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【皇室】天皇陛下、皇后陛下とともに在位30年を記念する政府主催の式典に出席。そのお言葉全文

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0001記憶たどり。 ★
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2019/02/24(日) 16:17:32.13ID:+Sng6mJ49
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190224/k10011826401000.html

在位30年に当たり、政府並びに国の内外から寄せられた祝意に対し、深く感謝いたします。

即位から30年、こと多く過ぎた日々を振り返り、今日こうして国の内外の祝意に包まれ、このような日を迎えることを誠に感慨深く思います。

平成の30年間、日本は国民の平和を希求する強い意志に支えられ、近現代において初めて戦争を経験せぬ時代を持ちましたが、
それはまた、決して平坦な時代ではなく、多くの予想せぬ困難に直面した時代でもありました。

世界は気候変動の周期に入り、我が国も多くの自然災害に襲われ、また高齢化、少子化による人口構造の変化から、
過去に経験のない多くの社会現象にも直面しました。

島国として比較的恵まれた形で独自の文化を育ててきた我が国も、今、グローバル化する世界の中で、更に外に向かって開かれ、
その中で叡智を持って自らの立場を確立し、誠意を持って他国との関係を構築していくことが求められているのではないかと思います。

天皇として即位して以来今日まで、日々国の安寧と人々の幸せを祈り、象徴としていかにあるべきかを考えつつ過ごしてきました。

しかし憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが、次の時代、
更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています。

天皇としてのこれまでの務めを、人々の助けを得て行うことができたことは幸せなことでした。

これまでの私の全ての仕事は、国の組織の同意と支持のもと、初めて行い得たものであり、私がこれまで果たすべき
務めを果たしてこられたのは、その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことのできるこの国の人々の存在と、
過去から今に至る長い年月に、日本人がつくり上げてきた、この国の持つ民度のお陰でした。

災害の相次いだこの30年を通し、不幸にも被災の地で多くの悲しみに遭遇しながらも、健気に耐え抜いてきた人々、
そして被災地の哀しみを我が事とし、様々な形で寄り添い続けてきた全国の人々の姿は、私の在位中の忘れ難い記憶の1つです。

今日この機会に、日本が苦しみと悲しみのさ中にあった時、少なからぬ関心を寄せられた諸外国の方々にも、
お礼の気持ちを述べたく思います。

数知れぬ多くの国や国際機関、また地域が、心のこもった援助を与えてくださいました。

心より深く感謝いたします。

平成が始まって間もなく、皇后は感慨のこもった一首の歌を記しています。

ともどもに平(たひ)らけき代を築かむと諸人(もろひと)のことば国うちに充(み)つ

平成は昭和天皇の崩御と共に、深い悲しみに沈む諒闇の中に歩みを始めました。

そのような時でしたから、この歌にある「言葉」は、決して声高に語られたものではありませんでした。

しかしこの頃、全国各地より寄せられた「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」という静かな中にも決意に満ちた言葉を、
私どもは今も大切に心にとどめています。

在位30年に当たり、今日このような式典を催してくださった皆様に厚く感謝を表し、ここに改めて、我が国と世界の人々の安寧と
幸せを祈ります。
0107名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:46:11.02ID:LR+w1t3N0
>>105 >>537 >>538 >>539 >>547 >>548 >>549

この理屈を正気で採用するのであれば、土民が酋長を選ぶ理屈とさして変わらないだろう
朝鮮朱子学の皇室との一体理論というのは脅迫によるヒステリーによって成り立つが、そもそも無理がある理論だから朝鮮朱子学という集団ヒステリー病に
一国が依存することになる

排泄物が神、神から人間が生まれるというような内容では史実と考えることは到底できない
神武天皇即位から10世紀以上経過した8世紀に書かれた日本書紀だけが根拠であるというなら、一体どこからどこまでが史実なのか、
なぜ皇室が成立したかを可能な範囲で知る必要がある

こうした疑問に答えられるなら歴史書に価値はある
0108名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:46:27.53ID:LR+w1t3N0
>>557 >>558 >>559 >>567 >>568 >>569 >>577

https://ja.wikipedia.org/wiki/和諧社会
概説
和とは、「和睦」すなわち心を合わせて助け合うことを意味し、諧とは「協調」すなわち衝突がないことを意味する[1]。
様々な社会的矛盾への取組として、和諧社会の建設は、国家戦略の根幹として位置付けられている[1]。2005年胡錦濤は、
地方政府の幹部の討論会の講話において、社会主義和諧社会とは「民主、法治、公平、正義が実現されな誠心友愛にあふれ、
活力に満ち、秩序が安定し、人と自然が互いに調和されている社会である」と述べた[1][5]。
0109名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:46:39.02ID:BRYs86eA0
【チベット侵略】チベット「アジャ・リンポチェ」とは

チベットにはトゥルクと呼ばれる特別な僧侶たちがいる

トゥルクの一人に「アジャ・リンポチェ」という僧侶がいる。「アジャ」というのはお父さんという意味で、チベット仏教ゲルク派の始祖ツォンカパの父親が転生したのがアジャ・リンポチェなのだそうだ。

実はこのアジャ・リンポチェ、日本とも縁がある人物だ。先々代のアジャ・リンポチェは、明治時代に日本に来たことがある。
力自慢だったアジャ・リンポチェは、明治天皇の前で力士と相撲を取って、見事勝利をおさめ、明治天皇から褒美をもらったそうだ。

当代のアジャ・リンポチェも子供のころに、先々代が明治天皇からもらった褒美の品を見たことがあるそうだが、中国の占領下で、今は散逸してしまっている。

このアジャ・リンポチェ、実はチベット人ではなく、モンゴル人だ。チベット人とモンゴル人には文化的な繋がりがあり、モンゴル人にもチベット仏教の信徒は多い。
どちらも遊牧民で、地続きなので、当然と言えば当然のことだ。

有名どころでは、横綱をやめた朝青龍もチベット仏教の熱心な信徒で、ダライ・ラマが沖縄に来た時は、ダライ・ラマに会いたいという気持ちを抑えきれずに、けいこを休んで飛行機で沖縄に行っている。
0111名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:47:02.05ID:BRYs86eA0
■アジャ・リンポチェが、なぜ亡命を決意したのだろうか? 

実は、これにはパンチェン・ラマが関わっている。

現在、中国に2人のパンチェン・ラマがいる。
ダライ・ラマによって認定された本物のパンチェン・ラマと、中国政府が勝手に認定した偽パンチェン・ラマだ。

 1998年、中国政府は、アジャ・リンポチェに、この偽パンチェン・ラマの教育係を引き受けるよう指示した。

『これを受け入れれば、ダライ・ラマが認めた本物のパンチェン・ラマを否定することになる。中国国内にいる限り、教育係を断ることは不可能だ』、アジャ・リンポチェは、そう考えて、亡命を決意し、実行にうつした。

 亡命後、アジャ・リンポチェは、偽パンチェン・ラマが選ばれた経緯についても語っている。

偽パンチェン・ラマの選出は、金壷と呼ばれる壷を使ったくじ引きで行われた。

金壷については、いずれ語るつもりなので詳細は省くが、そのくじ引きの場には、チベット本土に残っていた高僧のほとんどが集められたいた。中国側が、この儀式の体裁を整えるために集めたのだった。

僧侶たちは多数の兵士たちの監視の下で、この儀式に参加し、籤をひいた僧侶は、中国政府の指示通りに印のついた籤を引き、今の偽パンチェンラマが選ばれたのだそうだ。
0112名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:47:02.81ID:LR+w1t3N0
>>599 >>607 >>608 >>609 >>617 >>618 >>619

日本は極東の島国という地政学上の立地によって侵略や国外での戦争を免れてきた、そのため卑猥で下品な挿話を含む原始的な先祖霊神話の宗教が残った

島国の中で争いの絶えない時期や、平和な時期もあったし、餓死者がいた時期もあるし、それらは普通の国の歴史で一部の者が言うところの神話的なダイナミックさはない
文明人が立ち寄らないジャングルの原始的生活をする部族の宗教がいまだに残っている状態と考えれば良い

神道を海外で奇妙・珍奇と考えるものはいても、尊敬しているものが多数派かと聞かれると疑問符がつくが、ただそのユニークさのため人類学の一ページとして
残した方が良いだろう

紗里野且力左衛門(侍)@A3M5LjZ6mpc5c6z
先祖を祭るということに関して、もう一つ言っておかなければならないのは、儒教には、
どんな場合でも子孫を絶やしてはいけない、という思想があるということです。 これは
むしろ日本で重要視された考え方なのですが、(中略)子孫が絶えると、先祖のお祭りをす
る後継者がいなくなるからです。(井沢元彦)

ののまる@nonomaru116
まぁ、朱子学者の論理って、いわゆる儒教的価値観を古今東西に通底する倫理の大原則とした上で、
その観点から歴史上の出来事を分析・何が悪事・失敗の根本的な原因かを探して断罪し、後世の亀鑑
とするってものですからねぇ。そもそもがリアリスティックじゃないw
0113名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:47:13.00ID:LR+w1t3N0
https://kotobank.jp/word/身分統制令

身分制度は、階級社会の社会的秩序を維持・強化するためにつくられたものである。
わが国近世の封建的身分制度が創出されたのは豊臣(とよとみ)政権期のことである。
羽柴(はしば)(豊臣)秀吉は、1582年(天正10)太閤(たいこう)検地に着手、名主百姓(みょうしゅびゃくしょう)
など土豪に対して、農業から離脱するか、農業に専念するか、二つに一つを選択させ、下人(げにん)・名子(なご)
など隷属農民を土豪の支配から自立させ、農民を直接に把握し、土地に束縛する政策を打ち出した。また秀吉は、
1588年刀狩令(かたながりれい)を発し、農民から武器を没収した。検地と刀狩は武士と農民との区分を明確にし、
農民を被支配身分として固定させる政策であった。秀吉はさらに、1591年京都に地子(じし)(田畑・屋敷に対する賦課)
を免許する法令を出し、公家(くげ)・寺社など中世的な領主の地子徴収権を否定して、幾重にもなっていた土地所有関係
を改め、都市における封建的土地所有権の確立を目ざした。そして同年、身分統制令を発布して、
侍(さむらい)・中間(ちゅうげん)・小者(こもの)が農民・町人になったり、農民が商人・職人になるといった、
身分の転換を禁止した。このようにして武士と農民・町人の身分の固定化が図られたのである。さらに98年(慶長3)には、
大名は転封の際、家臣をすべて新領に従えていかなければならないとし、検地帳に記載されている農民を連れていっては
ならないとする布令が秀吉の名で出された。
0114名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:47:23.12ID:BRYs86eA0
■アジャ・リンポチェ被災地へ

 2011年3月11日、東北地方を未曾有の大災害が襲った。アジャ・リンポチェは、この災害に大変、心を悼めた。

2008年秋、多くの在日モンゴル人や、その支持者らからの招聘でアジャ・リンポチェは日本を訪れたが、その折に、東北地方にも立ち寄っていたのも一つの理由だろう。

 2011年6月4日仙台市にある松音寺という寺で、アジャ・リンポチェを招き、震災犠牲者慰霊のための法要が行われた。
法要のあと、アジャ・リンポチェは一体の仏像を松音寺に安置した。

それは、チベットで多くの信仰を集めるターラー菩薩、観音様が流した涙から蓮が生え、その花の中から生まれたとされる菩薩の像だった。

アジャ・リンポチェが亡命する時に、僧院長を務めていたクンブム僧院から、この仏像だけは手放せないと持ってきた品物だった。

 アジャ・リンポチェは「私はこのターラ菩薩に今まで何度も苦しい時や困難な時を助けて頂いた。

今度はこの度の大震災によって苦しんでいる被災者の方々を救って頂く為、被災地であるここ宮城にお持ちして縁のある松音寺に安置することにした」と語ったそうだ。
0115名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:48:08.87ID:LR+w1t3N0
>>800 >>801 >>802 >>803 >>804 >>805 >>806

日本人が身分という単語で想起するのはカースト、奴隷、律令制となるが、身分はこうした狭義の例に限られるようなものではないし
カーストもイメージと異なり階層移動が例外的に認められることがあり、現代の成文法で考えるような法律として厳密なものでなく宗教的(江戸時代の場合は藤原惺窩、林羅山の朝鮮朱子学)なものだった

身分制度が無いとする側がミスリードをする際に多用するのは、身分制度がなければ身分はないという主張だが、その定義だとカーストも身分制度と言えるか微妙であり
さらに身分の定義は遥かに広く使われているため、上司と部下、主君と家臣、官位、社会的地位は身分制度と言えるが、人間が平等に生まれ、平等な権利を持ち、
その権利や自由を侵すことができないという宗教上の通念がない日本では、身分制度が常識的すぎて、マルクス唯物論史観の言う主人と奴隷の二元論的主客関係以外は身分制度ではないと誤った認識を持つ傾向がある

身分
身分(みぶん)とは、広義には特定の社会または集団において他の人が占めている他の地位との関連で捉えられる
同一社会または同一集団の内部で位置づけられるその人の地位[1]。

職分による身分、地位から来る身分、科挙から来る身分、社会的・経済的ステータス、性別による身分、年齢から来る身分は成文法的な制度ではないが、
ソフトな社会慣習法・不文律による身分制度と言える。成文法によるなら身分による慣習は立法によって廃止するまでは違法性が認識されない
そのため社会の隅々まで行き渡っている身分社会慣習は慣習法・不文法として認知されており禁止が明文化されていないのであれば身分制度と呼称する根拠は十分にある

特定のグループだけが不都合、不便、不快、不利益な思いをしても、それが法律的に否定されるまでは慣習が存在したことになるため、外部的に身分制度または身分が存在したと見なされることは十分にありえる

例えば平安貴族が暴行・強姦をしたとしても軽罰ですむとする。それが法律としてそれが合法であると名文化されているわけではない
平安貴族が平民に対して犯罪行為をして軽い謹慎程度の処分ですむとしたら、社会慣習上の身分制度があったと外部は見なすだろう

身分制度に関する外部からの主張に裏づけがあるのであればその主張を否定するのは困難となるだけでなく、内部からその指摘を認識するのは一層困難なものとなる

儒教圏の身分は重層的であるため、実数は10どころか100、1,000とあっても不思議はないため、日本人のイメージするカースト的な4つに分けた
身分の概念を聞いても違和感が先行するわけだ。そんな4つの分類しかない人工的な身分は存在するわけが無いというのが大半の反応となる
儒教に浸かってしまうと、重層的身分構造は呼吸をするぐらい自然なため、身分制度・身分差別を意識することはないから身分制度という表現に反発しているわけだが実体として身分はある

外部から見れば奇異な因習に見えても内部から認識する難易度は高いため、身分制度という表現を嫌うものが増えたわけだ
0116名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:48:24.65ID:/2oPQVpI0
>>104
昭和の方がええな
0117名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:48:28.52ID:LR+w1t3N0
>>920 >>921 >>922 >>923 >>924 >>925 >>926

人間が平等に生まれ、平等な権利を持ち、 その権利や自由、(身分や地位、性別、年齢、血筋で蔑視するなどして)尊厳を侵す(身分からの自由の概念と密接に関係)
ことができないという宗教上の通念がない日本では社会的地位、社会階級(上流、中流、下流)、出生地、血筋、資産、性別、年齢、学歴、肩書は重層的な身分構造を決定する資源と言える
儒教圏では資源を他より少なく持つものは社会的に蔑視されやすくなる傾向がある
0118名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:48:47.25ID:picgtc0q0
バカがコピペばかり貼っている
誰も読まないのに
0119名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:48:49.91ID:Zj6NE9k90
空気読んで早く死ねばいいのに。
0120名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:48:55.79ID:BRYs86eA0
【国際】天皇陛下とタイ・プミポン国王の深い絆
 2人が尽力した養殖魚ティラピアがタイ国民の食生活支える

13日に死去が伝えられたタイのプミポン国王とは、天皇、皇后両陛下をはじめ皇族方が50年以上にわたり、家族ぐるみの親交を重ねられてきた。

陛下と国王のご交流がきっかけで養殖が始まったティラピアは今や、タイ国民の食生活を支えている。両陛下が皇太子同妃時代の昭和39年にタイを訪れた際、国王からタイの気候に合う養殖魚がないかと相談を受けられた。

陛下はアフリカ原産で繁殖力が強いティラピアの存在を伝え、帰国後に東宮御所で養殖したティラピア50匹を国王に贈られた。

国王は王宮の池で養殖を重ね、その後、国内各地の貯水池やダムに放流され、食用として広まったという。

平成3年、陛下が皇后さまとともに即位後初の海外訪問先に選ばれたのは、タイだった。 国王主催の晩餐会でもてなされたほか、陛下お一人でティラピアを養殖する農業開発研究センターを視察されている。

今年4月の熊本地震の後には、国王から「王妃と私は、地震で人命が失われ、負傷者も出たことを悲しんでいる」とする陛下宛ての書簡が届けられたという。

皇太子ご夫妻も6年、同国に国王を表敬訪問し、王室主催の夕食会に出席したほか、24年には皇太子さまが再びタイを訪れ、国王と会見されている。
0121名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:48:55.88ID:LR+w1t3N0
>>115 >>960 >>961 >>962 >>963 >>964 >>965

ヒンドゥー教のカーストは宗教上は変えられないとされるが、実際に変更できた事例はあるらしく儒教の士農工商(議論)に類似する点が多くある

カーストが破れる例は2つある

- 現代の法律上はカーストのアップグレードは可能(ダウングレードは被差別階層の優遇措置があるため不可)
- ブラフミンやクシャトリヤが認めればアップグレード可能

江戸時代のハードコアな儒教原理主義者とヒンドゥー教原理主義者は職分や身分は宗教的なもののため、変更には断固反対するだろうが、古今身分制度とされる制度で例外はしばしばある

儒教の士農工商の枠組みにおいて例外的に裕福で影響力のある町民や百姓が下級武士・郷士になることがあったとしても、競争によらない血統・コネで
出世する事例が圧倒的過半数であり、実力があれば下級武士になれるから身分制度でないというのは単線思考に良くある誤った認識だ

https://www.quora.com/In-India-can-a-person-change-their-caste-If-so-how-does-one-do-this
Parama Devi, Founder and Director at Jagannatha Vallabha Vedic Research Center
Answered Sep 28, 2018 · Author has 2.4k answers and 306.8k answer views
There are 2 aspects of the issue.

One is the legal aspect. Under the present legislation, it is possible to change one’s caste upwards and not downwards because
that would mean cheating for the purpose of obtaining the special privileges (called “reservation”) that the government gives to
the lower castes, specifically SC (scheduled castes), ST (scheduled tribes) and OBC (other backward castes).

So you can simply write an affidavit with some witness and get it certified by a notary, and at the next census you show the affidavit to the questioner.
However, hardly anyone does that because there is no legal benefit in belonging to a “higher caste”, so you do not need a “caste certificate”.

The second aspect is SOCIAL, generally described as “religious” but the definition is not really fitting, because the caste system has NO BASIS in the actual original genuine Hindu society.
The actual original genuine system is called VARNA, not “caste”.

However, ignorant or ill-motivated “religious Hindus” keep confusing the 2 concepts to perpetuate their disastrous BIRTH PREJUDICE,
that all Hindu scriptures condemn as the very root of all ignorance.
Historically, there are innumerable examples of people who “changed their varna” simply through recognition awarded by a single
brahmana/ guru, or by the local assembly of brahmanas, or by the local king.
0124名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:49:18.73ID:fVid6bWL0
なんでコピペばっかやの・・・

天皇陛下の御言葉の最中に
皇后陛下が手を差し伸べられた瞬間が
本当に微笑ましく、 万歳三唱で心晴れやかになり、 退場なされる時には笑顔で手をお振りになり
素晴らしい式典だった。
話まとめると泣けたわ。
0125名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:49:43.76ID:SGKYy4Y/0
原稿3枚のうちの2枚しか持っていなくって
2枚読み終えたらまた元の一枚に戻ってしまって
「どゆこと?」と思った
美智子様がそれを制御
サンマリノの大使は初めから緊張しっぱなしだったし
天皇陛下は途中で居眠り的な動きがあったし

上級国民の方は上級国民の方でいろいろ大変そうだった
マイクにスイッチ入ってるかとか
金屏風に対して机?がちょっと中央からずれてるとか
何で百合の花の花粉取っちゃってるのとか
いろいろ気になってちょっと疲れた

テレビの前で直立不動で国家歌ったし
お言葉も聴いた
涙出た

安倍さんありがとうございました
0127名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:50:06.72ID:BRYs86eA0
■平成3年

多摩全生園を訪ふ

めしひつつ住む人多きこの園に風運びこよ木の香(か)花の香

全生園はハンセン病患者の療養所。末梢神経が冒されるため、盲目の患者が多いという。そういう人たちのため、風よ、木や花の香りを運んできてくれ、と歌う。

美智子様は、孤児院など養護施設への訪問時の歌も多い。
0128名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:50:23.48ID:cuclP7aC0
新種の荒らしは必死だね。

( ´,_ゝ`)
0129名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:50:29.49ID:BRYs86eA0
皇后美智子様

■昭和58年

蜩(ひぐらし)

かかる宵(よい)われは好むという吾娘(わこ)のまみ優しみて蜩(ひぐらし)をきく

まみ・・・目もと

宵とか夕べという言葉は、現代ではほとんど死語になってしまった。かつては一日の仕事の終わったあとの休息の時間、夜の迫るのを何とはなしに待つ時間であったろう。

そんな寛いだ時間に、母娘が蝉の音を聞きながら心を通わせている、そういう情景を描いた歌。吾娘とは勿論清子内親王。

おそらくは夏の終わり、暑い日差しの過ぎ去ろうという時期の歌。季節的にも時間的にも、好きだと確かに言える時間であろう。
0130名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:50:53.38ID:LR+w1t3N0
>>115 >>121

ヒンドゥー教のカーストは日本には以下のように当てはめることができるが
カーストの種類は3,000に分割でき、さらに細かく25,000に分類することも可能らしい。前述の通りクシャトリヤや宗教指導者が認めれば職分のアップグレードの事例もある

ブラフミン:祖霊信仰を核とした皇族・公家(神別氏族)、宗教指導者(聖人の子孫達、例:親鸞の子孫)、清和源氏・桓武平氏等の日本型宗族の門閥・閨閥
クシャトリヤ:武士
ヴァイシャ:裕福な地主・商人・金貸し(後世に農業はシュードラに譲り商業)
シュードラ:百姓、町民、一般人・平民
不可触民:エタ・非人、奴婢等

ヴァイシャは当初は農業も含んだが後に農業階級を指さなくなるため、シュードラは士農工商の町人・百姓の両方を兼ねるが、後に富裕層に変わったヴァイシャが君臨する

つまりカーストや士農工商は宗教から来る慣習法的な社会制度であり、現代人の考える成文法的身分制度ではなく宗教をルーツにする。儒教・神道(神儒一致思想)の祖霊信仰から来る士農工商とインドのヒンドゥー教原理主義カーストの共通点は、
権力者が立法によって勝手に決めたものでなく、聖典(ヒンドゥーや朱熹・孔子)の聖性を支配者が利用して権力維持や社会安定の礎としたことにある(階層の自由な移動を禁じた身分統制令を発した豊臣秀吉政権も藤原惺窩を重用している)

Hindu religious texts assigned Vaishyas to traditional roles in agriculture and cattle-rearing, but over time they came to be
landowners, traders and money-lenders.[1]

重要な税収源である農耕民が逃げないよう明文または慣習的に規制をはるのは、世界中どこもでも見られるが、アブラハム系宗教の改革から取り残されたインド、東アジア(日中朝)を除いてそうした慣習は形を変えながら廃されず温存された

戦国時代の経験から江戸時代や秀吉(身分統制令)の時代には一定の合理性が見られたが、現代では儒教・神道(神儒一致思想)の祖霊信仰から来る士農工商のベース
となる儒教・朱子学の知識が劣化・形骸化・因習化したこと、江戸時代にかけておきた神儒一致思想は皇室、公家、武家に限定して流行したことで、
庶民側からすれば百姓への締め付け制度ぐらいの効果に限られ、士農工商でなく、士農制度と呼ぶべき状態だったと考えることができる

https://kotobank.jp/word/走百姓-114322
江戸時代,貢租の重圧,役人の不正に反抗し,凶作時の租税の減免を求めて,移住の禁を犯し,居村から逃亡して他領に逃げる農民。逃散 (ちょうさん) が計画的な集団的行動であるのに
対し,個別的なものである。走百姓の持高については,領主に対し村が惣作の形で責任を負い,領主は彼らの還住 (げんじゅう) を促す政策をとった。
0131名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:51:32.89ID:BRYs86eA0
■号の由来
孫文は日本亡命時代には東京府の日比谷公園付近に住んでいた時期があった。

公園の界隈に「中山」という邸宅があったが、孫文はその門の表札の字が気に入り、自身を孫中山と号すようになった。

日本滞在中は「中山 樵(なかやま きこり)」を名乗っていた。なお、その邸宅の主は貴族院議員の中山孝麿侯爵で、孝麿の叔母中山慶子(中山一位局)は明治天皇生母である。

中華民国の国立中山大学および中華人民共和国を代表する大学のひとつである中山大学、南極大陸の中山基地、

そして現在台湾や中国にある「中山公園」、「中山路」など「中山」がつく路名や地名は孫文の号・孫中山からの命名である。
0132名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:51:56.55ID:BRYs86eA0
■人民服(じんみんふく、中国語: 中山装)とは、上下揃いの上着の一種。かつての中華人民共和国では、制服や標準服とも言うべき物であった


この服装の原形は、孫文(孫中山)が日本留学中に日本の学生服や日本陸軍の軍服をモデルにデザインした中山服であるとする説があるが、実際には孫文の軍事顧問だった日本陸軍軍人佐々木到一が考案したものである。

中山服は中華民国で男子正装として用いられ、戦後の台湾にも引き継がれたが、1950年代末頃には蒋介石ら一部の首脳を除いて背広にとってかわられた。

一方、中国大陸(中華人民共和国)では、1980年代初めまで成人男性の全てが人民服を着用しており、女性にも多く着られていたが、ケ小平による改革開放路線が定着して以降は、ケ小平自身は引退まで人民服を着用したが、

胡耀邦ら新しい世代からは政治家も背広を一般的に着用している。現在ではほとんど過去のものとなっており、現在の中国で人民服を手に入れることは難しいといわれる。

礼装としてホワイト・タイ扱いされる主に絹製で濃紺か黒の物が「中山装」、主に木綿製で緑系の労働着タイプが「人民服」という形で中華人民共和国では分けて考える事が多く、

「中山装」の方は今も北京や上海の百貨店等で入手可能であるが、「人民服」はすっかり廃れてしまっている。

また、上下で色の揃っていない「青年装」という物も一時存在した。灰色の物も存在し、これはニクソン大統領の中国訪問でも知られるように、毛沢東が緑系の人民服とともによく着用し、

天安門に掲げられている毛沢東の肖像画の物も灰色となっている。

1992年(平成4年)に中国共産党中央委員会総書記の江沢民が日本を訪問した際に天皇主催の宮中晩餐会において黒い人民服を着用して出席したことがあった。
0133名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:52:00.56ID:sj4OIbCt0
天皇ってワードを見つけると自動で荒らすbotかな
0134名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:52:02.62ID:USUzHNw/0
銀座が物々しい雰囲気だったのはこの警護のためか
0135名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:52:09.90ID:LR+w1t3N0
>>456 >>450 >>451 >>452 >>453 >>454 >>455

過去には神の子孫である神別氏族物部氏が殺され、その子が奴婢とされた事例がある

https: //ja.wikipedia.org/wiki/奴婢
また蘇我氏物部氏の争いの時も聖徳太子が大連の首を切ってその子孫を四天王寺の寺奴婢[注釈 2]としたという記述がある。
0136名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:52:31.56ID:LR+w1t3N0
>>460 >>461 >>462 >>463 >>464 >>465 >>466

syuji_nakamura@syujinakamura1
2月2日
愚かですね。
日本に奴隷なんていくらでもいましたよ。
魏志倭人伝にも、卑弥呼と台与が奴隷(生口)を献じたとの記述があるし、律令制では奴婢が売買の対象になっていた。
戦国時代にも「乱妨取り」という略奪や人狩りが普通に行われていて、奴隷や性奴隷が売買されていた。

アプロ@rUyaCVtIiRxgC9M
2月3日
日本人の名誉のために再度補足しますと、「律令制以降、奴隷・人身売買が禁止された」のは事実です。
しかし、建前では禁止されても現実には行われていましたし、1231年には鎌倉幕府が奴隷制を容認する布告を出し、
後成敗式目にも反映されています。
0137名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:52:45.50ID:LR+w1t3N0
>>470 >>471 >>472 >>473 >>474 >>475 >>476

「知床日誌」文久3年(1863)出版
http://www.lib.nara-wu.ac.jp/nwugdb/k024/html/p028.html

見る影もなく破れて只肩に懸る斗のアツシを着如何にも菜色をなしける
病人等杖に助りセカチ男子 カナチ女子等大勢其汐干にあさりけるか我等を見て皆
寄来りし故其訳を聞に舎利アハシリ両所にては女は最早十六七にもなり夫
を持へき時に至れはクナシリ島へ遣られ諸国より入来る漁者船方の
為に身を自由に取扱ハれ男子は娶る比に成は遣られて昼夜の差別
なく責遣ハれ其年盛を百里外の離島にて過す事故終に生涯無妻にて
暮す者多く男女共に種々の病にて身を生れ附ぬ病者となりては働稼の
なる間は五年十年の間も故郷に帰る事成難く又夫婦にて彼地へ
遣らるゝ時ハ其夫は遠き漁場へ遣し妻は会所また番屋等へ置て
番人稼人皆和人也の慰ミ者としられ何時迄も隔置れそれをいなめは

辛き目に逢ふか故只泣々日を送る事也如此無道の遣ひ方に逢ふか
故に人別も寛政中ハ弐千餘文政五壬午改三百十六軒千三百弐十六人安政五戊午改百七十三軒七百十三人 有しか
今は漸々半に成しそうたてけり此儘にては今廿年も過れは土人の種も
如何と案しける由等話其故爰には丈夫の者なき故猟漁等出来難く
其日其日の烟も立難きか故毎日此汐の干を待ては小貝を拾ひ汐満来れハ
野山ニ入て草の根等堀て辛き命を繋く事とそ聞に其憐さまし
けれは我等か貯への糧米を聊かつゝ分ち與へ来るやタンネウシ沙地
此所長き沙地なれは号く過てバナ人家十五軒の岬を廻りて川に入るに巾三十余間し
はしにて舎利運上屋へそ着し一同鎮守杜に至りエナヲ削りて山海の神
を祭り途中の安を賀し車座に一樽を開き詰合宮崎氏へ濱にて
0138名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:52:50.44ID:mwOrrEoW0
中学生の時には天皇制反対だった俺が無事右翼になってしまったぞ
韓国テメーのせいだからな
0140名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:53:03.64ID:LR+w1t3N0
>>137 >>461 >>462 >>463 >>464 >>465 >>466

https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1388281079/

346世界@名無史さん2018/05/11(金) 09:52:09.760
「知床日誌」 松浦武四郎

幕末の探検家・松浦武四郎の手記によると、アイヌ女性は年頃になるとクナシリに遣られ、そこで和人達の慰み物になり、
人妻は会所で番人達の妾にされたと書かれている。夫は漁場で酷使され、妻は番屋で慰み女とされ、子供が出来た場合、和人達はそれを突き殺し、押し殺す。

日本へ反発できなくなった大きな理由に人口減少がありますが、
その大きな原因は、女達が日本人の慰み者にされたこと、性病を含む伝染病を移されたこと、生活基盤を失わされたこと、などがあげられます。

松浦武四郎によると、夫婦は仲を引き裂かれ、男だけクナシリ送りとなり、そこで昼夜の別なく奴隷労働に使役され、
斜里、網走では、女は年頃(16・7)になるとクナシリ(この当時、現地のアイヌは酷使によって全滅していた)に連行されて、
諸国からきている和人に体を弄ばれる。男も年頃になると連行され、働ける間は遠い土地で酷使され、故郷に帰ることが許されるころには既に老人となっており子供を残すことができなくなった。

和人によって妊娠させられた妻は、唐辛子汁を飲ませる等で堕胎させられることにより、
子供を残せない体にされた。さらに和人に性病を移されることなども手伝い、クナシリ・メナシ地方のアイヌ人口は激減した。

松浦によると無理やり妾にされた挙げ句に性病をうつされ、顔が崩れて悪臭を放っているアイヌが山にたくさん居たとある。
0141名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:53:28.51ID:LR+w1t3N0
>>470 >>471 >>472 >>473 >>474 >>475 >>476

海外と比較すると日本人は大量虐殺者と大量虐殺を賛美する傾向が相対的に強い

法華一揆の虐殺
長島一揆の虐殺(騙し討ち、なで斬り、21,000人以上とされるが総数は100,000人と見られるため実数がないほどの死者)
越前一向一揆(12,500人を殺害し3万人から4万人を奴隷とする)
東北一揆の虐殺(なで斬り)
叡山焼き討ち(3,000-4,000人、なで斬り)
山科本願寺の殲滅戦
天草島原の乱(37,000人)
天正伊賀の乱(伊賀全体では9万の人口の内非戦闘員含む3万余が殺害された)

宗教系の弾圧には他の宗派が一枚かんでいることが多く、結局のところ1つの宗派が潰れても
他の宗派の勢力が強くなるという歴史を繰り返して来た
これは宗教勢力を敵に回し続けて生き残るのは難しいためでもある

かつて弾圧・虐殺された本願寺や日蓮宗が権力の中枢にいることからも宗教勢力は日本の政治や文化の深く
重層的に染み込んでいる

九戸政実の乱の皆殺し(騙し討ち、5,000人の兵と家族・周辺住民等)
武田信玄の信濃志賀城攻略時の生首3,000
徳川家康による堀川城の虐殺(2,000人近くの生首を堤にさらす)
伊達政宗による小手森城の虐殺(800人)
(秀吉が「なで斬り」を命じた肥後国人一揆等もあるが、死者数は把握していない)

この他にも無数の(事件化されず埋もれた)政治弾圧事件や虐殺事件があるが、特に批判対象とされることはない

これらの虐殺者は秩序の守護者として賛美されており、敵対勢力を皆殺しにする慣行は擁護者が多い

https://ja.wikipedia.org/wiki/虐殺事件の一覧

日本を凌駕する虐殺事件というと中国とオスマントルコであり、一回の虐殺数は数十万人を超える
(南京は数値に信頼性がなくなっており、マニラ虐殺は日米入り乱れた凄惨な市街戦のため別枠として除く)
0142名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:53:37.88ID:BRYs86eA0
■敬宮 愛子内親王(としのみや あいこないしんのう)

続柄 皇太子徳仁親王第一女子(今上天皇の孫)
称号 敬宮(としのみや)
身位 内親王
出生 2001年(平成13年)12月1日(13歳)
お印 ゴヨウツツジ(五葉つつじ)

皇太子ご夫妻の好きな花で「純白の花のような純真な心を持った子どもに育って欲しい」という願いを込めめ愛子さまのお印を決められたということです。

父親 皇太子徳仁親王
母親 皇太子妃雅子

愛子と命名、敬宮の称号を授けたのは天皇陛下で、名と称号の由来は『孟子』離婁章句下の「仁者は人を愛し、礼ある者は人を敬ふ。
人を愛する者は人恒に之を愛し、人を敬ふ者は人恒に之を敬ふ」からだということです。

愛子さまは5歳の頃から相撲が大好きで力士の四股名以外にも下の名前や出身地も覚えていて、皇太子さまと一緒に
初場所をテレビ観戦している時に愛子さまは何も説明されていない力士の地位について、詳しく皇太子さまに話をしたということです。

しかも、当時愛知万博を訪問する皇太子さまが「愛知県に行く」と愛子さまは愛知県出身の力士の名前を答えたそうです。そんな愛子さまに「とてもかなわない」と皇太子さまが舌を巻くほどであったということです。

また、初めて両国国技館に両親と秋場所を観戦した際に「夢じゃなかったのかしら」と5歳の愛子さまが仰ったということですが、
5歳の女の子だったらディズニーランドのような夢の国を喜ぶのが普通ですが、愛子さまはよほど相撲が好きなのだなと思いました。
0143名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:54:10.23ID:LR+w1t3N0
>>280 >>281 >>282 >>283 >>284 >>285 >>286

殺人数、餓死数を含めると無神論共産主義と国家社会主義(ナチスは多神教)に匹敵する虐殺カルトは思いつかない

ローマ皇帝アドリアンだけでもユダヤ人58万を殺害している
ティトゥスもユダヤ戦争で110万人を殺害
揚州大虐殺、四川人殲滅殺戮あたりでは、それぞれ100万人近くが殺されたとする
ハミディイェ虐殺でもトルコによってアルメニア人10〜30万人が殺戮された

モンゴルの侵略の結果死亡した死者数は最大で4000万人(実際は2000万人ぐらいだろうが)とも言われている
さらに言えば残虐行為で知られる清国の侵略戦争の結果死んだ数は2000万人ともされる
ティムールも虐殺を繰り返したので、死者数は前者に匹敵するだろう
0145名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:54:32.10ID:onOktHTO0
魏志倭人伝w
偽書だろってのが主流になりつつあるのに

そもそも、ヒミコ神社も、九州だかに、観光のため後で作ったようなもの
バカらしいコピペ野郎。
0146名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:54:33.04ID:LR+w1t3N0
>>651 >>652 >>653 >>654 >>655 >>656 >>657

https ://ja.wikipedia.org/wiki/嘉禄の法難
嘉禄の法難(かろくのほうなん)は、法然死後に、天台宗の延暦寺衆徒が浄土宗と専修念仏を弾圧した事件。

https ://ja.wikipedia.org/wiki/法華一揆
僧兵と宗徒、近江の大名・六角定頼の援軍が加わって、延暦寺は総計約6万人を動員して京都市中に押し寄せ、日蓮宗二十一本山をことごとく焼き払い、法華衆の3000人とも1万人ともいわれる[要出典]人々を殺害した(天文法難)。

さらに延暦寺の勢力が放った火は大火を招き、京都は下京の全域、および上京の3分の1ほどを焼失。兵火による被害規模は応仁の乱を
上回るものであった[1]。

こうして隆盛を誇った京都の法華衆は壊滅し、法華衆徒は洛外に追放された。以後6年間、京都においては日蓮宗は禁教となった。

https ://ja.wikipedia.org/wiki/山科本願寺の戦い
山科本願寺の戦い(やましなほんがんじのたたかい)は、天文元年(1532年)8月23日 - 24日にかけて行われた細川晴元・六角定頼・京都の法華一揆の連合軍と浄土真宗本願寺勢力(一向一揆)との戦い。山科本願寺合戦(やましなほんがんじかっせん)ともいう。

このように四方を取り込むようにして完全に包囲した。この時の攻城軍は3万とも4万とも言われている。戦いは8月24日早朝より開始された。
午前10時ぐらいに諸口より攻城軍が乱入し、寺町周辺を放火して回り大勢が決した。山科本願寺は社坊ひとつ残さず灰になって落城した。

https ://ja.wikipedia.org/wiki/享禄・天文の乱
享禄・天文の乱(きょうろく・てんぶんのらん)は、戦国時代初期の浄土真宗本願寺宗門における教団改革を巡る内紛と、これに触発さ
れて発生した対外戦争の総称。

享禄4年(1531年)の享禄の錯乱(きょうろくのさくらん)または大小一揆(だいしょういっき)と呼ばれる内紛
天文元年(1532年)から同4年(1535年)の細川氏・畠山氏などとの戦いである天文の錯乱(てんぶんのさくらん)または天文の乱(てんぶんのらん)の上記2つからなる。
0147名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:54:50.40ID:LR+w1t3N0
>>660 >>661 >>662 >>663 >>664 >>665 >>666

日本では(林羅山と林家を重用した)朝鮮朱子学カルトを採用した徳川幕府(朝鮮朱子学は豊臣秀吉から受け継ぐ)によって明治維新まで士農工商や
差別階級を持つ身分差別主義が蔓延っていたが英国では早い段階で平民レベルでの自由化が行われていた

>ヨーロッパ中世の荘園では農奴がいなければ貴族は干上がった
>まさに今の日本はそうなりつつある
>必要なのは農奴

荘園制度はローマ法に遡るためキリスト教以前から存在する
英国ではserfdomはワット・タイラーの反乱(1381年)によって大方廃止され14世紀には無効
プロテスタントのエリザベス1世時代(1574年)に廃止(実定上は1500年まで)

フランスのノルマンディー(ノルマン征服をした地域)では11世紀に廃止。フランスでは1315年に廃止
ドイツでは教会領地が自由都市となっていく現象があったため、各都市によって異なる。ドイツで荘園制度が法律によって明確に禁止となったのは18世紀まで待たねばならない

https ://en.wikipedia.org/wiki/History_of_serfdom
In Western Europe serfdom became progressively less common through the Middle Ages, particularly after the Black Death
reduced the rural population and increased the bargaining power of workers. Furthermore, the lords of many manors were
willing (for payment) to manumit ("release") their serfs.

In Normandy, serfdom had disappeared by 1100.[4] Two possible causes of the disappearance of serfdom in Normandy have
been proposed: (1) it might have been implemented to attract peasants to a Normandy depopulated by the Viking invasions
or (2) it might be a result of the peasants' revolt of 996 in Normandy.

In England, the end of serfdom began with the Peasants' Revolt in 1381. It had largely died out in England by 1500 as a personal
status and was fully ended when Elizabeth I freed the last remaining serfs in 1574.[5] Land held by serf tenure (unless enfranchised)
continued to be held by what was thenceforth known as a copyhold tenancy, which was not completely abolished until 1925
(although it was whittled away during the 19th and early 20th centuries). There were native-born Scottish serfs until 1799, when
coal miners who were kept in serfdom gained emancipation. However, most Scottish serfs had already been freed.

Serfdom was de facto ended in France by Philip IV, Louis X (1315), and Philip V (1318).[5][6] With the exception of a few
isolated cases, serfdom had ceased to exist in France by the 15th century.
0148名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:54:51.73ID:BRYs86eA0
■お印(おしるし)は、日本の皇族が身の回りの品などに用いる徽章・シンボルマーク。御印章とも


起源は、一般的には江戸時代後期、光格天皇の子供らが用いたものとされているが、宮内庁書陵部によると「内々のしきたりで記録にも残されない。正直言って詳しいことは分からない」とのことである。明治時代以降宮廷内で広く用いられるようになった。

皇室典範など法令上の明確な規定はなく、慣例として行われてきた制度である。皇族に仕える者たちが、皇族の名前や称号を書くことは恐れ多いと考えお印を使うようになったともいわれる。もともとは女性の間で始まったという説もある


明治天皇:永(文字)
昭憲皇太后:若葉
大正天皇:壽(文字)
貞明皇后:藤
昭和天皇:若竹
香淳皇后:桃
今上天皇:榮(文字)
皇后:白樺


東宮家
皇太子徳仁親王:梓
皇太子徳仁親王妃雅子:ハマナス
愛子内親王:ゴヨウツツジ

秋篠宮家
秋篠宮文仁親王:栂
文仁親王妃紀子:檜扇菖蒲
眞子内親王:木香茨
佳子内親王:ゆうな
悠仁親王:高野槇
0149名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:54:52.17ID:h+ayBLVt0
天皇陛下大失態、皇后がフォローして事なきを得る
微笑ましいシーン、本人もポンコツを自覚して
隠居する気になった
引き際は見事だな。
0150名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:55:01.68ID:LR+w1t3N0
>>670 >>671 >>672 >>673 >>674 >>675 >>676

ドイツはイギリスと同時期に改革をはじめたが、(領主のいない)地方分権型政治システムを推進した

カロリング朝(カロリンジアン帝国)の始祖はカール大帝(またはドイツ人貴族のシャルル・マーテル、カール・マルテル等)だ

リューベック法(1188年)
マクデブルク法(10世紀)
クルム法(1233年)

神聖ローマ皇帝オットー(一世)が定めたStadtrechtは都市に自治、地方議会(選挙ではなく議員からの選定)、徴税権をもつ都市政府を誕生させた

教会領などから独立した自由都市も発達した

(平民も含めた選挙でローマ皇帝に選ばることにこだわり、華美を嫌い僧侶のような質素な生活をしていたとされる)カール大帝が
アウグスティヌスの神の国を気に入っており、都市のキリスト教化を目指していたことは良く知られている

https ://en.wikipedia.org/wiki/Charlemagne
Einhard tells in his twenty-fourth chapter:

The subjects of the readings were the stories and deeds of olden time: he was fond,
too, of St. Augustine's books, and especially of the one entitled "The City of God".[119]
0151名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:55:09.09ID:StfjrrOZ0
>>4
儒教の文化は日本には合わない!
特に朝鮮半島の儒教と
中国の儒教と
日本の民間人達の道徳や倫理というものは
全く違うものなのかな?
0152名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:55:36.16ID:LR+w1t3N0
>>680 >>681 >>682 >>683 >>684 >>685 >>686

https://ja.wikipedia.org/wiki/都市権 (オランダ)

自由
個人の自由:都市以外の住民と比べて(相対的に)、主君から干渉されず、移動の自由が保証される

自治
自治権:一部の善良な市民は、都市の官僚として取り立てられた
司法及び立法権:市域内において広範な自主立法及び司法権の行使が認められた
課税権

アーネム 1233年
アムステルダム 1306年
ブレダ 1200年頃
エンスヘーデ 1325年
アイントホーフェン 1232年
フローニンゲン 11世紀
レーワルデン 1285年
マーストリヒト 1204年
ナイメーヘン 1230年
ロッテルダム 1340年
スヘルトーヘンボス 1195年
ティルブルフ 1809年
ユトレヒト 1122年
0153名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:55:50.59ID:LR+w1t3N0
>>152

https://ja.wikipedia.org/wiki/シルウェステル2世 (ローマ教皇)

シルウェステル2世(Silvester II, 950年? - 1003年5月12日)は、フランス人初のローマ教皇(在位:999年 - 1003年)。
本名オーリヤックのジェルベール(仏:Gerbert d'Aurillac)、ラテン語名ゲルベルトゥス(Gerbertus)。千年紀をま
たいだ教皇であり、数学者・天文学者として10世紀の西欧世界において傑出した人物である。

アラビア学問との邂逅
12世紀ルネサンスに先んじて、10世紀にアラビア学問に直接的ないし間接的に触れた西欧人はごく少数であった。
シルウェステル2世は自由七科のうちの四科、こと算術や天文に長け、それらはアラビア世界に伝わっていた古代ギリシア・ローマ
の知識や、アラビア世界で発展された知識に基づいていた。

教える者として
教育者としてもシルウェステル2世は傑出していた。教育方法は理論のみならず実践を重視し、算術ないし幾何学ではアバクス
を、天文では天球儀を用いた。音楽では一弦琴を利用して音階と和音の数学的観察を行った。修辞学では議論を戦わせ、また
図式を用いて解説していた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/12世紀ルネサンス

学問の隆盛
アベラール(1079年-1142年)の弁証論(唯名論)がスコラ学の基礎を作り、のちトマス・アクィナス(1224年頃-1274年)により大成された。
大学が各地に作られた(11世紀末のボローニャ大学、12世紀のパリ大学、オックスフォード大学)。
シャルトル大聖堂の附属学校では古代の自由学芸(リベラル・アーツ artes liberale 文法、論理学、修辞学、算術、幾何、天文、音楽の7科目)
を基盤に、プラトンの思想と聖書の思想を統合しようとした(「シャルトル学派」といわれる)。
0154名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:55:56.37ID:BRYs86eA0
■天皇陛下と高見山

入門当初から師匠の高砂親方(前田山)をボスと呼んでいた。
前田山の死後は高砂を継いだ兄弟子の朝潮(3代目)をボスと呼んだ。


1977年9月場所9日目には、支度部屋で「明日は横綱(北の湖)戦ですね」と記者に聞かれると高見山「明日は蹴手繰りね」とふざけてみせ、

北の湖も負けじと「じゃあ、オレも蹴手繰りでもやろうかなあ」と冗談を飛ばす。

翌日高見山は本当に蹴手繰りにいってしまった(勝負は北の湖が掬い投げで制した)。

高見山が現役引退を表明した頃、日本相撲協会を管轄していた森喜朗文部大臣(当時)が、昭和天皇より「見山がなぜ辞めたのかね」「見山は残念だったろうな」との下問を受けた。

そのことを後に森が見山に伝えると「もったいないです、もったいないです」と涙を流したという。
0155名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:56:12.21ID:LR+w1t3N0
>>152

https:/ /kotobank.jp/word/走百姓-114322
世界大百科事典内の走百姓の言及
【欠落】より
…【藤木 久志】 近世に入っても,小百姓や隷属的な農民が,逃散に至らぬ小規模な抵抗の形態として村外,領外に逃亡することがしばしば行われた。
初期の領主禁令では,このような欠落人を,多く走(はしり)百姓,走りものなどと称し,厳しい処分規定を設けている。欠落の類語に,家出,出奔,
立退(たちのき),風与出(ふとで)などがあるが,中期以降は,階層,理由を問わず,これら居住地からの失踪行為全般を意味する用語として,欠落が広く使用された。…

【逃散】より
…近世成立期の17世紀前半,逃散は領主に対する農民の主要な抵抗形態であった。その中には,〈走り者〉〈走百姓〉などの呼称であらわれる,隷属農民や
小百姓の個別的な欠落から,大百姓が村内の小百姓や隷属農民を引き連れて村ぐるみで逃亡する集団的な逃散まで,さまざまな規模・形態のものが含まれる。
このうち〈走り〉〈欠落〉などの個別的な逃亡を除外すると,逃散は単なる村からの逃亡ではなく,領主に要求を受け入れさせるための計画的な同盟罷業と
いった色彩をもつことが多かった。

大辞林 第三版の解説
ひとがえし【人返し】
@ 領民の他領への逃亡を防ぐため、勝手に他領に移住した者を領主間の交渉で召し返したこと。
A 江戸時代、江戸・京都・大坂などの大都市に集中した人々を帰郷させたこと。1843年の人返しの法が有名。旧里帰農。

https: //ja.wikipedia.org/wiki/逃散
江戸時代
生産者である百姓の逃散は、生産活動の減退を意味するため、支配者(幕府、大名、旗本ら)は百姓の逃散を厳しく禁ずるとともに、
移住も原則として認めなかった。
0157名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:56:55.83ID:X49I/dIv0
>>96
まったくだ、バブル崩壊のシンボル。
0158名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:56:59.55ID:StfjrrOZ0
>>125
安倍さんのサポーターさんですか?
0159名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:56:59.55ID:LR+w1t3N0
>>153

https://ja.wikipedia.org/wiki/イシドールス
セビリャのイシドールス(西: San Isidoro de Sevilla、羅: Isidorus Hispalensis、 英語:Saint Isidore of Seville、560年頃 - 636年4月4日)は、
中世初期の神学者で、後期ラテン教父の中でも最も重要な神学者の一人であり、カトリックでは「インターネット利用者およびプログラマー」
の守護聖人[2]。 30年以上セビリャ大司教を務めた。中世のヒスパニア[3]の地域で書かれた後の歴史書はすべて、このイシドールスの歴史を範
としていた。

『語源』
アラビア人が古代ギリシア哲学の叡智に触れるはるか以前に、イシドールスはアリストテレスを同国人に紹介している。イシドールスはカトリック
の同胞のために、一般的な知識を体系的に編纂した最初のキリスト教著述家であり、主著『語源』はまさに百科辞典的な、総合的な内容を持っている[19]。
この全20巻448章にわたる中世最初の百科事典で、イシドールスは古代から彼の時代に至るまでの、聖俗両面にわたる、あらゆる学問体系を集約した。
この著作のおかげで多くの古典時代の著作の記述が断片的に散逸を免れた一方、この著作が原著作よりも重んじられることが多かったために、原著作で
散逸してしまったものが多いことも事実である。

『語源』に対する高い評価は、百科事典的な著述活動に刺激を与え、中世以降の時代に大きな実を結ぶことになった。この著作は、中世の収集図書
の中で最も人気がある概説書[20]で、ルネサンスの時代まで継続した人気を保ち、1470年から1530年の間に10版を重ねるほど印刷され続けた。

https://en.wikipedia.org/wiki/Etymologiae
Book III: de mathematica Quadrivium: mathematics, geometry, music, astronomy Boethius on mathematics; Cassiodorus[11]
Book III covers the mediaeval Quadrivium, the four subjects that supplemented the Trivium being mathematics, geometry, music, and astronomy.[b]
He argues that there are infinitely many numbers, as you can always add one (or any other number) to whatever number you think is the limit.[16]
He attributes geometry to Ancient Egypt, arguing that because the River Nile flooded and covered the land with mud, geometry was needed to
mark out people's land "with lines and measures".[17]
0160名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:57:07.88ID:pEVwxPPH0
天皇制度がないと日本の求心力が失われる
遠心力の時代になると思う
0161名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:57:21.37ID:BRYs86eA0
【皇室】天皇陛下はどんなものを食べているのか?

 食べることは生きること。いわば食は命の素である。多くの人にとって食事は大きな関心事だろう。では、天皇の食事はどうなっているのだろうか。調べてみたら、知らないことだらけで驚いた。

「昭和天皇の朝食は1年中洋食でした」
「具体的には、オートミール、パン、野菜料理、サラダ、果物、煮冷水(湯冷まし)、お茶、牛乳を毎朝食べていたんです。オートミールは大麦を使った西洋風のおかゆのようなもので、
戦後はコンフレークのこともありました。牛乳や甘みを足して天皇好みの味に仕上げるのは皇后の役目です」

風変わりな習慣もあった。
「ピーナッツか銀杏の炒ったものを3粒だけ食べる、というのが昭和天皇の毎朝の習慣でした。
ピーナッツは皮をむき、バターで炒めて軽く塩をふります。銀杏は殻からだして皮付きのまま焼き、その後皮をむいて軽く塩をふるのです」


 朝食は8時、昼食は12時、夕食は18時で1年中変わることがない。昼食が洋食であれば夕食は和食、昼食が和食なら夕食は洋食と決まっていた。


「昭和天皇のウナギ好きはよく知られていますが、宮内庁大膳課に勤めた渡辺誠さんによれば、昭和59年にウナギの蒲焼を食べた回数は22回、それに対してサバの味噌煮も12回ありました。
麦入りごはんで山かけを食べるのも好きだったようです。ただ、基本的にお刺身は少ないんです。特に地方への行幸啓に出かける前は、行事に支障をきたしてはいけないので、なまものは外されました」

 繰り返すが、天皇は基本的に好みを言わない。だから料理人は天皇の食べっぷりから好みを推し量るほかない。
「渡辺さんによれば、リンゴはシャキシャキよりもふかふかが好きで、サツマイモは黄色いホクホクより白っぽいベチャ芋がお好きだったそうです。また、
稚鮎を塩焼きにして骨をとらずに頭から食べたり、鮎の内臓を塩漬けしたウルカをご飯に混ぜてよく食べていたとか。そこだけみるとお酒もいけそうに思えますが、お酒はまったく飲めませんでした」

米は市中の米屋さんから普通の米を買い、押し麦を混ぜ、水道水を使って炊いたという。
0162名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:57:22.97ID:LR+w1t3N0
>>159

https://ja.wikipedia.org/wiki/カロリング朝ルネサンス
カロリング朝ルネサンスまたはカロリング・ルネサンス[1](Carolingian Renaissance, Renaissance carolingienne )とは、
フランク王国(カロリング朝)のカール大帝(フランク王 768年 - 814年、西ローマ皇帝[* 1] 800年 - 814年)の頃(8世紀〜9世紀)
に見られる古典復興、文化の隆盛を指す言葉である。

As Pierre Riché points out, the expression "Carolingian Renaissance" does not imply that Western Europe was barbaric or obscurantist
before the Carolingian era.[4] The centuries following the collapse of the Roman Empire in the West did not see an abrupt disappearance
of the ancient schools, from which emerged Martianus Capella, Cassiodorus and Boethius, essential icons of the Roman cultural heritage
in the Middle Ages, thanks to which the disciplines of liberal arts were preserved.[5] The 7th century saw the "Isidorian Renaissance" in
the Visigothic Kingdom of Hispania[6] in which sciences flourished[7][8][9] and the integration of Christian and pre-Christian thought
occurred,[10] while the spread of Irish monastic schools (scriptoria) over Europe laid the groundwork for the Carolingian Renaissance.[11][12]
0164名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:57:54.98ID:+rRp9prH0
糖質がすげーコピペたくさん貼って草
0165名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:58:03.86ID:StfjrrOZ0
>>99
小室さんと皇室は合わないからなぁ
雰囲気的にも違うと感じる
0166名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:58:37.03ID:BRYs86eA0
■昭和天皇

昭和天皇のウナギ好きに応えた形でしょうか。
特に鰻茶漬けが好物でしたが、これは献上品だったため年に1回から2回しか食べられませんでした。
もっと食べたいと思われることがあったとしても、昭和天皇は決して自分から食べたいとおっしゃることはなかったのです。

同様に好き嫌いを言うことも一切ありません。出されたものは残さず食べる、を文字通り実践していました。
一度柏餅をお出しした時に、葉っぱ付きでお出ししたため、それも召し上がってしまい、さすがの昭和天皇も「美味しくない」と答えたのだそうです。

御殿での普段のお食事よりも、むしろ行幸で地方にお出向きになったときのほうが異色の食事になりました。

地方では陛下のおでましともなれば、精一杯のおもてなしで出迎えねばと意気込むわけで、戦後まもない昭和24年(1949年)という時期でさえ
大分県別府市の日名子旅館(現在廃業)では若鶏のバター焼き、野菜の土佐煮、鮎の塩焼き、城下鰈、南瓜、蕗と鯛の酢の物、お汁、メロンとご馳走が並びました。

出されたものは全て平らげねばならない主義ゆえに満腹に苦しみながらお召し上がりになったのではと思われます。ほかにも地方行幸では過分な饗宴が多かったようです。

しかし、陛下はそれについて良いとも悪いとも、何が美味かったともまずかったとも決しておっしゃいませんでした。
0167名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:59:00.15ID:6RMztIMN0
>>124
全文同意
天皇陛下と皇后陛下お二人であの場面を奇跡の場面にしてくださったこと
心の底から喜び溢れる万歳三唱
お帰りになるギリギリまで会場に向かって手を振ってくださるお姿
本当に素晴らしい式典だった
この天皇陛下皇后陛下の時代に生まれ生き
今日この日この式典ををテレビからでも参加することができて本当に幸せだ
0168名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:59:02.33ID:LR+w1t3N0
>>162

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_lay_Catholic_scientists

Many Catholics have made significant contributions to the development of science and mathematics from the Middle Ages to today.
These scientists include Galileo Galilei,[1] René Descartes,[2] Louis Pasteur,[3] Blaise Pascal, André-Marie Ampère, Charles-Augustin de Coulomb,
Pierre de Fermat, Antoine Laurent Lavoisier, Alessandro Volta,[4] Augustin-Louis Cauchy, Pierre Duhem, Jean-Baptiste Dumas, Alois Alzheimer,
Georgius Agricola, and Christian Doppler.
0169名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:59:44.67ID:h+ayBLVt0
ギャースカ喚き散らしてる
超老害田原総一朗 隠居せよ
0170名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:59:55.53ID:LR+w1t3N0
>>168

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Catholic_clergy_scientists
This is a list of Catholic churchmen[1] throughout history who have made contributions to science.
These churchmen-scientists include Nicolaus Copernicus, Gregor Mendel, Georges Lemaître, Albertus Magnus,
Roger Bacon, Pierre Gassendi, Roger Joseph Boscovich, Marin Mersenne, Bernard Bolzano, Francesco Maria Grimaldi,
Nicole Oresme, Jean Buridan, Robert Grosseteste, Christopher Clavius, Nicolas Steno, Athanasius Kircher, Giovanni Battista Riccioli,
William of Ockham, and others listed below. The Catholic Church has also produced many lay scientists and mathematicians.
0171名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:59:58.54ID:XRDfk/Bw0
>>160
なわけねーだろw
今あるものをわざわざ無くす必要がないってだけのやつが大半だよ
神の子孫とかアホらしいけど伝統文化の保全

ジジババやキチガイは知らんが
0172名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 17:00:38.84ID:mwiMntbR0
マコムロ結婚の裁可取り消しは無くて、学科り。
式典迄にって、やっぱり女性週刊誌はインチキ。
0174名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 17:00:58.52ID:tRmnkZ/i0
バカ息子と能天気な孫をなんとかしろ。
塀に落書きされるぞ
0176名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 17:01:17.87ID:0EUMMBRz0
何このコピペ地獄

皇后陛下のお召し物
素敵だった
桜色みたいな綺麗な色だったね
0177名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 17:01:51.99ID:uAjIM/p60
クッソ穢らわしい毛人の末裔地域に居ても意味無いよな
0178名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 17:02:18.22ID:onOktHTO0
反天連か、シナチョンか
うざいコピペ
0180名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 17:03:54.72ID:FdvvYF5N0
次代は逃散が大流行り
0181名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 17:04:27.03ID:hCx/VHZA0
そう言う事か。。。

今日、出かけてて川崎で市営バスと臨港バスに日章旗付いてて、「あれ?今日って何の旗日?何も無いよね」とか思ってたw
0182名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 17:04:31.08ID:gpZaIPVw0
日王が寝ぼけたこと言ってんね
慰安婦と徴用工に率先して謝れよ戦犯の息子よ
0183名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 17:04:32.37ID:24c257K10
>>156
まだ上にそんなにいるのかよ
0184名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 17:04:33.40ID:LR+w1t3N0
>>930 >>931 >>932 >>933 >>934 >>935 >>936

渡来思想である仏教に挑んで敗者となり奴隷となった神の子孫物部氏や、世界を霊力で征服する予定だった「神の子神武天皇」の子孫である「現人神」が
天候関係なくサングラス着用で田舎者が好きそうなコーンパイプでタバコ中毒の肥満中年の一軍人に、取り巻きの高齢者重臣と一緒に命乞いをして身分維持・制度維持
のバーターとして憲法9条という信じがたい悪法を制定し国を売り渡すとは、反科学的で合理的な思考のできない頭の出来が悪い愛国火病には到底予想できず、戦後70年経過しても理解できないのだろう
まさに神話が作られた瞬間と言える

人間なら失敗するので敗北後に命乞いのため売国をした点は理解できるが、神の子孫がこの体たらくなら「自称神の子孫」「偽の神の子孫」だったと判断すべきなのか、
排泄物、目くそ・鼻くそや嘔吐物で出産し嬰児を殺害するイザナギ・イザナミの子孫であればこの程度で納得と思うかは信仰心にもよるだろう

ちなみにイザナギからアマテラス、間をはさんで神武天皇という系譜なので神武天皇は女系から正統性を得たと言えないでもない

https://ja.wikipedia.org/wiki/現人神
なお陸軍中将であった石原莞爾は日蓮主義の見地から独特の終末論的な世界観を持っていたが、著書の
『戦争史大観』(1941年)には「人類が心から現人神の信仰に悟入したところに、王道文明は初めてその真価を発揮する。」
「更に端的に云えば、現人神たる天皇の御存在が世界統一の霊力である。しかも世界人類をしてこの信仰に達せしむる」としている。
本書は用紙統制・出版統制が行われている中で検閲を通過して出版されている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/日本国憲法第9条
本条の淵源
本条の淵源については、立法経緯が複雑であることもあって様々な議論がある[12]。憲法9条の発案において、その背景にあった、
主な動機は、「連合国が参加する極東委員会の中の、中華民国・オーストラリア・フィリピン・ソビエト社会主義共和国連邦などの
国家や、アメリカ国内世論[13][14]からの『天皇制の保持』に対する批判を逸らす為であった。」という見解で、日本人もアメリカ人
の学者も一致する傾向がある、とされる[15]。
0185名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 17:04:58.87ID:X49I/dIv0
>>153
狸の生態を研究した
0186名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 17:05:42.28ID:LR+w1t3N0
>>550 >>551 >>552 >>553 >>554 >>555 >>556

https://ja.wikipedia.org/wiki/奴婢

ヤマト王権では、もともと奴隷階級であったものを「ヤツコ(夜都古)」と呼び[1]、奴婢はそ
の子孫であるか、前述の捕虜や帰化人、あるいは罪人で奴婢に落とされた者であった。律令法
においては、良民を奪って奴婢とすることは賊盗律で禁じられていたが、逆に言えば誘拐して
奴婢とする習慣があったということである。経済的理由で奴婢となる者もおり、債務返済では
役身折酬と呼ばれる返済方法が認められていたので、多額の負債を背負わされて奴婢に落とさ
れて使役される者もいた。

奴婢はもともと売買の対象であったが、律令が整備される過程で田畑と同じような扱いを受け
るようになり、弘仁式によると持統天皇4年(690年)に、いったん奴婢の売買が禁止されたが[2]、
翌691年2月にはあらためて詔を発して官司への届出を条件に売買が許可されることになった[3]。

...

律令制崩壊後
律令制での身分制度としての奴婢は消滅したが、その後も日本では下男下女など隷属的な
年季奉公人が、奴婢と称された。また経済的な奴隷は中世を通じて存在して広く売買され、これら
は用途によって様々な呼称があるが、総称としては同様に奴婢と呼ばれた。平安時代以降の歴代政権
も奴隷や賤民の存在を否定することはなく、法的に公認していた。人身売買はたびたび禁止されたが、
それはあくまで自由民の売買を禁じたものだった。戦争による捕虜や拉致された非戦闘員など、多数
の奴隷が発生した戦国時代には、スペインやポルトガルを通じて海外への輸出も行われた。このよう
な身分制度は明治4年(1871年)の解放令まで続いた。
0187名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/24(日) 17:06:00.32ID:LR+w1t3N0
>>560 >>561 >>562 >>563 >>564 >>565 >>566

https://www.andrew.ac.jp/soken/pdf_3-1/sokenk193-2.pdf
前期倭寇は食糧の他に人々を捉え, これを奴隷として使役したり売却したりしたと述べた。
後期倭寇はさらに大規模な奴隷貿易を行っている。中国東南部の江南・淅江。福建などを襲
撃し人民を拉致した倭寇は対馬・松浦・博多・薩摩・大隅などの九州地方で奴隷として売却
した。これらの奴隷は, 牛馬の飼育や薪取り, 水汲みなどの仕事をさせられた。さらに彼ら
の一部はポルトガル商人によってマカオに転売され, そこから東南アジア・インドに送られていった。
0188名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 17:06:25.39ID:LR+w1t3N0
>>570 >>571 >>572 >>573 >>574 >>575 >>576

https://ja.wikipedia.org/wiki/律令制

身分制度
日本の律令制における身分は、良民と賎民に大別される。良民は、高級官僚である貴族を初め、
下級官人、一般の百姓(公民と呼ばれることもあった)、雑色人(品部・雑戸という工芸技術を
持つ半自由民)があった。賎民は五色の賎と言われ、陵戸(天皇・皇族の陵墓を代々守る家系)、
官戸(諸官庁に属し公用に従事)、公奴婢(官有の奴隷)、家人(貴族や有力者に属し雑用に従事)、
私奴婢(私有の奴隷)があった。

賎民のうち、公奴婢と私奴婢は売買の対象とされるなど、奴隷として位置づけられていた。この
ように、律令制下では奴隷制が存在していた。
0190名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 17:06:55.47ID:zpIwp0bV0
層化の荒らしが大量コピペしてるところを見ると
両陛下万歳がよほど気に食わなかったんだな。
0192名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 17:07:08.08ID:LR+w1t3N0
>>580 >>581 >>582 >>583 >>584 >>585 >>586

日本でも清和源氏や桓武平氏等の皇室の血を受け継ぐ宗族が下級貴族となり、さらに地下人となっているため日本でも門閥一族では(儒教をルーツとする)宗族という聞き慣れない単語が使われる
本宗・本家の外戚も含み同姓の姻戚が禁じられていない点を除くと門閥一族の実体は父系制宗族に類似するため日本型宗族ということになるが門閥一族に限定された

(儒教をルーツとする)「宗族」と閨閥のハイブリッドは戦前は良く見られるパターンで財閥家一族と皇族、他の名門一族と政財界のエリートとの婚姻は頻繁に行われ、戦後も継続性が見られる

「三従四徳」
昔の中国の女性への教え。
「三従」は従うべき三つのことで、幼い時は父親に従い、嫁いだ後には夫に従い、年老いたら子どもに従うべきであるということ。
「四徳」はいつもの生活で心がけるべき四つのことで、女性としての節操を守ることをいう婦徳、言葉遣いをいう婦言、身だしなみをいう婦容、家事をいう婦功のこと。

https ://ja.wikipedia.org/wiki/父系制
父系制(ふけいせい)とは、父方の血筋による血縁集団を基礎とする社会形態や制度であり、次のような特徴がある。対義語には母系制がある
父方の姓を受け継ぐ(父系出自)
父方の地位を受け継ぐ(父系継承)
父方の財産を相続する(父系相続)

https ://ja.wikipedia.org/wiki/宗族
宗族(そうぞく、しゅうぞく)とは、父系同族集団のこと。古代東アジア法とローマ法に存在した。
隋・唐ではこの結合は弱まったが、唐末に名族と呼ばれた門閥貴族が没落した後、新興地主ができるだけ没落を防ぐため
の相互扶助手段として宗族を強化した。族長のもとに族譜(同族の系図)を有し、宗祠(祖先の神主を安置した建物)を設け、
族産(祭田・義荘など同族の共有財産)をおくものが多く、特に華中・華南に普及した。宗族という言葉や理念は儒教体制が
浸透した朝鮮半島やベトナムにも伝わって、定着している。逆に日本では氏姓社会が比較的維持されたまま、儒教体制を取り
入れたために宗族制は形成されずに中国や朝鮮半島とは異なる儒教観・家族観が形成されることとなる。

https ://kyotofukoh.jp/report704.html
京都の宇多源氏始祖追遠之碑を案内しています。 ... 丘上に「宇多源氏始祖追遠之碑(うたげんじ しそ ついえん の ひ)」が立つ。 宇多源氏の祖とされる ....
同類華族は「宗族会」を組織し、共同して先祖の祭祀などを催した。1878年に『華族類別録』が刊行される。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
宗族
中国の父系親族集団。中国では「異姓不養、同姓不娶(ふしゅ)」というように同姓者間の婚姻が禁じられ、養子も同姓の子の世代の者を迎えるべきとされている。
宗族は、広義にはこの同姓の範囲をさすこともあるが、通常それより狭い、族譜、祖先祭祀(さいし)、族産などをともにし集団としてまとまっている単位を表す。
ただし、海外華僑(かきょう)など同一宗族の人口が少ない場合、異系の同姓者を併合し機能集団をつくることも珍しくない。
0194名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 17:07:22.21ID:wpt2pV9o0
>>176
ほんと
あと陛下が間違われた時、すかさずフォローされたのは流石だと思った
80も越えてらっしゃるのに、全て暗記されたんだろうか
0195名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 17:09:16.24ID:5IsRhEBt0
なんかまた天皇担ぎ上げるヤバイ国になってきたな
0196名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 17:09:45.09ID:q5SHpcs50
今年の流行語大賞!!



あ、そうか。
0197名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 17:10:39.50ID:q5SHpcs50
>>195
嫌ってるのは朝鮮人だけだぞ
0198名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 17:11:18.50ID:FdvvYF5N0
感動ポルノ
0199名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 17:11:42.31ID:3NzIM/CV0
ずっと政治利用されてきた人の家系ですね。
0200名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 17:11:43.29ID:LR+w1t3N0
>>600 >>601 >>602 >>603 >>604 >>605 >>606

なない@na_nai
2009年7月24日
当時の身分制度は士農工商をベースに神官や僧職、賎民といった階層分けがされており、適用される刑法も違う。
家族的身分関係が重視されており、主君や親類に反抗することは悪とされていた。なお当時の刑法は成文法ではなく、
慣習法が基本となっており、行動規制を示すことが一般的だった。

士・農工商・穢多非人(読み)しのうこうしょうえたひにん
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
https://kotobank.jp/word/士・農工商・穢多非人-1542795
武士
武士は支配身分として武力を独占し、政務に携わり、特権を享受したが、この身分内部における身分的構成は複雑多岐にわたり、
差別的な規制は厳格であった。たとえば、同じ大名であっても、御三家(ごさんけ)および金沢の前田家、大身外様(たいしんとざま)、
家門(かもん)・門閥譜代(もんばつふだい)、譜代城持格(しろもちかく)以上、中堅譜代、小身(しょうしん)外様、小身譜代によって
江戸城中の詰所(つめしょ)の格式を異にした。

 家臣団については、たとえば広島藩では、1868年(慶応4)、最上位の長柄(ながえ)以上の者は100人で、家老以下、年寄、
番頭(ばんがしら)、寄合、旗奉行(はたぶぎょう)、用人、大小姓組頭(おおこしょうくみがしら)、中小姓頭、大目付などがこれに属した。
次が布衣(ほい)以上の者で87人、留守居(るすい)、郡(こおり)奉行、町奉行、勘定奉行、普請(ふしん)奉行、歩行頭(おかちがしら)な
どがこれに属し、その下に馬持(うまもち)以上305人があり、さらにその下に御前御用(おんまえごよう)(御直御用(おじきごよう))23人、
御序(おついで)の御前御用39人があった。そのまた下に役方(やくかた)291人、中小姓228人、儒医組(じゅいぐみ)106人があって、以上
の1179人が家中(かちゅう)(侍士(じし))であった。家中の下には御前(藩主)に直接応答できない歩行(おかち)(徒士)があり、これ
には左右小姓組に属する者70人、外様歩行組に属する者257人、他の諸役方配属の者453人、計780人がいた。ここまでが士分(しぶん)
で、その下に小人(こおひと)とよばれる足軽(あしがる)がいて、これは卒(そつ)身分であり、およそ2000人、諸役方の下役に従事した。

 こうした身分的差異は日常生活を隅々まで規制した。そのことについて、福沢諭吉は、その著『旧藩情』において、出身藩の豊前
(ぶぜん)中津藩では、足軽は上級士族に対して雨中でも往来で出会ったときには下駄(げた)を脱いで路傍に平伏し、足軽以上の小役人
も大身に対して同様にするのが作法になっていたと述べている。[成澤榮壽]
0201名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 17:12:24.74ID:LR+w1t3N0
>>200

士・農工商・穢多非人(読み)しのうこうしょうえたひにん
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
https://kotobank.jp/word/士・農工商・穢多非人-1542795
農民
武士身分の下に平民身分として農工商があった。農民を上位としたのは儒者の思想上のことであって、実際は農工商は並列した身分的存在であった。
通常農民身分で特定条件を備えている者は百姓とよばれ、年貢負担者として、平民身分のなかで武士からもっとも厳しい支配・統制を受けた。農民
の場合も身分内部の身分的差異は甚だしく、名主(なぬし)(地方により庄屋(しょうや)、肝煎(きもいり)などと称した)、組頭(くみがしら)、百姓代
(ひゃくしょうだい)の地方三役(じかたさんやく)(村方三役(むらかたさんやく))をはじめとする石高所持者の本百姓(ほんびゃくしょう)は一人前の農民
であったが、無高の水呑(みずのみ)百姓は村寄合(むらよりあい)に参加する権利がなかった。水呑百姓の下には、地方により、有力な本百姓に隷属し、
独立した生計を営めない名子(なご)、門屋(かどや)、家抱(けほう)、被官(ひかん)などとよばれる農民があり、さらに隷属性の強い譜代(地方によって
は庭子(にわこ)、買子(かいこ)と称した)も存在した。無高の水呑百姓以下は厳密には百姓ではない。士農工商の農民イコール百姓ではないのである。
美濃(みの)(岐阜県)大垣藩では、庇(ひさし)・濡縁(ぬれえん)・破風板(はふいた)・釣天井(つりてんじょう)および3尺以上の座敷口の造作、
衛門・兵衛・太郎・太夫(たゆう)のついた命名は頭(かしら)百姓(本百姓)には許されたが、下(しも)百姓(水呑百姓)には許されなかった。また、
下百姓は頭百姓の宅内へ履き物を履いて入ることも認められなかった。[成澤榮壽]
0202名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 17:12:26.41ID:0045nRMS0
安倍が国民代表として祝辞を述べるというのはまだいいけど
議長だの司法だの知事だのいらねーよ
みんな同じことしか言わないんだから
0203名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/24(日) 17:12:54.66ID:LR+w1t3N0
>>201

https:/ /kotobank.jp/word/走百姓-114322
世界大百科事典内の走百姓の言及
【欠落】より
…【藤木 久志】 近世に入っても,小百姓や隷属的な農民が,逃散に至らぬ小規模な抵抗の形態として村外,領外に逃亡することがしばしば行われた。
初期の領主禁令では,このような欠落人を,多く走(はしり)百姓,走りものなどと称し,厳しい処分規定を設けている。欠落の類語に,家出,出奔,
立退(たちのき),風与出(ふとで)などがあるが,中期以降は,階層,理由を問わず,これら居住地からの失踪行為全般を意味する用語として,欠落が広く使用された。…

【逃散】より
…近世成立期の17世紀前半,逃散は領主に対する農民の主要な抵抗形態であった。その中には,〈走り者〉〈走百姓〉などの呼称であらわれる,隷属農民や
小百姓の個別的な欠落から,大百姓が村内の小百姓や隷属農民を引き連れて村ぐるみで逃亡する集団的な逃散まで,さまざまな規模・形態のものが含まれる。
このうち〈走り〉〈欠落〉などの個別的な逃亡を除外すると,逃散は単なる村からの逃亡ではなく,領主に要求を受け入れさせるための計画的な同盟罷業と
いった色彩をもつことが多かった。

大辞林 第三版の解説
ひとがえし【人返し】
@ 領民の他領への逃亡を防ぐため、勝手に他領に移住した者を領主間の交渉で召し返したこと。
A 江戸時代、江戸・京都・大坂などの大都市に集中した人々を帰郷させたこと。1843年の人返しの法が有名。旧里帰農。

https: //ja.wikipedia.org/wiki/逃散
江戸時代
生産者である百姓の逃散は、生産活動の減退を意味するため、支配者(幕府、大名、旗本ら)は百姓の逃散を厳しく禁ずるとともに、
移住も原則として認めなかった。
0204名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 17:13:28.75ID:5IsRhEBt0
>>197
嘘つくなよ
太平洋戦争で家族殺された人は今も嫌ってる
象徴なんてのは世襲の人間ではなく猫の置物でも据えておけ
こんな人権侵害はないんだ
0206名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/24(日) 17:13:32.60ID:LR+w1t3N0
>>444 >>530 >>531 >>532 >>533 >>534 >>535

聖徳太子の憲法17条も論語の学而や礼記のコピーとされている

https://ja.wikipedia.org/wiki/学而

有子曰:「禮之用,和爲貴;先王之道,斯爲美;小大由之。有所不行,知和而和,不以禮節之,亦不可行也。」
(有子曰く「礼の用は和を貴しと為す。先王の道も斯れを美と為す、小大これに由るも行なわれざる所あり。
和を知りて和すれども礼を以てこれを節せざれば、亦行なわるべからず。」)

『中庸』は中華主義者がしばしば引用する
日本中華主義・日本型華夷思想

https://ja.wikipedia.org/wiki/中華思想

江戸期日本の中華思想

明が異民族王朝の清に支配されると、日本の朱子学者の一部、林羅山などは、日本の
天皇家は中華正統王朝である周王朝の分家である呉の太伯の子孫であるから、日本こ
そは中華であると主張し始めた。更に、明の遺臣の一部は清に仕えることを潔しとせ
ず抵抗もしくは亡命し、そのうちの一人である朱舜水は、夷狄によって治められてい
る現在の中国はもはや中国でなく、亡命先の日本こそが中華であると述べた。日本の
江戸時代の儒学者山鹿素行も著書『中朝事実』の中で同様の主張をした。また、国学
者本居宣長も日本外交史を扱った歴史書『馭戒慨言』おいて、世界の国々は日神の子
孫である天皇に朝貢してその暦を奉じるのが正しい姿であり中国皇帝は「戎王」に過
ぎないとして、中国中心の華夷秩序を反転させて日本中心の華夷秩序をあるべき姿と
して描いている[12]。これが後に水戸学や平田派国学へも思想的影響を与え、幕末の
尊王攘夷論に結びつくこととなる。

太平洋戦争中に天皇を現人神として崇め奉り、軍 部が敗色濃厚になるや神州(中華正統王朝)
不滅を唱えるに至ったのも、朱子学に基づく中華思想に影響されたものであるという[13]。
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