>>433

キリスト教における全知全能というのは、日本人の考えるそれとは異なる
全知は知る能力でありこれは技術力が途方もなく進んでいれば超感度センサーで可能かもしれないので、あえて議論する意味はない
アウグスティヌスによれば全能は意思を遂げられる能力であって、何でもできることを意味しない

Augustine of Hippo in his City of God writes "God is called omnipotent on account of His doing what He wills"
and thus proposes the definition that "Y is omnipotent" means "If Y wishes to do X then Y can and does do X".

この定義においては人間でさえも偶然に全能な力を発揮することもあり得る
日本人が考えるような、物理法則さえ捻じ曲げることができる存在とは見なされていないということだ

https://en.wikipedia.org/wiki/Omnipotence_paradox
For He is called omnipotent on account of His doing what He wills, not on account of His suffering
what He wills not; for if that should befall Him, He would by no means be omnipotent. Wherefore,
He cannot do some things for the very reason that He is omnipotent.(神の国、アウグスティヌス)

https://en.wikipedia.org/wiki/Attributes_of_God_in_Christianity

キリスト教の神というのは知的生命体なら保有するであろう属性をおおむね保有する
これは人間に近いとも言えるが、上述の意思を実現する力によって人間の完全な上位互換と考えることもできる

例えばAIが自立学習をするようになって人間のように思考するようになったら、人間の良い面も悪い面も
AIは保持するであろうことは容易に想像できるのであり、人間が望む(人間にひたすら都合の良い)平和的(で愛憎がない従順)なAIが生まれるとは限らないということだ

また絶対神という概念はおそらくライトノベルや神道系の新興宗教(金光教、大本、生長の家)あたりから来たもので、
宗派にもよると思うがキリスト教で絶対を使う場合は「信仰が絶対の真実」というもので神に絶対という形容詞はそぐわない(前述したようにアウグスティヌス的な「全能」ならあり得る