>>226の続き
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ルーズベルトは対日石油禁輸が極めて危険度の高い制裁手段であることを
承知していた。
当時、海軍作戦部長であったスタークは大統領から対日石油禁輸について意見を求められ、
「禁輸は日本のマレー、蘭印、フィリピンに対する攻撃を誘発し、
直ちに米国を戦争に捲き込む結果になろう」との意見を提出していたことが
昭和21年、真珠湾に関する議会委員会の聴聞会で明らかになっている。
同じスターク提督は戦争中の19年、海軍軍事法廷での証言で
「石油禁輸の後は日本はどこかへ進出して石油を取得する他なかったのであり、
自分が日本人だったとしてもそうしただろう」と述べたのであった。
ピアード教授は「ルーズベルト大統領は1941年夏、海軍の専門家達から
対日経済制裁は延期すべきであり、そのような行動をとればかなり早い時期に
日本の攻撃を招くであろうとの忠告を予め受けていたのだ」と述べ
対日石油禁輸を批判する。
「大東亜戦争への道」展転社 中村粲

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東郷茂徳は東京裁判の口述書でその時の我方の反応を
「ハル・ノートに対する出席者全員の感じは一様だった思う。
米国は従来の交渉経緯と一致点を全て無視し、最後通牒を突きつけてきたのだ。
我々は、米側は明らかに平和解決の望みも意思も持っていないと感じた。
蓋しハル・ノートは平和の代価として日本が米国の立場に全面降伏することを
要求するものであることは我々に明らかであり、米側にも明らかであったに違いないからだ。
日本は今や長年の犠牲の結果を全て放棄するばかりか、極東の大国たる国際的地位を棄てることを
求められたのである。
これは国家的自殺に等しく、この挑戦に対抗し、自らを護る唯一の残された道は戦争であった」と述べている。
これは軍部の見解ではなく、文官たる外務大臣の意見であることに注意すべきである。
無論、東條首相の宣誓供述書も殆どこれと同趣旨である。
即ち連絡会議の結論は
(1)ハルノートは明らかに最後通牒であり
(2)米国は我国が受諾できない事を知りつつ、しかも関係国との緊密な了解の上に通知してきて居り
(3)米側はすでに対日戦争を決意しているが如くである。

「大東亜戦争への道」展転社 中村粲