>>472

https ://ja.wikipedia.org/wiki/嘉禄の法難
嘉禄の法難(かろくのほうなん)は、法然死後に、天台宗の延暦寺衆徒が浄土宗と専修念仏を弾圧した事件。

https ://ja.wikipedia.org/wiki/法華一揆
僧兵と宗徒、近江の大名・六角定頼の援軍が加わって、延暦寺は総計約6万人を動員して京都市中に押し寄せ、日蓮宗二十一本山をことごとく焼き払い、法華衆の3000人とも1万人ともいわれる[要出典]人々を殺害した(天文法難)。

さらに延暦寺の勢力が放った火は大火を招き、京都は下京の全域、および上京の3分の1ほどを焼失。兵火による被害規模は応仁の乱を
上回るものであった[1]。

こうして隆盛を誇った京都の法華衆は壊滅し、法華衆徒は洛外に追放された。以後6年間、京都においては日蓮宗は禁教となった。

https ://ja.wikipedia.org/wiki/山科本願寺の戦い
山科本願寺の戦い(やましなほんがんじのたたかい)は、天文元年(1532年)8月23日 - 24日にかけて行われた細川晴元・六角定頼・京都の法華一揆の連合軍と浄土真宗本願寺勢力(一向一揆)との戦い。山科本願寺合戦(やましなほんがんじかっせん)ともいう。

このように四方を取り込むようにして完全に包囲した。この時の攻城軍は3万とも4万とも言われている。戦いは8月24日早朝より開始された。
午前10時ぐらいに諸口より攻城軍が乱入し、寺町周辺を放火して回り大勢が決した。山科本願寺は社坊ひとつ残さず灰になって落城した。

https ://ja.wikipedia.org/wiki/享禄・天文の乱
享禄・天文の乱(きょうろく・てんぶんのらん)は、戦国時代初期の浄土真宗本願寺宗門における教団改革を巡る内紛と、これに触発さ
れて発生した対外戦争の総称。

享禄4年(1531年)の享禄の錯乱(きょうろくのさくらん)または大小一揆(だいしょういっき)と呼ばれる内紛
天文元年(1532年)から同4年(1535年)の細川氏・畠山氏などとの戦いである天文の錯乱(てんぶんのさくらん)または天文の乱(てんぶんのらん)の上記2つからなる。