬から壱岐まで
壱岐から松浦までの距離がすべて千里と表現されてる
実際はそれぞれの距離は違うだろ?
本当に距離を測ってるわけではない
そもそも、海の距離ってどうやって測る?
自分が距離を測るとして、どうやれば測れると思う?
1800年くらい前の技術力で 長さの単位なんだから、「短里」があるなら、明確な定義があるはずなんだが存在しない
実用上、表記法も変えないといけないが、「里」しかない >>165
帯方郡から狗邪韓国までは7000余里だけど? だから、短里か誇張かの二者択一だわな
誇張説をとるなら、数値に関することは全て疑うスタンスが正しいだろう
これは正しい、これは誇張だというのは恣意的になるからね >>169
え?は?
この会話の流れで?
何が理解できない? >>1
最初は地理的に九州から発展したのは間違いない
古代は中国との近さが国の文明発展のポイントだった >>168
陸上での距離の測り方もどうなのか分からないしね
一日歩けば何里という測り方だと
道が険しくて進みにくい山道だと実際より長くなるし
中国からの使者がメジャー持って長さを測りながら歩くとも思えないし
そもそも魏志倭人伝の記述は昔の書物のコピペだし >>170
分からんなぁ
分かるように細かく説明しなさい
それができないなら他人を説得することはできない
>帯方郡から狗邪韓国までは7000余里
だとしたら、何がどうなるんだ? >>120
>晋書の4年は誤記だと
>故に鏡は日本製
>魏とは違う。呉の職人?
王仲殊は、呉の職人が倭国に来て三角縁神獣鏡を作ったというのが根本なんだけど
その「呉の職人が倭国に来て」という部分に根拠がないし、憶測以上のものではない
景初四年の、というか正始改元のいきさつは史書に書いてあるのはその通りだけれど、
その改元の理由が先帝一周忌の弔事と、新帝最初の正月元旦の慶事の祝典を同日にはできないと
いうことであり、そのためには結局、景初三年の次の正月元旦が2回ないと解決にならない
景初三年12月の詔勅で、景初三年の12月が2回あることになるが、一月一日崩御の一周忌を
同じ年の閏(後)12月1日には結局はできないってこと 韓国から対馬までと
対馬から壱岐の島までは実際にだいたい同じくらいの距離だわ
だから末ら国の場所が今考えられてるとこと違うんじゃないの?
結局それだって邪馬台国は畿内だっていう思い込みの中で探されたんだろうし
実際はもっと西だと思うわ >>173
長里で7000余里を計算したら3500kmになるんだぞ
お前が言ってた「海を渡ったら全部1000里にするんだろ」っていう妄想でも説明できないしどうすんの?
っていう話だろ
わからんか? あの時代は字もまともに書けないのに統一なんて無理じゃん。
予算目当ての生活がかかってる関係者が畿内押しはわかるけどね
欲がない人からしたら普通に九州ってわかるじゃんww まぁ末ら国が松浦だとしても
対馬〜壱岐の島の距離とはそんなに変わらないけども
3分の2ってとこか? ゾンサガの山田たえちゃんって
邪馬台の台与ちゃん? >>173
邪馬台国の位置や大きさを偽ることで
1)呉のすぐ背後(台湾のすぐ東)に巨大な邪馬台国があると見せかけて、魏が呉をけん制した説
2)巨大な大月氏国に朝貢させた曹真の功績に司馬懿の功績が見劣りしないよう、邪馬台国も巨大だと見せかけた説
などがある
https://hajimete-sangokushi.com/2015/07/29/post-4873/
魏志倭人伝に記されている旅程距離のほとんどが里数で記されているのに、
何故だか突然、不弥国から邪馬台国までの距離だけが日数で書かれているのです。
どう考えてもおかしいですよね?
この里数から途中、「何らかの理由」で日数を故意的に魏志倭人伝に記したという説。
魏が親密な関係である邪馬台国を敵対している呉に対して、
すぐ東方海上にあるように見せかけ呉の背後に魏との同盟国が存在するという牽制(けん制)するためという説もあります。
(略)
241年の夏には孫権が大規模な魏侵攻を行いました。
諸葛瑾を呉の大将軍に就任させ、荊州方面に軍を展開し、魏の柤中まで占領しました。
魏にとっては一大事の出来事です。
少しでも呉からの侵攻を牽制させるために、
邪馬台国を呉のすぐ東方海上にあるように見せかけたいので、
魏志倭人伝の里数を途中から日数に変え、現代の我々にとっては邪馬台国の場所が特定出来づらくなったという説があります。
邪馬台国には親魏倭王、大月氏国には親魏大月氏王の称号を送った魏の皇帝・曹叡ですが….
さて、司馬懿と曹真の各異民族の朝貢を比べてみましょう。
大月氏国(クシャン朝)は国の面積も広く、邪馬台国の日本の面積と比較してしまうと
どうしても司馬懿の功績が見劣りしてしまいます。
魏志倭人伝を含む三国志の正史が作られたのは晋の時代です。
魏を正統な国家として扱い、魏から皇帝の座を引き継いだ晋の皇帝である
司馬氏の正当性を周知させるために作られた歴史書ですから、晋の礎を築いた
司馬懿の功績が曹真に見劣りしてしまうと、司馬懿による政権交代が不都合にもなります。
そこで、曹真の功績と比べても見劣りしないよう
邪馬台国がいかに遥か遠い国からやってきた巨大国であるというのを記す為に
里数を途中から日数に変えたという説です。 狗奴韓国からは目視できる距離だから、ああ対馬は1000里ぐらい、壱岐も同じ距離だな、ふむちょっと小さいけどまあいいやみたいな >>184 に追加
3)邪馬台国が正確な位置を知られて将来攻め込まれることを警戒して、意図的に魏の使者にフェイク情報を伝えた説
(実際に、呉の孫権はその情報を鵜呑みにして大船団を送り込んで大失敗した) >>175
辺に奴国の金印が志賀島で発掘されたのが奴等を調子付かせた
コレに託けて南と書いてるのに西への大転換をするからな >>176
途中で何回か陸地伝いじゃなく、海を渡るような進み方をしたんだろ >>175
壱岐からマツラ国までの記述には方角がないんだよね。
で、壱岐から東側に同じ程度の距離を進んでいくと、宗像市
の神湊ってところがあるんだよね。 >>188
もうさ結局そんな読み方してたら最終的な12000里だって
長里だとかそういう話はできなくなるじゃん いやそもそも12000里を長里で表したら5000kmなわけで
日本の畿内どころか日本の遥か先だったわけだし 魏志倭人伝の1里は80m
公孫氏が魏に対して自国の領土を大きく見せる為に使っていた。 >>192
そもそも短里なんて他で使ってる形跡がないんだから
ただの言葉遊びのこじつけでしかない
そんなの真面目に考える方がアホらしい
12000里なんて
とんでもなく遠いという意味でしかない
12000里を、どうやって測るんだ?
言葉遊びじゃなく、真面目に考えてみろ あ、
俺は短里とか放射説は全否定するけど
それでも九州説だぞ 女王国まで12000里
その手前の九州北部は女王国ですらないんだけどね >>196
陳寿は足し算すらできないと言うのか、、
放射説の九州説ですよろしく >>193
12000里だと日本のはるか先だ
だから「短里」だ
と考えるのがおかしい
白髪三千丈の中国だから数字は誇張されていると考えるべき
これが正解 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています