>>482

単線的な考えだが、現実はそう単純ではない。グレゴリウス13世によるグレゴリオ暦の採用によって地動説自体はすでに広く受け入れられていたと考えることができるが
証拠が不十分でティコ・ブラーエの修正天動説が用いられることが多かった

https ://en.wikipedia.org/wiki/Galileo_Galilei#Controversy_over_heliocentrism
Controversy over heliocentrism

Cristiano Banti's 1857 painting Galileo facing the Roman Inquisition
In the whole world prior to Galileo's conflict with the Church, the majority of educated people subscribed either to the Aristotelian geocentric view
that the earth was the center of the universe and that all heavenly bodies revolved around the Earth,[67] or the Tychonic system that blended geocentrism
with heliocentrism.[68] Nevertheless, following the death of Copernicus and before Galileo, heliocentrism was relatively uncontroversial;[68] Copernicus's
work was used by Pope Gregory XIII to reform the calendar in 1582.[a]

https://ja.wikipedia.org/wiki/ティコ・ブラーエ
ただし彼自身は、地動説が正しければ当然観測されるであろう年周視差が観測できなかった事から、地動説には否定的な立場をとり、
「太陽は地球の周りを公転し、その太陽の周りを惑星が公転している」という「修正天動説」を提唱した。
彼は死ぬ前に、ヨハネス・ケプラーを皇室数学者とするようにルドルフ2世に要請した[1]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/クリストファー・クラヴィウス
天文学者としても有名で、当時の主流であった「太陽系における地球中心説」(いわゆる天動説)を支持していた。地動説に対しては十分
な根拠がないとして否定的であったが、恣意的に組み立てられたことで生じる天動説の矛盾点も十分理解・認識していた。当時の学会の重鎮
として若きガリレオ・ガリレイとも親交があり、ガリレオ自身よりよい仕事を得るためにクラヴィウスの協力を求め、クラヴィウスはガリレオ
をピサ大学の教授職に推薦している。ガリレオはクラヴィウスを大学者として尊敬しており、その敬意は生涯変わらなかった。


ガリレオは自分の考えたキリスト教の教理が正しいと考え、当時としては天文学的な反証がまだあった地動説を強烈におして見境なく聖職者(この時代の聖職者は完全に政治と切り離されていない)
をいいこめて、敵を作ったわけだ。当時の教会はネポティズムなど腐敗しておりウルバヌス8世は政治屋であり、ローマは微妙な政治に成り立っていたから、政治的に対立者をやり込めた結果として
手段を選ばず反撃に出た連中がいたというだけのことだ