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【皇室】天皇陛下、皇后陛下とともに在位30年を記念する政府主催の式典に出席。そのお言葉全文

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0001記憶たどり。 ★
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2019/02/24(日) 16:17:32.13ID:+Sng6mJ49
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190224/k10011826401000.html

在位30年に当たり、政府並びに国の内外から寄せられた祝意に対し、深く感謝いたします。

即位から30年、こと多く過ぎた日々を振り返り、今日こうして国の内外の祝意に包まれ、このような日を迎えることを誠に感慨深く思います。

平成の30年間、日本は国民の平和を希求する強い意志に支えられ、近現代において初めて戦争を経験せぬ時代を持ちましたが、
それはまた、決して平坦な時代ではなく、多くの予想せぬ困難に直面した時代でもありました。

世界は気候変動の周期に入り、我が国も多くの自然災害に襲われ、また高齢化、少子化による人口構造の変化から、
過去に経験のない多くの社会現象にも直面しました。

島国として比較的恵まれた形で独自の文化を育ててきた我が国も、今、グローバル化する世界の中で、更に外に向かって開かれ、
その中で叡智を持って自らの立場を確立し、誠意を持って他国との関係を構築していくことが求められているのではないかと思います。

天皇として即位して以来今日まで、日々国の安寧と人々の幸せを祈り、象徴としていかにあるべきかを考えつつ過ごしてきました。

しかし憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが、次の時代、
更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています。

天皇としてのこれまでの務めを、人々の助けを得て行うことができたことは幸せなことでした。

これまでの私の全ての仕事は、国の組織の同意と支持のもと、初めて行い得たものであり、私がこれまで果たすべき
務めを果たしてこられたのは、その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことのできるこの国の人々の存在と、
過去から今に至る長い年月に、日本人がつくり上げてきた、この国の持つ民度のお陰でした。

災害の相次いだこの30年を通し、不幸にも被災の地で多くの悲しみに遭遇しながらも、健気に耐え抜いてきた人々、
そして被災地の哀しみを我が事とし、様々な形で寄り添い続けてきた全国の人々の姿は、私の在位中の忘れ難い記憶の1つです。

今日この機会に、日本が苦しみと悲しみのさ中にあった時、少なからぬ関心を寄せられた諸外国の方々にも、
お礼の気持ちを述べたく思います。

数知れぬ多くの国や国際機関、また地域が、心のこもった援助を与えてくださいました。

心より深く感謝いたします。

平成が始まって間もなく、皇后は感慨のこもった一首の歌を記しています。

ともどもに平(たひ)らけき代を築かむと諸人(もろひと)のことば国うちに充(み)つ

平成は昭和天皇の崩御と共に、深い悲しみに沈む諒闇の中に歩みを始めました。

そのような時でしたから、この歌にある「言葉」は、決して声高に語られたものではありませんでした。

しかしこの頃、全国各地より寄せられた「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」という静かな中にも決意に満ちた言葉を、
私どもは今も大切に心にとどめています。

在位30年に当たり、今日このような式典を催してくださった皆様に厚く感謝を表し、ここに改めて、我が国と世界の人々の安寧と
幸せを祈ります。
0072名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:39:40.89ID:LR+w1t3N0
>>940 >>941 >>942 >>943 >>944 >>945 >>946

「神の子」と自称する神武天皇(神道の教祖)の誕生が、国の成り立ちとするのが神話史実説の骨子となる

https: //ja.wikipedia.org/wiki/神武天皇
神日本磐余彦天皇(神武天皇)の諱は彦火火出見(ひこほほでみ)。彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の四男として庚午年[注釈 1]1月1日(庚辰の日)[1]に日向国で生まれた。
母は海神の娘の玉依姫である。生まれながらにして明達で強い意志を持っており、15歳のとき(甲申年[注釈 2])に太子となった。長じて日向国吾田邑の吾平津媛を妃とし、息子の手研耳命を得た。

https://ja.wikipedia.org/wiki/タマヨリビメ
タマヨリビメ(タマヨリヒメ、玉依姫、玉依媛)とは、神道の女神である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ウガヤフキアエズ
ウガヤフキアエズ、鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)は日本神話の神。地神五代の五代目、日向三代の三代目。
0073名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:39:44.95ID:AI9HeKlC0
まさか 式典に チョンの大使とか 帰化チョンの議員とか出席していないよね
0074名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:40:05.01ID:i/8J/2vl0
陛下も皇后さまも大変だな
早くゆっくり出来る環境になって欲しい
0076名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:40:11.53ID:LR+w1t3N0
>>72

https://ja.wikipedia.org/wiki/イザナミ
火の神軻遇突智(迦具土神・カグツチ)を産んだために陰部に火傷を負って病に臥せのちに亡くなるが、その際にも尿や糞や吐瀉物から神々を生んだ。
そして、カグツチはイザナギに殺された。

https://ja.wikipedia.org/wiki/イザナギ
アマテラスやスサノオ等多くの神の父神であり、神武天皇の7代先祖とされている。
0077名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:40:45.73ID:LR+w1t3N0
>>72

実在の証拠が皆無の神武天皇よりも纒向石塚古墳、箸墓古墳を研究すべきだが、こうした遺跡の文脈で国の発生を語れないところが愛国自慰業界の限界と言える

https: //ja.wikipedia.org/wiki/纒向遺跡
3世紀に始まる遺跡で、一帯は前方後円墳発祥の地とする研究者もいる。邪馬台国の中心地に比定する説があり、箸墓古墳などの6つの古墳が分布する。

天照大神にも持統天皇説や卑弥呼説、男神説、その他にも諸説ある

https: //ja.wikipedia.org/wiki/天照大神
天照大神のモデルは淮南子や山海経などに出てくる東海の海の島(日本)に住んでいる十の太陽神の母である義和が該当するとする説もある[16]。
淮南子の冒頭と日本書紀の冒頭が重なる部分が存在する事から記紀の執筆者が淮南子を読んでいたのは間違いないとされる[17]。

また最高神アマテラスの造形には、女帝の持統天皇(孫の軽皇子がのち文武天皇として即位)や、同じく女帝の元明天皇(孫の首皇子がのち
聖武天皇として即位)の姿が反映されているとする説もある[18]。

https: //ja.wikipedia.org/wiki/高天原
天上説
「高天原は神の住まう場所であるから、天上や天より高い宇宙に決まっており、それ以外の場所を考えるのは不遜である」とする説。本居宣長の説が代表的なもので、
戦前は皇国史観と結びついてこの考え方が主流であった。

地上説
「神話は何がしかの史実を含んでおり、高天原も実在したものを反映している」とする説。新井白石の説が代表的なもので「高天原とは常陸国(茨城県)
多賀郡である」とする[1]。地上説にはさらに国内説と海外説がある。国内説の中には、邪馬台国と高天原を関連付けて考える説もある。海外説の代表的な
ものは中華の国雲南説である。新井白石が常陸国説を唱えるまで、京都朝廷では高天原は大和国葛城だとされていた。

いわゆる、高天原はヤマト発祥の地として考えることが地上説である。

作為説
神話は作られたものであるから、そこに出てくる高天原について「どこにあったか?」などと考えること自体が無意味であるとする説。山片蟠桃の説が
代表的なもので、『古事記』における神代のことは後世の作為であるとする。戦後主流となっている津田左右吉の史観はこの考え方に基づく。現在でも
多くの学者は、高天原神話は支配階級のことを「天上界に由来するが故に尊い」とする信仰を語ったものであるという説に与しており、思想的には異な
るものの先の天上説と実質の意味合い的には近い。
0078名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:41:01.31ID:LR+w1t3N0
>>953 >>954 >>955 >>956 >>957 >>958 >>959

ユダヤ教は人類最古の古代文明の宗教を継承していると言える
ユダヤ教はアブラハムの啓示から始まるが、アブラハムの先祖の宗教は同じセム語族の宗教だったウガリット神話またはシュメール神話だったと推定できる
ウガリット神話の発祥地とされるレバントの都市文明はシュメールに先んじているためセム語族の神話は現在のシリア周辺で発祥したと考えていい

https: //ja.wikipedia.org/wiki/ナトゥーフ文化
ナトゥーフ文化(英語:Natufian culture)は、紀元前12500年から紀元前9500年にかけてレバントに存在した亜旧石器文化。
人類史において農耕が始まる前であるにも関わらず、定住あるいは定住に近い生活が行われていた点に特徴がある。

https: //ja.wikipedia.org/wiki/エリコ
死海の北西部にある町。古代オリエントの中でも古い町で、紀元前8000年紀には周囲を壁で囲った集落が出現した。
世界最古の町と評されることもある。。。エリコの名前は『旧約聖書』にも繰り返し現れ、「棕櫚(しゅろ)の町」として知られていた。

https: //ja.wikipedia.org/wiki/ウガリット
ウガリット一帯には、既に新石器時代には人間が居住していたとみられる。紀元前6000年頃には重要な場所であり、
集落全体を壁で囲い、守りを固めていた。後にメソポタミアと文化的に交流が始まり、紀元前3千年紀後半からは西セム人の
都市国家として繁栄、紀元前18世紀にはフルリ人もこれに加わった。

https ://en.wikipedia.org/wiki/Neolithic
The Neolithic 1 (PPNA) period began roughly around 10,000 BC in the Levant.[6] A temple area in southeastern Turkey at Göbekli Tepe dated around 9500 BC
may be regarded as the beginning of the period.

ヘブライ語はウガリット神話と同じセム語のため類似する所がある(ミカエル、ガブリエル等の語源)が、他のウガリット神話を信じる部族はアブラハム
(メソポタミアに居住していた)の啓示から長い年月をかけてユダヤ教に改宗したと考えられるため、ユダヤ人なるものが初めから存在していたわけではない

ユダヤ人の旧約聖書においてアブラハム啓示以前の記述の多くは、シュメールやレバントの神話から借用して連続する歴史に貼り合わせたものと考えることができる

アブラハムが拝一神教であったかは現在でも議論されており、(最古?の)原始一神教の啓示がユダヤ教の源流といって良い
0079名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:41:05.56ID:BRYs86eA0
【小倉百人一首】 
小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ  貞信公(26番)

■ 現代語訳
小倉山の峰の紅葉よ。お前に人間の情がわかる心があるなら、もう一度天皇がおいでになる(行幸される)まで、散らずに待っていてくれないか。

■言葉の解説
【小倉山】京都市の北西にある、右京区嵯峨にある紅葉の美しい名所です。大堰川を挟んで嵐山と向かい合う山で、ふもとに定家の別荘、「小倉山荘」がありました。
【心あらば】人間の心があるならば、人の情が分かるならば、の意味。紅葉に呼びかけることで、紅葉を人になぞらえる、いわゆる「擬人法」をとっています。
【今ひとたびの】せめてもう一度だけ。切実な感情が表れた表現ですね。
【行幸(みゆき)】 天皇が訪れられることです。「みゆき」には他に「御幸」の表記もありますが、こちらは上皇、法皇、女院のおでましの意味となります。
【待たなむ】「なむ」は願望を表す終助詞で、「待っていてくれないか」の意味です。
0080名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:41:17.72ID:LR+w1t3N0
>>963 >>964 >>965 >>966 >>967 >>968 >>969

イギリス:西暦519年ウェセクス国王の血筋(女系) 、13世紀にはマグナ・カルタによって立憲君主制に舵をきる
ドイツ:西暦580年(ピピン1世) からの血筋(ヴィルヘルム2世で退位、カロリング朝の国王・皇帝がメロヴィング朝の
血も一部受け継ぐとする説を用いると西暦400-450年、もしくは小国の王だったPharamond、Sunno以前にまで遡るのであれば西暦300-350年以前に求めることも可能 )

これらの初代国王達は平民ではなく小国の領主の生まれであろうから、エチオピアのようにさらに古くまで血筋を主張することも可能だろう
例えばトイトブルク森の戦い後にドイツの各部族は温存されているため、Arminiusの親戚である可能性はかなり高い
その場合はドイツ、イギリスの王族は紀元前に遡る王族の血筋だったとの主張も可能となる

https://en.wikipedia.org/wiki/Bertrada_of_Laon

ウィリアム1世はウェセクス王家の血をひく王女と結婚し、9人の子供が生まれ、その血が現在の国王の血にも流れている
(さらにイングランド国王から後継者にも指名されてもいた)

https://en.wikipedia.org/wiki/Matilda_of_Flanders
As a niece and granddaughter of kings of France... Her descent from the Anglo-Saxon royal House of Wessex was also to become a useful card.

英国王(さらにフランス王)としての正統な血筋を子供が持っていたことになる

ウェセクス国王の血筋をもつスコットランドの王族と結婚しているために、女系で二重にウェセクス王家の流れをくむ
(キリスト教による重婚の禁止により欧州の王族の数は限られてきた)
0081名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:41:25.54ID:iGWJ+73I0
三浦大知
いつかのEXILEと同じでめちゃくちゃ安っぽい式になった
0082名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:41:29.57ID:BRYs86eA0
■ 作者  貞信公(ていしんこう=藤原忠平(ただひら)。880〜949年)。関白太政大臣、藤原基経(もとつね)の四男で、兄・時平、仲平とともに「三平」と呼ばれます。
聡明で人柄が良く、従一位関白の座まで栄達し、藤原氏が栄える基礎を作りました。貞信公は、死んでからの送り名です。
0083名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:41:34.01ID:MRIyvCua0
本当に国民と皇后さまを大勢に思われておられるんだなぁ。
0084名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:41:50.29ID:LR+w1t3N0
>>951 >>944 >>945 >>946 >>947 >>948 >>949

ピピン1世、カール、オットーの祖先とされるSunnoには実在痕跡らしき文書(紛失済み)があったとされる

https ://en.wikipedia.org/wiki/Sunno
Sunno was a leader (dux) of the Franks in the late 4th century that invaded the Roman Empire in the year 388
when the usurper and leader of the whole of Roman Gaul, Magnus Maximus was surrounded in Aquileia by Theodosius I.

The invasion is documented by Gregory of Tours who cited the now-lost work of Sulpicius Alexander. According
to this account, Marcomer, Sunno and Genobaud invaded the Roman provinces Germania Inferior and Belgia.

ドイツ皇帝、神聖ローマ帝国、フランス国王、英国王は、説によっては4世紀の小国の王まで遡ることも可能だ

https ://en.wikipedia.org/wiki/Sulpicius_Alexander
The work of Sulpicius Alexander as extracts in Gregory's Decem Libri Historiarum (II 9) is considered an important source
in any discussion of the origin of the Frankish tribes.

またドイツ系の小国の血統を強引に解釈すれば紀元前に遡る王族とすることもできる
0085名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:42:10.01ID:LR+w1t3N0
>>973 >>964 >>965 >>966 >>967 >>968 >>969

韓国の反日愛国ポルノ、左翼の反安倍ポルノ・弱者救済ポルノ(実際に弱者を儒教身分差別主義で苦しめているのは左翼労組)、
自称極右(実体は極左)の日本スゴイ愛国ポルノ、中国の漢民族マスターレイスポルノ・世界の中心・中華中庸ポルノ、どれも実質のない儒教マウンティングで腐りきった儒教ポルノだ

SIVA@sivaprod
2018年4月8日
愛国ポルノにならない”伝統”や”文化”にほんと冷淡だよね、”愛国者”って。

伊東麻紀@ItohMaki
2月10日
歴史ではなく、「今の日本が落ちぶれてしまったので、過去をネタにして自画自賛する愛国ポルノ」だと考えると心底気持ち悪いですね。

田端信太郎 @田端大学塾長である!@tabbata
2017年12月11日
「日本はスゴイ!」系のTV番組は、愛国ポルノです。じいさんばあさんのための、オナニーネタ。

影書房@kageshobo
2017年8月6日
“愛国ポルノ”に踊らされる日本人。私は「みんな違ってみんな良い」と伝えたい! http://www.co-media.jp/article/22402
「世界で日本の存在感が低下するのに比例して、日本人が一生懸命自分で自分を褒めているようにしか見えません。」
そろそろその恥ずかしさにメディアも気づけ。

峨骨@Chimaera925
2016年11月10日
弱者救済を叫んで飯の種にしている連中は、弱者を救済しない。本当の意味で救済してしまうと飯の種が無くなるから。
そうして感動ポルノや愛国ポルノが継続的に作られる。決して無くなりはしない。救済することでなく、救済を叫ぶ事が目的だから。

けんすう 👀認証済みアカウント@kensuu
2016年8月14日
さすがに未だに日本が一番という感覚は少ないような気はするなあ。

「めっちゃ自信喪失して絶望の国ニッポン」か、「日本すごい礼賛をして気持よくなる愛国ポルノ」のどちらかに寄っている気もする。

かまやん@kama_yam
これ結構衝撃的なグラフだな。「技術力は世界一」とか言っている間に、30年前の1985年に逆戻り。
0086名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:42:15.22ID:BRYs86eA0
■鑑賞
「あまりに美しい小倉山の紅葉よ。もし人の心が分かるなら、もう一度天皇がおいでになるまで、その美しさを失わないでおくれ」。あまりの紅葉の美しさに感動して、口をついた言葉のようでもありますね。
  この歌は、「拾遺集」の詞書(ことばがき・短歌の紹介文)に、亭子院(時の宇多上皇)が大堰川に遊ばれた時、見事な小倉山の紅葉に感動して、
「我が子、醍醐(だいご)天皇にもこの紅葉をぜひ見せたいものだ」と言ったのを、貞信公が醍醐天皇に伝えたくて作ったもの、と書かれています。

  貞信公は、藤原氏が栄える基を作った大人物。天皇にも当然影響力を持つ政治家でした。ここでは、紅葉を人になぞらえて歌っていますが、
逆に見ると「天皇陛下、紅葉は今が盛りです。美しい今のうちに、行幸されればいかがでしょうか」と、暗に天皇陛下に紅葉見物を勧めている歌なのです。
(続く)
0087名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:42:19.14ID:LR+w1t3N0
>>983 >>974 >>975 >>976 >>977 >>978 >>979

聖徳太子の憲法17条も論語の学而や礼記のコピーとされている

https://ja.wikipedia.org/wiki/学而

有子曰:「禮之用,和爲貴;先王之道,斯爲美;小大由之。有所不行,知和而和,不以禮節之,亦不可行也。」
(有子曰く「礼の用は和を貴しと為す。先王の道も斯れを美と為す、小大これに由るも行なわれざる所あり。
和を知りて和すれども礼を以てこれを節せざれば、亦行なわるべからず。」)
0088名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:42:31.17ID:LR+w1t3N0
>>483 >>484 >>485 >>486 >>487 >>488 >>489

つじどり【辻捕り・辻取り】
路上で好きな婦人を捕らえ、妻にしたこと。中世、略奪婚の一種として実際に行われたらしい。
「 −とは、男もつれず、輿車にも乗らぬ女房の、みめよき、わが目にかかるを取る事/御伽草子・物臭太郎」

ゆのんす@y_hm0
2015年8月25日
てか平安貴族性欲やばすぎでしょ

流星塾長はドイツ語を心から愛している@zyukutyo
2015年11月18日
それにしても解説者として出てきた瀬戸内寂聴さんが「平安貴族の恋はレイプから始まります。」って紹介するシーンがあって、
高校からの平安貴族に対する印象がますます変わったよね。平安貴族は「覗き魔、レイプ魔、ポエム魔」(ポエム魔ってなんだよ...)

滝川アリス 🏔@Blois_internet
2018年9月26日
レイプから始まる恋なら良い(平安貴族)

え 💕る@l0624l
2018年10月1日
とりかえばや の漫画を読んでいるけど、ホント平安貴族って最悪だなぁ笑
無理矢理押し入って嫌がる女抱くって、現代ならレイプだよねー
倫理観も今と違うやろから、仕方ないか笑
0089名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:42:47.82ID:BRYs86eA0
(続き)
しかし、百人一首に残るような名歌で天皇を動かすなど、古の政治家は雅を解する心にあふれていたのでしょうか。

  「大和物語」によると、ちょうどこの歌ができた頃から、大堰川への天皇の行幸が毎年執り行われることになったそうです。

  「小倉山」は、大堰川(保津川)を挟んで嵐山の北に位置する標高280mの低い山です。京福電鉄北野線・嵐山駅で下車し、北東に歩くと、こんもり丸い小倉山が典雅なたたずまいを見せてくれます。

この辺りは、すでに平安時代から貴族のレジャーの場所として人気がありました。秋に山道を歩けば、重なりあう紅葉の美しさが際立ち、平安時代の昔に戻ったかのような気分にしてくれます。

また、藤原定家の「小倉百人一首」が屏風に書かれていたという、「小倉山荘」はこの山の東のふもと、二尊院の近くにあったとされています。
0090名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/24(日) 16:42:48.67ID:LR+w1t3N0
>>443 >>444 >>445 >>446 >>447 >>448 >>449

うらじ@uraji
2018年4月5日
殴り合う貴族たちって本に平安貴族はんなりしたイメージに反して非常に暴力的で取っ組み合いの喧嘩も多く
刑事罰もないから従者と一緒に集団暴行や拉致強姦などやりたい放題だったと書いてあってビックリした記憶
があるんですけど、こんな風に袖まくりして暴れまわってたんですね。

キール@kir_imperial
2017年7月17日
殴打、拉致、監禁、虐待、殺人、強姦、集団リンチと、なんでもござれのDQNな平安貴族達が
「何あいつら・・野蛮すぎでしょ・・」っとドン引きした当時の武士達の子や孫とかが、鎌倉武士じゃけんのう。

さんぼーほさ@sanbouhosa
2016年12月29日
平安貴族が変態な一覧
・かわいい幼女を見つけると自分好みに育てようとする
・基本的にうわさを聞いただけでも恋煩いしてもじもじする
・噂だけを頼りに夜這いをかける
・割と強姦じみてるし待女にも手をかける
・宮中で男同士でやるのがブームになる
・僧侶がショタをほめてたら肉体関係あり

キール@kir_imperial
2016年3月28日
「源氏物語」っていうか、あの時代の平安貴族達って、ぶっちゃけ中国共産党の不良子弟みた
いなもんで、基本やりたい放題で、強姦陵辱近親相姦NTRなんでもありで、おまけに暴力沙汰
もしょっちゅうで、優雅で雅なようで、その実、血とエロスとバイオレンス溢れる世界だったからね。
0091名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/24(日) 16:43:00.47ID:LR+w1t3N0
>>433 >>434 >>435 >>436 >>437 >>438 >>439

https://ja.wikipedia.org/wiki/藤原惟通
惟通が没した後も、彼の母(式部の継母にあたる)と妻子は帰京せずに常陸国にとどまった。これは常陸に惟通とその一族が
所有する荘園があったことを意味している。惟通が没した年の寛仁4年(1020年)閏12月26日、惟通の未亡人が平為幹に強姦
されるという事件が起こった。惟通の母の訴えにより、為幹は逮捕されて身柄を拘束されたが、翌年には赦免されている。

つじどり【辻捕り・辻取り】
路上で好きな婦人を捕らえ、妻にしたこと。中世、略奪婚の一種として実際に行われたらしい。
「 −とは、男もつれず、輿車にも乗らぬ女房の、みめよき、わが目にかかるを取る事/御伽草子・物臭太郎」

nightflighttw@nightflighttw
2016年1月2日
奇習! 封印された平安貴族たちの蛮行 ― “恍惚”の赤ん坊レイプ

脱税レイヤー風呂屋さん@557dg4
2018年2月14日
光源氏がヤリチンなのに、何故人格者扱いされてるか?というと、平安時代の女は男を待つしかない存在であり…
云々以前に、小右記によると平安貴族はレイプが趣味であり、適当な平民を襲ったり、宮中強姦の為に部下を貸し
借りするとかザラだったらしく、そりゃヤリ捨てで済ませる男は聖人だよねっていう

猫太@nekotabarusu
2016年1月24日
平安貴族とかレイプ当たり前みたいな世の中だったらしいからな

ドント@dontbetrue
2013年11月21日
レイプ犯平安貴族「いと犯し」

clavi@clavi_tw
2014年5月27日
@hinata_honjo 王朝貴族文化の華やかさの陰で、貴族は殴り合いの喧嘩をし、強姦し、通りには糞便と死体が溢れていたのが平安時代
の姿のようです。臭かったでしょうねえ。
0092名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/24(日) 16:43:13.39ID:LR+w1t3N0
>>423 >>424 >>425 >>426 >>427 >>428 >>429

水無月尽@minaduki__jin
2012年12月22日
平安貴族の場合も、女側の親が許していないのに、あるいは決まった夫の正妻になっているのに、
勝手に男に侵入された、という話はたくさんある。女側に親がいなかったり、侵入・強姦した男が権力者だったりしたら、
女は泣き寝入り。侵入を受けたり噂が立てば女は「傷もの」。決して「おおらか」ではない
0093名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/24(日) 16:43:25.02ID:LR+w1t3N0
>>995 >>986 >>987 >>988 >>989 >>990 >>991

218名無しさん@1周年2019/01/26(土) 06:28:10.22ID:6aJiByN20
https://smart-flash.jp/sociopolitics/61005?sp
でも雑誌は少し頑張ってるな。

この記事によると

「竹田会長が視察や会議で国内外に出張する際は、自身が経営する旅行代理店に発注させ、
カネが落ちるようにしていたという。また、70歳定年を引き上げて、2020年まで在任する決議をするつもりです」(※JOCはいずれも否定)
0094名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/24(日) 16:43:33.66ID:96Kqq3AP0
そういえば金曜日に何となく市役所へ記帳行ったら新聞記者に新聞に載せさせて下さいって言われたわ。
0095名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:43:39.44ID:LR+w1t3N0
>>481 >>482 >>483 >>484 >>485 >>486 >>487

🌸桜花@MXY7_OHKA
私も最近まではこういう考えであった。
しかし、今上天皇陛下と相反する言論を振り撒く旧宮家出身の皇族芸人「竹田恒泰」の言動を見ると、
民間で生を受け世俗に塗れた元宮家の皇籍復帰は、逆に皇室の歴史や伝統の破壊を招くと考えるようになった。
宮内庁はこの問題引き続き慎重に考えるべきである。
0096名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:43:58.95ID:YFpzVrvk0
>>1
尊いお言葉だ。
0097名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:44:00.54ID:LR+w1t3N0
>>992 >>993 >>994 >>995 >>996 >>997 >>998

中国をお手本とした結果、「女三界に家無し」なんていう蛮族の因習が作られた

「女三界に家無し」
《「三界」は仏語で、欲界・色界・無色界、すなわち全世界のこと》女は幼少のときは親に、嫁に行ってからは夫に、老いては子供に従うものだから、広い世界のどこにも身を落ち着ける場所がない。

【日中】安倍首相「漢字や仏教、社会制度、都市づくりは 中国から日本に伝わった」「中国は長く日本のお手本」北京のフォーラムで★2
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1540695700/

「三従四徳」
昔の中国の女性への教え。
「三従」は従うべき三つのことで、幼い時は父親に従い、嫁いだ後には夫に従い、年老いたら子どもに従うべきであるということ。
「四徳」はいつもの生活で心がけるべき四つのことで、女性としての節操を守ることをいう婦徳、言葉遣いをいう婦言、身だしなみをいう婦容、家事をいう婦功のこと。
0098名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:44:09.05ID:BRYs86eA0
■太上天皇

太上天皇(だいじょうてんのう、だじょうてんのう)とは、譲位により皇位を後継者に譲った、いわば譲位元の天皇に贈られる尊号。

または、その尊号を受けた天皇である。上皇と略することが多い。

由来は、中国の皇帝が位を退くと「太上皇」と尊称されたことにあるとされる。また、出家した上皇を、太上法皇(法皇)と称する。

ただし「法皇」は通称であり、法的な根拠のある身位ではない。太上法皇も太上天皇に含まれる。


■上皇 天皇が位を退いてからの尊称。太上天皇。
■法皇 仏門に入った太上天皇の呼称。
0099名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:44:29.52ID:JoE61X4E0
天皇が小室との結婚を許可したのが最大の過ち
皇室の品格はガタ落し、その威厳は地に堕ちた
0100名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:44:40.64ID:LR+w1t3N0
>>996 >>997 >>998 >>999 >>1000 >>1001 >>1002

劣等感丸出しで日本人であることに誇りを持てない連中が架空(非科学空想)の歴史で誇りを持とうと大騒ぎしているが
元を辿れば朝鮮朱子学に毒された儒者・日本中華主義者の発案したものだ

「日本人である限り、正しい日本の歴史を知ることを喜ばない人はないであろう。
紀元節の問題は、すなわち日本の古代史の問題である」
(三笠宮崇仁親王)

「昭和十五年に紀元二千六百年の盛大な祝典を行った日本は、翌年には無謀な太平洋戦争に突入した。
すなわち、架空な歴史――それは華やかではあるが――を信じた人たちは、また勝算なき戦争――
大義名分はりっぱであったが――を始めた人たちでもあったのである。もちろん私自身も旧陸軍軍人
の一人としてこれらのことには大いに責任がある。だからこそ、再び国民をあのような一大惨禍に陥
れないように努めることこそ、生き残った旧軍人としての私の、そしてまた今は学者としての責務だと
考えている」
(三笠宮崇仁親王)
0101名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:45:14.50ID:LR+w1t3N0
>>59 >>60 >>61

平民に落ちた旧皇族による現皇族追い出しによって完成する革命ということだ
0103名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:45:35.72ID:LR+w1t3N0
>>507 >>508 >>509 >>510 >>511 >>512 >>513
>現代の日本神話は、旧皇族、旧華族、旧家、神道関係者が、脳を使わない癖がついてしまった底辺や自称愛国者を使ってマウンティングするための
>道具に過ぎないので語るに値しない

旧皇族や旧華族は今は平民である点も重要で、年月が経過するごとにマウンティングできなくなり焦っていることも考慮すべきだ

日本には平民になった皇統の持ち主なんていくらでもいるし、平民としての自由を謳歌し好き放題してきた
平民が皇室の一員として国民に受け入れられるという安易な考えは、実情を知らないからではないのか?
旧皇族が戻る可能性を煽り、皇族復帰をちらつかせてマウンティングする意地汚い商法だと言える

無論、前代未聞の平民が皇族となる事態は未知の問題を生むことは間違いない

例えば竹田家の若年だと(ベンチャー起業後に入社)元電通(大麻で逮捕)、伊藤忠社員、TBS社員、非常勤講師がいるらしいが彼らは
平民であり、平民として教育を受け、平民として生活しているわけで、現時点で醜聞は聞こえてこないが、
ハタイたらホコリはいくらでも出てくるので、彼らを皇族に復帰させるのには壁が大きすぎる

もう一つの問題は、日本人が皇統の血を受け継ぐとの通説では、平民からの皇位継承が可能になると
日本人の誰でも皇位継承権があるとの理屈も生まれて来ることだ

今後国民から絶大な支持を受ける強力な政治家や軍人が誕生したときに、その権威・権力を使って皇位を簒奪しようとするものが出るかもしれない
0104名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:45:50.15ID:BRYs86eA0
昭和天皇のジョーク

*昭和24年、長崎・雲仙岳にご登頂の際、
三谷侍従長が「あれが阿蘇山でございます」
昭和天皇「あ、そう」

*昭和50年の訪米の際、
ロックフェラーV世「うちの銀行の東京支店が皇居の近くにありますので、ぜひお立ち寄りください」
昭和天皇「預けにですか?それとも借りにですか?」

*時期不明ですが、伊豆・下田の須崎御用邸に向かう車中で、
「伊東に行くならハトヤ、というのはどこだ?」

*記者会見で「どんな番組を御覧になられるか」との質問に対して
「色々と観てはいますが、放送会社各社の競争が激しいので、具体的な番組名は答えられません。」と回答。
記者一同爆笑だった。

*入江侍従長との「フグ」問答
天皇が入江侍従長にフグを食べたいと言い出して、侍従長がフグは危ないと言ったところ、
「国民はフグで死んでも良いのか」と言って侍従長を困らせたそうです。
後に入江侍従長は「陛下は私をからかって楽しんでいた」と著書に回想しています。

*フランス料理のエスカルゴを召し上がったときのこと。
生物学者でもある天皇は、殻を持ち帰りたいと所望された。
「おいくつにしますか?」と問われて「サンコ」と返事された。
「三つですね?」と確かめられると、「いや、フランス語の五つ(サンク)だよ」
と洒落てみせたというエピソード。

*春の園遊会に柔道の山下泰裕選手が招かれたときのこと。
「ずいぶん一生懸命やっているようだが、ホネが折れるだろうね」とお声をかけられた。
山下が「二年前に骨折しました」と答えると、どっと笑い声がおきた。
もちろん天皇がそのことを知らぬはずがない。
「現在は体調もよく頑張っています」の返事に天皇はうれしそうにうなずかれた。

今上天皇にもこんなエピソードがーー
本年の文化勲章受章者安藤忠雄さんの話:天皇陛下が植樹にいらした。それが枯れてしまった。他の樹を植え直した。
その後陛下にお目にかかったとき、「あの樹はどうしましたか?」とお尋ねになるので、恐縮して「元気です」とお答えすると、
「二本目はだいじょうぶだったのですね。」
ご存じだったのである。
0105名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:45:53.73ID:LR+w1t3N0
>>103 >>517 >>518 >>519 >>527 >>528 >>529
>1万年前に遡れば、神武天皇とエタ非人・部落民の祖先も同じ

よって遠い親戚である神武天皇の子孫に毎朝感謝するという思考回路か、もしくは遠い親戚だから神武天皇の子孫に毎朝拝礼すべきという理屈らしい
あるいは「先祖が同じで遠い親戚だから神武天皇の子孫」を神の子孫として崇拝するという理屈に落ち着く
0106名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:46:02.28ID:/2oPQVpI0
>>1
皇太子さまの今までの全てのお言葉の方が聞きたい
0107名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:46:11.02ID:LR+w1t3N0
>>105 >>537 >>538 >>539 >>547 >>548 >>549

この理屈を正気で採用するのであれば、土民が酋長を選ぶ理屈とさして変わらないだろう
朝鮮朱子学の皇室との一体理論というのは脅迫によるヒステリーによって成り立つが、そもそも無理がある理論だから朝鮮朱子学という集団ヒステリー病に
一国が依存することになる

排泄物が神、神から人間が生まれるというような内容では史実と考えることは到底できない
神武天皇即位から10世紀以上経過した8世紀に書かれた日本書紀だけが根拠であるというなら、一体どこからどこまでが史実なのか、
なぜ皇室が成立したかを可能な範囲で知る必要がある

こうした疑問に答えられるなら歴史書に価値はある
0108名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:46:27.53ID:LR+w1t3N0
>>557 >>558 >>559 >>567 >>568 >>569 >>577

https://ja.wikipedia.org/wiki/和諧社会
概説
和とは、「和睦」すなわち心を合わせて助け合うことを意味し、諧とは「協調」すなわち衝突がないことを意味する[1]。
様々な社会的矛盾への取組として、和諧社会の建設は、国家戦略の根幹として位置付けられている[1]。2005年胡錦濤は、
地方政府の幹部の討論会の講話において、社会主義和諧社会とは「民主、法治、公平、正義が実現されな誠心友愛にあふれ、
活力に満ち、秩序が安定し、人と自然が互いに調和されている社会である」と述べた[1][5]。
0109名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:46:39.02ID:BRYs86eA0
【チベット侵略】チベット「アジャ・リンポチェ」とは

チベットにはトゥルクと呼ばれる特別な僧侶たちがいる

トゥルクの一人に「アジャ・リンポチェ」という僧侶がいる。「アジャ」というのはお父さんという意味で、チベット仏教ゲルク派の始祖ツォンカパの父親が転生したのがアジャ・リンポチェなのだそうだ。

実はこのアジャ・リンポチェ、日本とも縁がある人物だ。先々代のアジャ・リンポチェは、明治時代に日本に来たことがある。
力自慢だったアジャ・リンポチェは、明治天皇の前で力士と相撲を取って、見事勝利をおさめ、明治天皇から褒美をもらったそうだ。

当代のアジャ・リンポチェも子供のころに、先々代が明治天皇からもらった褒美の品を見たことがあるそうだが、中国の占領下で、今は散逸してしまっている。

このアジャ・リンポチェ、実はチベット人ではなく、モンゴル人だ。チベット人とモンゴル人には文化的な繋がりがあり、モンゴル人にもチベット仏教の信徒は多い。
どちらも遊牧民で、地続きなので、当然と言えば当然のことだ。

有名どころでは、横綱をやめた朝青龍もチベット仏教の熱心な信徒で、ダライ・ラマが沖縄に来た時は、ダライ・ラマに会いたいという気持ちを抑えきれずに、けいこを休んで飛行機で沖縄に行っている。
0111名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:47:02.05ID:BRYs86eA0
■アジャ・リンポチェが、なぜ亡命を決意したのだろうか? 

実は、これにはパンチェン・ラマが関わっている。

現在、中国に2人のパンチェン・ラマがいる。
ダライ・ラマによって認定された本物のパンチェン・ラマと、中国政府が勝手に認定した偽パンチェン・ラマだ。

 1998年、中国政府は、アジャ・リンポチェに、この偽パンチェン・ラマの教育係を引き受けるよう指示した。

『これを受け入れれば、ダライ・ラマが認めた本物のパンチェン・ラマを否定することになる。中国国内にいる限り、教育係を断ることは不可能だ』、アジャ・リンポチェは、そう考えて、亡命を決意し、実行にうつした。

 亡命後、アジャ・リンポチェは、偽パンチェン・ラマが選ばれた経緯についても語っている。

偽パンチェン・ラマの選出は、金壷と呼ばれる壷を使ったくじ引きで行われた。

金壷については、いずれ語るつもりなので詳細は省くが、そのくじ引きの場には、チベット本土に残っていた高僧のほとんどが集められたいた。中国側が、この儀式の体裁を整えるために集めたのだった。

僧侶たちは多数の兵士たちの監視の下で、この儀式に参加し、籤をひいた僧侶は、中国政府の指示通りに印のついた籤を引き、今の偽パンチェンラマが選ばれたのだそうだ。
0112名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:47:02.81ID:LR+w1t3N0
>>599 >>607 >>608 >>609 >>617 >>618 >>619

日本は極東の島国という地政学上の立地によって侵略や国外での戦争を免れてきた、そのため卑猥で下品な挿話を含む原始的な先祖霊神話の宗教が残った

島国の中で争いの絶えない時期や、平和な時期もあったし、餓死者がいた時期もあるし、それらは普通の国の歴史で一部の者が言うところの神話的なダイナミックさはない
文明人が立ち寄らないジャングルの原始的生活をする部族の宗教がいまだに残っている状態と考えれば良い

神道を海外で奇妙・珍奇と考えるものはいても、尊敬しているものが多数派かと聞かれると疑問符がつくが、ただそのユニークさのため人類学の一ページとして
残した方が良いだろう

紗里野且力左衛門(侍)@A3M5LjZ6mpc5c6z
先祖を祭るということに関して、もう一つ言っておかなければならないのは、儒教には、
どんな場合でも子孫を絶やしてはいけない、という思想があるということです。 これは
むしろ日本で重要視された考え方なのですが、(中略)子孫が絶えると、先祖のお祭りをす
る後継者がいなくなるからです。(井沢元彦)

ののまる@nonomaru116
まぁ、朱子学者の論理って、いわゆる儒教的価値観を古今東西に通底する倫理の大原則とした上で、
その観点から歴史上の出来事を分析・何が悪事・失敗の根本的な原因かを探して断罪し、後世の亀鑑
とするってものですからねぇ。そもそもがリアリスティックじゃないw
0113名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:47:13.00ID:LR+w1t3N0
https://kotobank.jp/word/身分統制令

身分制度は、階級社会の社会的秩序を維持・強化するためにつくられたものである。
わが国近世の封建的身分制度が創出されたのは豊臣(とよとみ)政権期のことである。
羽柴(はしば)(豊臣)秀吉は、1582年(天正10)太閤(たいこう)検地に着手、名主百姓(みょうしゅびゃくしょう)
など土豪に対して、農業から離脱するか、農業に専念するか、二つに一つを選択させ、下人(げにん)・名子(なご)
など隷属農民を土豪の支配から自立させ、農民を直接に把握し、土地に束縛する政策を打ち出した。また秀吉は、
1588年刀狩令(かたながりれい)を発し、農民から武器を没収した。検地と刀狩は武士と農民との区分を明確にし、
農民を被支配身分として固定させる政策であった。秀吉はさらに、1591年京都に地子(じし)(田畑・屋敷に対する賦課)
を免許する法令を出し、公家(くげ)・寺社など中世的な領主の地子徴収権を否定して、幾重にもなっていた土地所有関係
を改め、都市における封建的土地所有権の確立を目ざした。そして同年、身分統制令を発布して、
侍(さむらい)・中間(ちゅうげん)・小者(こもの)が農民・町人になったり、農民が商人・職人になるといった、
身分の転換を禁止した。このようにして武士と農民・町人の身分の固定化が図られたのである。さらに98年(慶長3)には、
大名は転封の際、家臣をすべて新領に従えていかなければならないとし、検地帳に記載されている農民を連れていっては
ならないとする布令が秀吉の名で出された。
0114名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:47:23.12ID:BRYs86eA0
■アジャ・リンポチェ被災地へ

 2011年3月11日、東北地方を未曾有の大災害が襲った。アジャ・リンポチェは、この災害に大変、心を悼めた。

2008年秋、多くの在日モンゴル人や、その支持者らからの招聘でアジャ・リンポチェは日本を訪れたが、その折に、東北地方にも立ち寄っていたのも一つの理由だろう。

 2011年6月4日仙台市にある松音寺という寺で、アジャ・リンポチェを招き、震災犠牲者慰霊のための法要が行われた。
法要のあと、アジャ・リンポチェは一体の仏像を松音寺に安置した。

それは、チベットで多くの信仰を集めるターラー菩薩、観音様が流した涙から蓮が生え、その花の中から生まれたとされる菩薩の像だった。

アジャ・リンポチェが亡命する時に、僧院長を務めていたクンブム僧院から、この仏像だけは手放せないと持ってきた品物だった。

 アジャ・リンポチェは「私はこのターラ菩薩に今まで何度も苦しい時や困難な時を助けて頂いた。

今度はこの度の大震災によって苦しんでいる被災者の方々を救って頂く為、被災地であるここ宮城にお持ちして縁のある松音寺に安置することにした」と語ったそうだ。
0115名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:48:08.87ID:LR+w1t3N0
>>800 >>801 >>802 >>803 >>804 >>805 >>806

日本人が身分という単語で想起するのはカースト、奴隷、律令制となるが、身分はこうした狭義の例に限られるようなものではないし
カーストもイメージと異なり階層移動が例外的に認められることがあり、現代の成文法で考えるような法律として厳密なものでなく宗教的(江戸時代の場合は藤原惺窩、林羅山の朝鮮朱子学)なものだった

身分制度が無いとする側がミスリードをする際に多用するのは、身分制度がなければ身分はないという主張だが、その定義だとカーストも身分制度と言えるか微妙であり
さらに身分の定義は遥かに広く使われているため、上司と部下、主君と家臣、官位、社会的地位は身分制度と言えるが、人間が平等に生まれ、平等な権利を持ち、
その権利や自由を侵すことができないという宗教上の通念がない日本では、身分制度が常識的すぎて、マルクス唯物論史観の言う主人と奴隷の二元論的主客関係以外は身分制度ではないと誤った認識を持つ傾向がある

身分
身分(みぶん)とは、広義には特定の社会または集団において他の人が占めている他の地位との関連で捉えられる
同一社会または同一集団の内部で位置づけられるその人の地位[1]。

職分による身分、地位から来る身分、科挙から来る身分、社会的・経済的ステータス、性別による身分、年齢から来る身分は成文法的な制度ではないが、
ソフトな社会慣習法・不文律による身分制度と言える。成文法によるなら身分による慣習は立法によって廃止するまでは違法性が認識されない
そのため社会の隅々まで行き渡っている身分社会慣習は慣習法・不文法として認知されており禁止が明文化されていないのであれば身分制度と呼称する根拠は十分にある

特定のグループだけが不都合、不便、不快、不利益な思いをしても、それが法律的に否定されるまでは慣習が存在したことになるため、外部的に身分制度または身分が存在したと見なされることは十分にありえる

例えば平安貴族が暴行・強姦をしたとしても軽罰ですむとする。それが法律としてそれが合法であると名文化されているわけではない
平安貴族が平民に対して犯罪行為をして軽い謹慎程度の処分ですむとしたら、社会慣習上の身分制度があったと外部は見なすだろう

身分制度に関する外部からの主張に裏づけがあるのであればその主張を否定するのは困難となるだけでなく、内部からその指摘を認識するのは一層困難なものとなる

儒教圏の身分は重層的であるため、実数は10どころか100、1,000とあっても不思議はないため、日本人のイメージするカースト的な4つに分けた
身分の概念を聞いても違和感が先行するわけだ。そんな4つの分類しかない人工的な身分は存在するわけが無いというのが大半の反応となる
儒教に浸かってしまうと、重層的身分構造は呼吸をするぐらい自然なため、身分制度・身分差別を意識することはないから身分制度という表現に反発しているわけだが実体として身分はある

外部から見れば奇異な因習に見えても内部から認識する難易度は高いため、身分制度という表現を嫌うものが増えたわけだ
0116名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/24(日) 16:48:24.65ID:/2oPQVpI0
>>104
昭和の方がええな
0117名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/24(日) 16:48:28.52ID:LR+w1t3N0
>>920 >>921 >>922 >>923 >>924 >>925 >>926

人間が平等に生まれ、平等な権利を持ち、 その権利や自由、(身分や地位、性別、年齢、血筋で蔑視するなどして)尊厳を侵す(身分からの自由の概念と密接に関係)
ことができないという宗教上の通念がない日本では社会的地位、社会階級(上流、中流、下流)、出生地、血筋、資産、性別、年齢、学歴、肩書は重層的な身分構造を決定する資源と言える
儒教圏では資源を他より少なく持つものは社会的に蔑視されやすくなる傾向がある
0118名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/24(日) 16:48:47.25ID:picgtc0q0
バカがコピペばかり貼っている
誰も読まないのに
0119名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/24(日) 16:48:49.91ID:Zj6NE9k90
空気読んで早く死ねばいいのに。
0120名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/24(日) 16:48:55.79ID:BRYs86eA0
【国際】天皇陛下とタイ・プミポン国王の深い絆
 2人が尽力した養殖魚ティラピアがタイ国民の食生活支える

13日に死去が伝えられたタイのプミポン国王とは、天皇、皇后両陛下をはじめ皇族方が50年以上にわたり、家族ぐるみの親交を重ねられてきた。

陛下と国王のご交流がきっかけで養殖が始まったティラピアは今や、タイ国民の食生活を支えている。両陛下が皇太子同妃時代の昭和39年にタイを訪れた際、国王からタイの気候に合う養殖魚がないかと相談を受けられた。

陛下はアフリカ原産で繁殖力が強いティラピアの存在を伝え、帰国後に東宮御所で養殖したティラピア50匹を国王に贈られた。

国王は王宮の池で養殖を重ね、その後、国内各地の貯水池やダムに放流され、食用として広まったという。

平成3年、陛下が皇后さまとともに即位後初の海外訪問先に選ばれたのは、タイだった。 国王主催の晩餐会でもてなされたほか、陛下お一人でティラピアを養殖する農業開発研究センターを視察されている。

今年4月の熊本地震の後には、国王から「王妃と私は、地震で人命が失われ、負傷者も出たことを悲しんでいる」とする陛下宛ての書簡が届けられたという。

皇太子ご夫妻も6年、同国に国王を表敬訪問し、王室主催の夕食会に出席したほか、24年には皇太子さまが再びタイを訪れ、国王と会見されている。
0121名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/24(日) 16:48:55.88ID:LR+w1t3N0
>>115 >>960 >>961 >>962 >>963 >>964 >>965

ヒンドゥー教のカーストは宗教上は変えられないとされるが、実際に変更できた事例はあるらしく儒教の士農工商(議論)に類似する点が多くある

カーストが破れる例は2つある

- 現代の法律上はカーストのアップグレードは可能(ダウングレードは被差別階層の優遇措置があるため不可)
- ブラフミンやクシャトリヤが認めればアップグレード可能

江戸時代のハードコアな儒教原理主義者とヒンドゥー教原理主義者は職分や身分は宗教的なもののため、変更には断固反対するだろうが、古今身分制度とされる制度で例外はしばしばある

儒教の士農工商の枠組みにおいて例外的に裕福で影響力のある町民や百姓が下級武士・郷士になることがあったとしても、競争によらない血統・コネで
出世する事例が圧倒的過半数であり、実力があれば下級武士になれるから身分制度でないというのは単線思考に良くある誤った認識だ

https://www.quora.com/In-India-can-a-person-change-their-caste-If-so-how-does-one-do-this
Parama Devi, Founder and Director at Jagannatha Vallabha Vedic Research Center
Answered Sep 28, 2018 · Author has 2.4k answers and 306.8k answer views
There are 2 aspects of the issue.

One is the legal aspect. Under the present legislation, it is possible to change one’s caste upwards and not downwards because
that would mean cheating for the purpose of obtaining the special privileges (called “reservation”) that the government gives to
the lower castes, specifically SC (scheduled castes), ST (scheduled tribes) and OBC (other backward castes).

So you can simply write an affidavit with some witness and get it certified by a notary, and at the next census you show the affidavit to the questioner.
However, hardly anyone does that because there is no legal benefit in belonging to a “higher caste”, so you do not need a “caste certificate”.

The second aspect is SOCIAL, generally described as “religious” but the definition is not really fitting, because the caste system has NO BASIS in the actual original genuine Hindu society.
The actual original genuine system is called VARNA, not “caste”.

However, ignorant or ill-motivated “religious Hindus” keep confusing the 2 concepts to perpetuate their disastrous BIRTH PREJUDICE,
that all Hindu scriptures condemn as the very root of all ignorance.
Historically, there are innumerable examples of people who “changed their varna” simply through recognition awarded by a single
brahmana/ guru, or by the local assembly of brahmanas, or by the local king.
0124名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:49:18.73ID:fVid6bWL0
なんでコピペばっかやの・・・

天皇陛下の御言葉の最中に
皇后陛下が手を差し伸べられた瞬間が
本当に微笑ましく、 万歳三唱で心晴れやかになり、 退場なされる時には笑顔で手をお振りになり
素晴らしい式典だった。
話まとめると泣けたわ。
0125名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:49:43.76ID:SGKYy4Y/0
原稿3枚のうちの2枚しか持っていなくって
2枚読み終えたらまた元の一枚に戻ってしまって
「どゆこと?」と思った
美智子様がそれを制御
サンマリノの大使は初めから緊張しっぱなしだったし
天皇陛下は途中で居眠り的な動きがあったし

上級国民の方は上級国民の方でいろいろ大変そうだった
マイクにスイッチ入ってるかとか
金屏風に対して机?がちょっと中央からずれてるとか
何で百合の花の花粉取っちゃってるのとか
いろいろ気になってちょっと疲れた

テレビの前で直立不動で国家歌ったし
お言葉も聴いた
涙出た

安倍さんありがとうございました
0127名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:50:06.72ID:BRYs86eA0
■平成3年

多摩全生園を訪ふ

めしひつつ住む人多きこの園に風運びこよ木の香(か)花の香

全生園はハンセン病患者の療養所。末梢神経が冒されるため、盲目の患者が多いという。そういう人たちのため、風よ、木や花の香りを運んできてくれ、と歌う。

美智子様は、孤児院など養護施設への訪問時の歌も多い。
0128名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:50:23.48ID:cuclP7aC0
新種の荒らしは必死だね。

( ´,_ゝ`)
0129名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:50:29.49ID:BRYs86eA0
皇后美智子様

■昭和58年

蜩(ひぐらし)

かかる宵(よい)われは好むという吾娘(わこ)のまみ優しみて蜩(ひぐらし)をきく

まみ・・・目もと

宵とか夕べという言葉は、現代ではほとんど死語になってしまった。かつては一日の仕事の終わったあとの休息の時間、夜の迫るのを何とはなしに待つ時間であったろう。

そんな寛いだ時間に、母娘が蝉の音を聞きながら心を通わせている、そういう情景を描いた歌。吾娘とは勿論清子内親王。

おそらくは夏の終わり、暑い日差しの過ぎ去ろうという時期の歌。季節的にも時間的にも、好きだと確かに言える時間であろう。
0130名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:50:53.38ID:LR+w1t3N0
>>115 >>121

ヒンドゥー教のカーストは日本には以下のように当てはめることができるが
カーストの種類は3,000に分割でき、さらに細かく25,000に分類することも可能らしい。前述の通りクシャトリヤや宗教指導者が認めれば職分のアップグレードの事例もある

ブラフミン:祖霊信仰を核とした皇族・公家(神別氏族)、宗教指導者(聖人の子孫達、例:親鸞の子孫)、清和源氏・桓武平氏等の日本型宗族の門閥・閨閥
クシャトリヤ:武士
ヴァイシャ:裕福な地主・商人・金貸し(後世に農業はシュードラに譲り商業)
シュードラ:百姓、町民、一般人・平民
不可触民:エタ・非人、奴婢等

ヴァイシャは当初は農業も含んだが後に農業階級を指さなくなるため、シュードラは士農工商の町人・百姓の両方を兼ねるが、後に富裕層に変わったヴァイシャが君臨する

つまりカーストや士農工商は宗教から来る慣習法的な社会制度であり、現代人の考える成文法的身分制度ではなく宗教をルーツにする。儒教・神道(神儒一致思想)の祖霊信仰から来る士農工商とインドのヒンドゥー教原理主義カーストの共通点は、
権力者が立法によって勝手に決めたものでなく、聖典(ヒンドゥーや朱熹・孔子)の聖性を支配者が利用して権力維持や社会安定の礎としたことにある(階層の自由な移動を禁じた身分統制令を発した豊臣秀吉政権も藤原惺窩を重用している)

Hindu religious texts assigned Vaishyas to traditional roles in agriculture and cattle-rearing, but over time they came to be
landowners, traders and money-lenders.[1]

重要な税収源である農耕民が逃げないよう明文または慣習的に規制をはるのは、世界中どこもでも見られるが、アブラハム系宗教の改革から取り残されたインド、東アジア(日中朝)を除いてそうした慣習は形を変えながら廃されず温存された

戦国時代の経験から江戸時代や秀吉(身分統制令)の時代には一定の合理性が見られたが、現代では儒教・神道(神儒一致思想)の祖霊信仰から来る士農工商のベース
となる儒教・朱子学の知識が劣化・形骸化・因習化したこと、江戸時代にかけておきた神儒一致思想は皇室、公家、武家に限定して流行したことで、
庶民側からすれば百姓への締め付け制度ぐらいの効果に限られ、士農工商でなく、士農制度と呼ぶべき状態だったと考えることができる

https://kotobank.jp/word/走百姓-114322
江戸時代,貢租の重圧,役人の不正に反抗し,凶作時の租税の減免を求めて,移住の禁を犯し,居村から逃亡して他領に逃げる農民。逃散 (ちょうさん) が計画的な集団的行動であるのに
対し,個別的なものである。走百姓の持高については,領主に対し村が惣作の形で責任を負い,領主は彼らの還住 (げんじゅう) を促す政策をとった。
0131名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:51:32.89ID:BRYs86eA0
■号の由来
孫文は日本亡命時代には東京府の日比谷公園付近に住んでいた時期があった。

公園の界隈に「中山」という邸宅があったが、孫文はその門の表札の字が気に入り、自身を孫中山と号すようになった。

日本滞在中は「中山 樵(なかやま きこり)」を名乗っていた。なお、その邸宅の主は貴族院議員の中山孝麿侯爵で、孝麿の叔母中山慶子(中山一位局)は明治天皇生母である。

中華民国の国立中山大学および中華人民共和国を代表する大学のひとつである中山大学、南極大陸の中山基地、

そして現在台湾や中国にある「中山公園」、「中山路」など「中山」がつく路名や地名は孫文の号・孫中山からの命名である。
0132名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:51:56.55ID:BRYs86eA0
■人民服(じんみんふく、中国語: 中山装)とは、上下揃いの上着の一種。かつての中華人民共和国では、制服や標準服とも言うべき物であった


この服装の原形は、孫文(孫中山)が日本留学中に日本の学生服や日本陸軍の軍服をモデルにデザインした中山服であるとする説があるが、実際には孫文の軍事顧問だった日本陸軍軍人佐々木到一が考案したものである。

中山服は中華民国で男子正装として用いられ、戦後の台湾にも引き継がれたが、1950年代末頃には蒋介石ら一部の首脳を除いて背広にとってかわられた。

一方、中国大陸(中華人民共和国)では、1980年代初めまで成人男性の全てが人民服を着用しており、女性にも多く着られていたが、ケ小平による改革開放路線が定着して以降は、ケ小平自身は引退まで人民服を着用したが、

胡耀邦ら新しい世代からは政治家も背広を一般的に着用している。現在ではほとんど過去のものとなっており、現在の中国で人民服を手に入れることは難しいといわれる。

礼装としてホワイト・タイ扱いされる主に絹製で濃紺か黒の物が「中山装」、主に木綿製で緑系の労働着タイプが「人民服」という形で中華人民共和国では分けて考える事が多く、

「中山装」の方は今も北京や上海の百貨店等で入手可能であるが、「人民服」はすっかり廃れてしまっている。

また、上下で色の揃っていない「青年装」という物も一時存在した。灰色の物も存在し、これはニクソン大統領の中国訪問でも知られるように、毛沢東が緑系の人民服とともによく着用し、

天安門に掲げられている毛沢東の肖像画の物も灰色となっている。

1992年(平成4年)に中国共産党中央委員会総書記の江沢民が日本を訪問した際に天皇主催の宮中晩餐会において黒い人民服を着用して出席したことがあった。
0133名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:52:00.56ID:sj4OIbCt0
天皇ってワードを見つけると自動で荒らすbotかな
0134名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:52:02.62ID:USUzHNw/0
銀座が物々しい雰囲気だったのはこの警護のためか
0135名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:52:09.90ID:LR+w1t3N0
>>456 >>450 >>451 >>452 >>453 >>454 >>455

過去には神の子孫である神別氏族物部氏が殺され、その子が奴婢とされた事例がある

https: //ja.wikipedia.org/wiki/奴婢
また蘇我氏物部氏の争いの時も聖徳太子が大連の首を切ってその子孫を四天王寺の寺奴婢[注釈 2]としたという記述がある。
0136名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:52:31.56ID:LR+w1t3N0
>>460 >>461 >>462 >>463 >>464 >>465 >>466

syuji_nakamura@syujinakamura1
2月2日
愚かですね。
日本に奴隷なんていくらでもいましたよ。
魏志倭人伝にも、卑弥呼と台与が奴隷(生口)を献じたとの記述があるし、律令制では奴婢が売買の対象になっていた。
戦国時代にも「乱妨取り」という略奪や人狩りが普通に行われていて、奴隷や性奴隷が売買されていた。

アプロ@rUyaCVtIiRxgC9M
2月3日
日本人の名誉のために再度補足しますと、「律令制以降、奴隷・人身売買が禁止された」のは事実です。
しかし、建前では禁止されても現実には行われていましたし、1231年には鎌倉幕府が奴隷制を容認する布告を出し、
後成敗式目にも反映されています。
0137名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:52:45.50ID:LR+w1t3N0
>>470 >>471 >>472 >>473 >>474 >>475 >>476

「知床日誌」文久3年(1863)出版
http://www.lib.nara-wu.ac.jp/nwugdb/k024/html/p028.html

見る影もなく破れて只肩に懸る斗のアツシを着如何にも菜色をなしける
病人等杖に助りセカチ男子 カナチ女子等大勢其汐干にあさりけるか我等を見て皆
寄来りし故其訳を聞に舎利アハシリ両所にては女は最早十六七にもなり夫
を持へき時に至れはクナシリ島へ遣られ諸国より入来る漁者船方の
為に身を自由に取扱ハれ男子は娶る比に成は遣られて昼夜の差別
なく責遣ハれ其年盛を百里外の離島にて過す事故終に生涯無妻にて
暮す者多く男女共に種々の病にて身を生れ附ぬ病者となりては働稼の
なる間は五年十年の間も故郷に帰る事成難く又夫婦にて彼地へ
遣らるゝ時ハ其夫は遠き漁場へ遣し妻は会所また番屋等へ置て
番人稼人皆和人也の慰ミ者としられ何時迄も隔置れそれをいなめは

辛き目に逢ふか故只泣々日を送る事也如此無道の遣ひ方に逢ふか
故に人別も寛政中ハ弐千餘文政五壬午改三百十六軒千三百弐十六人安政五戊午改百七十三軒七百十三人 有しか
今は漸々半に成しそうたてけり此儘にては今廿年も過れは土人の種も
如何と案しける由等話其故爰には丈夫の者なき故猟漁等出来難く
其日其日の烟も立難きか故毎日此汐の干を待ては小貝を拾ひ汐満来れハ
野山ニ入て草の根等堀て辛き命を繋く事とそ聞に其憐さまし
けれは我等か貯への糧米を聊かつゝ分ち與へ来るやタンネウシ沙地
此所長き沙地なれは号く過てバナ人家十五軒の岬を廻りて川に入るに巾三十余間し
はしにて舎利運上屋へそ着し一同鎮守杜に至りエナヲ削りて山海の神
を祭り途中の安を賀し車座に一樽を開き詰合宮崎氏へ濱にて
0138名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:52:50.44ID:mwOrrEoW0
中学生の時には天皇制反対だった俺が無事右翼になってしまったぞ
韓国テメーのせいだからな
0140名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:53:03.64ID:LR+w1t3N0
>>137 >>461 >>462 >>463 >>464 >>465 >>466

https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1388281079/

346世界@名無史さん2018/05/11(金) 09:52:09.760
「知床日誌」 松浦武四郎

幕末の探検家・松浦武四郎の手記によると、アイヌ女性は年頃になるとクナシリに遣られ、そこで和人達の慰み物になり、
人妻は会所で番人達の妾にされたと書かれている。夫は漁場で酷使され、妻は番屋で慰み女とされ、子供が出来た場合、和人達はそれを突き殺し、押し殺す。

日本へ反発できなくなった大きな理由に人口減少がありますが、
その大きな原因は、女達が日本人の慰み者にされたこと、性病を含む伝染病を移されたこと、生活基盤を失わされたこと、などがあげられます。

松浦武四郎によると、夫婦は仲を引き裂かれ、男だけクナシリ送りとなり、そこで昼夜の別なく奴隷労働に使役され、
斜里、網走では、女は年頃(16・7)になるとクナシリ(この当時、現地のアイヌは酷使によって全滅していた)に連行されて、
諸国からきている和人に体を弄ばれる。男も年頃になると連行され、働ける間は遠い土地で酷使され、故郷に帰ることが許されるころには既に老人となっており子供を残すことができなくなった。

和人によって妊娠させられた妻は、唐辛子汁を飲ませる等で堕胎させられることにより、
子供を残せない体にされた。さらに和人に性病を移されることなども手伝い、クナシリ・メナシ地方のアイヌ人口は激減した。

松浦によると無理やり妾にされた挙げ句に性病をうつされ、顔が崩れて悪臭を放っているアイヌが山にたくさん居たとある。
0141名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:53:28.51ID:LR+w1t3N0
>>470 >>471 >>472 >>473 >>474 >>475 >>476

海外と比較すると日本人は大量虐殺者と大量虐殺を賛美する傾向が相対的に強い

法華一揆の虐殺
長島一揆の虐殺(騙し討ち、なで斬り、21,000人以上とされるが総数は100,000人と見られるため実数がないほどの死者)
越前一向一揆(12,500人を殺害し3万人から4万人を奴隷とする)
東北一揆の虐殺(なで斬り)
叡山焼き討ち(3,000-4,000人、なで斬り)
山科本願寺の殲滅戦
天草島原の乱(37,000人)
天正伊賀の乱(伊賀全体では9万の人口の内非戦闘員含む3万余が殺害された)

宗教系の弾圧には他の宗派が一枚かんでいることが多く、結局のところ1つの宗派が潰れても
他の宗派の勢力が強くなるという歴史を繰り返して来た
これは宗教勢力を敵に回し続けて生き残るのは難しいためでもある

かつて弾圧・虐殺された本願寺や日蓮宗が権力の中枢にいることからも宗教勢力は日本の政治や文化の深く
重層的に染み込んでいる

九戸政実の乱の皆殺し(騙し討ち、5,000人の兵と家族・周辺住民等)
武田信玄の信濃志賀城攻略時の生首3,000
徳川家康による堀川城の虐殺(2,000人近くの生首を堤にさらす)
伊達政宗による小手森城の虐殺(800人)
(秀吉が「なで斬り」を命じた肥後国人一揆等もあるが、死者数は把握していない)

この他にも無数の(事件化されず埋もれた)政治弾圧事件や虐殺事件があるが、特に批判対象とされることはない

これらの虐殺者は秩序の守護者として賛美されており、敵対勢力を皆殺しにする慣行は擁護者が多い

https://ja.wikipedia.org/wiki/虐殺事件の一覧

日本を凌駕する虐殺事件というと中国とオスマントルコであり、一回の虐殺数は数十万人を超える
(南京は数値に信頼性がなくなっており、マニラ虐殺は日米入り乱れた凄惨な市街戦のため別枠として除く)
0142名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:53:37.88ID:BRYs86eA0
■敬宮 愛子内親王(としのみや あいこないしんのう)

続柄 皇太子徳仁親王第一女子(今上天皇の孫)
称号 敬宮(としのみや)
身位 内親王
出生 2001年(平成13年)12月1日(13歳)
お印 ゴヨウツツジ(五葉つつじ)

皇太子ご夫妻の好きな花で「純白の花のような純真な心を持った子どもに育って欲しい」という願いを込めめ愛子さまのお印を決められたということです。

父親 皇太子徳仁親王
母親 皇太子妃雅子

愛子と命名、敬宮の称号を授けたのは天皇陛下で、名と称号の由来は『孟子』離婁章句下の「仁者は人を愛し、礼ある者は人を敬ふ。
人を愛する者は人恒に之を愛し、人を敬ふ者は人恒に之を敬ふ」からだということです。

愛子さまは5歳の頃から相撲が大好きで力士の四股名以外にも下の名前や出身地も覚えていて、皇太子さまと一緒に
初場所をテレビ観戦している時に愛子さまは何も説明されていない力士の地位について、詳しく皇太子さまに話をしたということです。

しかも、当時愛知万博を訪問する皇太子さまが「愛知県に行く」と愛子さまは愛知県出身の力士の名前を答えたそうです。そんな愛子さまに「とてもかなわない」と皇太子さまが舌を巻くほどであったということです。

また、初めて両国国技館に両親と秋場所を観戦した際に「夢じゃなかったのかしら」と5歳の愛子さまが仰ったということですが、
5歳の女の子だったらディズニーランドのような夢の国を喜ぶのが普通ですが、愛子さまはよほど相撲が好きなのだなと思いました。
0143名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:54:10.23ID:LR+w1t3N0
>>280 >>281 >>282 >>283 >>284 >>285 >>286

殺人数、餓死数を含めると無神論共産主義と国家社会主義(ナチスは多神教)に匹敵する虐殺カルトは思いつかない

ローマ皇帝アドリアンだけでもユダヤ人58万を殺害している
ティトゥスもユダヤ戦争で110万人を殺害
揚州大虐殺、四川人殲滅殺戮あたりでは、それぞれ100万人近くが殺されたとする
ハミディイェ虐殺でもトルコによってアルメニア人10〜30万人が殺戮された

モンゴルの侵略の結果死亡した死者数は最大で4000万人(実際は2000万人ぐらいだろうが)とも言われている
さらに言えば残虐行為で知られる清国の侵略戦争の結果死んだ数は2000万人ともされる
ティムールも虐殺を繰り返したので、死者数は前者に匹敵するだろう
0145名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:54:32.10ID:onOktHTO0
魏志倭人伝w
偽書だろってのが主流になりつつあるのに

そもそも、ヒミコ神社も、九州だかに、観光のため後で作ったようなもの
バカらしいコピペ野郎。
0146名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:54:33.04ID:LR+w1t3N0
>>651 >>652 >>653 >>654 >>655 >>656 >>657

https ://ja.wikipedia.org/wiki/嘉禄の法難
嘉禄の法難(かろくのほうなん)は、法然死後に、天台宗の延暦寺衆徒が浄土宗と専修念仏を弾圧した事件。

https ://ja.wikipedia.org/wiki/法華一揆
僧兵と宗徒、近江の大名・六角定頼の援軍が加わって、延暦寺は総計約6万人を動員して京都市中に押し寄せ、日蓮宗二十一本山をことごとく焼き払い、法華衆の3000人とも1万人ともいわれる[要出典]人々を殺害した(天文法難)。

さらに延暦寺の勢力が放った火は大火を招き、京都は下京の全域、および上京の3分の1ほどを焼失。兵火による被害規模は応仁の乱を
上回るものであった[1]。

こうして隆盛を誇った京都の法華衆は壊滅し、法華衆徒は洛外に追放された。以後6年間、京都においては日蓮宗は禁教となった。

https ://ja.wikipedia.org/wiki/山科本願寺の戦い
山科本願寺の戦い(やましなほんがんじのたたかい)は、天文元年(1532年)8月23日 - 24日にかけて行われた細川晴元・六角定頼・京都の法華一揆の連合軍と浄土真宗本願寺勢力(一向一揆)との戦い。山科本願寺合戦(やましなほんがんじかっせん)ともいう。

このように四方を取り込むようにして完全に包囲した。この時の攻城軍は3万とも4万とも言われている。戦いは8月24日早朝より開始された。
午前10時ぐらいに諸口より攻城軍が乱入し、寺町周辺を放火して回り大勢が決した。山科本願寺は社坊ひとつ残さず灰になって落城した。

https ://ja.wikipedia.org/wiki/享禄・天文の乱
享禄・天文の乱(きょうろく・てんぶんのらん)は、戦国時代初期の浄土真宗本願寺宗門における教団改革を巡る内紛と、これに触発さ
れて発生した対外戦争の総称。

享禄4年(1531年)の享禄の錯乱(きょうろくのさくらん)または大小一揆(だいしょういっき)と呼ばれる内紛
天文元年(1532年)から同4年(1535年)の細川氏・畠山氏などとの戦いである天文の錯乱(てんぶんのさくらん)または天文の乱(てんぶんのらん)の上記2つからなる。
0147名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:54:50.40ID:LR+w1t3N0
>>660 >>661 >>662 >>663 >>664 >>665 >>666

日本では(林羅山と林家を重用した)朝鮮朱子学カルトを採用した徳川幕府(朝鮮朱子学は豊臣秀吉から受け継ぐ)によって明治維新まで士農工商や
差別階級を持つ身分差別主義が蔓延っていたが英国では早い段階で平民レベルでの自由化が行われていた

>ヨーロッパ中世の荘園では農奴がいなければ貴族は干上がった
>まさに今の日本はそうなりつつある
>必要なのは農奴

荘園制度はローマ法に遡るためキリスト教以前から存在する
英国ではserfdomはワット・タイラーの反乱(1381年)によって大方廃止され14世紀には無効
プロテスタントのエリザベス1世時代(1574年)に廃止(実定上は1500年まで)

フランスのノルマンディー(ノルマン征服をした地域)では11世紀に廃止。フランスでは1315年に廃止
ドイツでは教会領地が自由都市となっていく現象があったため、各都市によって異なる。ドイツで荘園制度が法律によって明確に禁止となったのは18世紀まで待たねばならない

https ://en.wikipedia.org/wiki/History_of_serfdom
In Western Europe serfdom became progressively less common through the Middle Ages, particularly after the Black Death
reduced the rural population and increased the bargaining power of workers. Furthermore, the lords of many manors were
willing (for payment) to manumit ("release") their serfs.

In Normandy, serfdom had disappeared by 1100.[4] Two possible causes of the disappearance of serfdom in Normandy have
been proposed: (1) it might have been implemented to attract peasants to a Normandy depopulated by the Viking invasions
or (2) it might be a result of the peasants' revolt of 996 in Normandy.

In England, the end of serfdom began with the Peasants' Revolt in 1381. It had largely died out in England by 1500 as a personal
status and was fully ended when Elizabeth I freed the last remaining serfs in 1574.[5] Land held by serf tenure (unless enfranchised)
continued to be held by what was thenceforth known as a copyhold tenancy, which was not completely abolished until 1925
(although it was whittled away during the 19th and early 20th centuries). There were native-born Scottish serfs until 1799, when
coal miners who were kept in serfdom gained emancipation. However, most Scottish serfs had already been freed.

Serfdom was de facto ended in France by Philip IV, Louis X (1315), and Philip V (1318).[5][6] With the exception of a few
isolated cases, serfdom had ceased to exist in France by the 15th century.
0148名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:54:51.73ID:BRYs86eA0
■お印(おしるし)は、日本の皇族が身の回りの品などに用いる徽章・シンボルマーク。御印章とも


起源は、一般的には江戸時代後期、光格天皇の子供らが用いたものとされているが、宮内庁書陵部によると「内々のしきたりで記録にも残されない。正直言って詳しいことは分からない」とのことである。明治時代以降宮廷内で広く用いられるようになった。

皇室典範など法令上の明確な規定はなく、慣例として行われてきた制度である。皇族に仕える者たちが、皇族の名前や称号を書くことは恐れ多いと考えお印を使うようになったともいわれる。もともとは女性の間で始まったという説もある


明治天皇:永(文字)
昭憲皇太后:若葉
大正天皇:壽(文字)
貞明皇后:藤
昭和天皇:若竹
香淳皇后:桃
今上天皇:榮(文字)
皇后:白樺


東宮家
皇太子徳仁親王:梓
皇太子徳仁親王妃雅子:ハマナス
愛子内親王:ゴヨウツツジ

秋篠宮家
秋篠宮文仁親王:栂
文仁親王妃紀子:檜扇菖蒲
眞子内親王:木香茨
佳子内親王:ゆうな
悠仁親王:高野槇
0149名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:54:52.17ID:h+ayBLVt0
天皇陛下大失態、皇后がフォローして事なきを得る
微笑ましいシーン、本人もポンコツを自覚して
隠居する気になった
引き際は見事だな。
0150名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:55:01.68ID:LR+w1t3N0
>>670 >>671 >>672 >>673 >>674 >>675 >>676

ドイツはイギリスと同時期に改革をはじめたが、(領主のいない)地方分権型政治システムを推進した

カロリング朝(カロリンジアン帝国)の始祖はカール大帝(またはドイツ人貴族のシャルル・マーテル、カール・マルテル等)だ

リューベック法(1188年)
マクデブルク法(10世紀)
クルム法(1233年)

神聖ローマ皇帝オットー(一世)が定めたStadtrechtは都市に自治、地方議会(選挙ではなく議員からの選定)、徴税権をもつ都市政府を誕生させた

教会領などから独立した自由都市も発達した

(平民も含めた選挙でローマ皇帝に選ばることにこだわり、華美を嫌い僧侶のような質素な生活をしていたとされる)カール大帝が
アウグスティヌスの神の国を気に入っており、都市のキリスト教化を目指していたことは良く知られている

https ://en.wikipedia.org/wiki/Charlemagne
Einhard tells in his twenty-fourth chapter:

The subjects of the readings were the stories and deeds of olden time: he was fond,
too, of St. Augustine's books, and especially of the one entitled "The City of God".[119]
0151名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:55:09.09ID:StfjrrOZ0
>>4
儒教の文化は日本には合わない!
特に朝鮮半島の儒教と
中国の儒教と
日本の民間人達の道徳や倫理というものは
全く違うものなのかな?
0152名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:55:36.16ID:LR+w1t3N0
>>680 >>681 >>682 >>683 >>684 >>685 >>686

https://ja.wikipedia.org/wiki/都市権 (オランダ)

自由
個人の自由:都市以外の住民と比べて(相対的に)、主君から干渉されず、移動の自由が保証される

自治
自治権:一部の善良な市民は、都市の官僚として取り立てられた
司法及び立法権:市域内において広範な自主立法及び司法権の行使が認められた
課税権

アーネム 1233年
アムステルダム 1306年
ブレダ 1200年頃
エンスヘーデ 1325年
アイントホーフェン 1232年
フローニンゲン 11世紀
レーワルデン 1285年
マーストリヒト 1204年
ナイメーヘン 1230年
ロッテルダム 1340年
スヘルトーヘンボス 1195年
ティルブルフ 1809年
ユトレヒト 1122年
0153名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:55:50.59ID:LR+w1t3N0
>>152

https://ja.wikipedia.org/wiki/シルウェステル2世 (ローマ教皇)

シルウェステル2世(Silvester II, 950年? - 1003年5月12日)は、フランス人初のローマ教皇(在位:999年 - 1003年)。
本名オーリヤックのジェルベール(仏:Gerbert d'Aurillac)、ラテン語名ゲルベルトゥス(Gerbertus)。千年紀をま
たいだ教皇であり、数学者・天文学者として10世紀の西欧世界において傑出した人物である。

アラビア学問との邂逅
12世紀ルネサンスに先んじて、10世紀にアラビア学問に直接的ないし間接的に触れた西欧人はごく少数であった。
シルウェステル2世は自由七科のうちの四科、こと算術や天文に長け、それらはアラビア世界に伝わっていた古代ギリシア・ローマ
の知識や、アラビア世界で発展された知識に基づいていた。

教える者として
教育者としてもシルウェステル2世は傑出していた。教育方法は理論のみならず実践を重視し、算術ないし幾何学ではアバクス
を、天文では天球儀を用いた。音楽では一弦琴を利用して音階と和音の数学的観察を行った。修辞学では議論を戦わせ、また
図式を用いて解説していた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/12世紀ルネサンス

学問の隆盛
アベラール(1079年-1142年)の弁証論(唯名論)がスコラ学の基礎を作り、のちトマス・アクィナス(1224年頃-1274年)により大成された。
大学が各地に作られた(11世紀末のボローニャ大学、12世紀のパリ大学、オックスフォード大学)。
シャルトル大聖堂の附属学校では古代の自由学芸(リベラル・アーツ artes liberale 文法、論理学、修辞学、算術、幾何、天文、音楽の7科目)
を基盤に、プラトンの思想と聖書の思想を統合しようとした(「シャルトル学派」といわれる)。
0154名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:55:56.37ID:BRYs86eA0
■天皇陛下と高見山

入門当初から師匠の高砂親方(前田山)をボスと呼んでいた。
前田山の死後は高砂を継いだ兄弟子の朝潮(3代目)をボスと呼んだ。


1977年9月場所9日目には、支度部屋で「明日は横綱(北の湖)戦ですね」と記者に聞かれると高見山「明日は蹴手繰りね」とふざけてみせ、

北の湖も負けじと「じゃあ、オレも蹴手繰りでもやろうかなあ」と冗談を飛ばす。

翌日高見山は本当に蹴手繰りにいってしまった(勝負は北の湖が掬い投げで制した)。

高見山が現役引退を表明した頃、日本相撲協会を管轄していた森喜朗文部大臣(当時)が、昭和天皇より「見山がなぜ辞めたのかね」「見山は残念だったろうな」との下問を受けた。

そのことを後に森が見山に伝えると「もったいないです、もったいないです」と涙を流したという。
0155名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:56:12.21ID:LR+w1t3N0
>>152

https:/ /kotobank.jp/word/走百姓-114322
世界大百科事典内の走百姓の言及
【欠落】より
…【藤木 久志】 近世に入っても,小百姓や隷属的な農民が,逃散に至らぬ小規模な抵抗の形態として村外,領外に逃亡することがしばしば行われた。
初期の領主禁令では,このような欠落人を,多く走(はしり)百姓,走りものなどと称し,厳しい処分規定を設けている。欠落の類語に,家出,出奔,
立退(たちのき),風与出(ふとで)などがあるが,中期以降は,階層,理由を問わず,これら居住地からの失踪行為全般を意味する用語として,欠落が広く使用された。…

【逃散】より
…近世成立期の17世紀前半,逃散は領主に対する農民の主要な抵抗形態であった。その中には,〈走り者〉〈走百姓〉などの呼称であらわれる,隷属農民や
小百姓の個別的な欠落から,大百姓が村内の小百姓や隷属農民を引き連れて村ぐるみで逃亡する集団的な逃散まで,さまざまな規模・形態のものが含まれる。
このうち〈走り〉〈欠落〉などの個別的な逃亡を除外すると,逃散は単なる村からの逃亡ではなく,領主に要求を受け入れさせるための計画的な同盟罷業と
いった色彩をもつことが多かった。

大辞林 第三版の解説
ひとがえし【人返し】
@ 領民の他領への逃亡を防ぐため、勝手に他領に移住した者を領主間の交渉で召し返したこと。
A 江戸時代、江戸・京都・大坂などの大都市に集中した人々を帰郷させたこと。1843年の人返しの法が有名。旧里帰農。

https: //ja.wikipedia.org/wiki/逃散
江戸時代
生産者である百姓の逃散は、生産活動の減退を意味するため、支配者(幕府、大名、旗本ら)は百姓の逃散を厳しく禁ずるとともに、
移住も原則として認めなかった。
0157名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:56:55.83ID:X49I/dIv0
>>96
まったくだ、バブル崩壊のシンボル。
0158名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:56:59.55ID:StfjrrOZ0
>>125
安倍さんのサポーターさんですか?
0159名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:56:59.55ID:LR+w1t3N0
>>153

https://ja.wikipedia.org/wiki/イシドールス
セビリャのイシドールス(西: San Isidoro de Sevilla、羅: Isidorus Hispalensis、 英語:Saint Isidore of Seville、560年頃 - 636年4月4日)は、
中世初期の神学者で、後期ラテン教父の中でも最も重要な神学者の一人であり、カトリックでは「インターネット利用者およびプログラマー」
の守護聖人[2]。 30年以上セビリャ大司教を務めた。中世のヒスパニア[3]の地域で書かれた後の歴史書はすべて、このイシドールスの歴史を範
としていた。

『語源』
アラビア人が古代ギリシア哲学の叡智に触れるはるか以前に、イシドールスはアリストテレスを同国人に紹介している。イシドールスはカトリック
の同胞のために、一般的な知識を体系的に編纂した最初のキリスト教著述家であり、主著『語源』はまさに百科辞典的な、総合的な内容を持っている[19]。
この全20巻448章にわたる中世最初の百科事典で、イシドールスは古代から彼の時代に至るまでの、聖俗両面にわたる、あらゆる学問体系を集約した。
この著作のおかげで多くの古典時代の著作の記述が断片的に散逸を免れた一方、この著作が原著作よりも重んじられることが多かったために、原著作で
散逸してしまったものが多いことも事実である。

『語源』に対する高い評価は、百科事典的な著述活動に刺激を与え、中世以降の時代に大きな実を結ぶことになった。この著作は、中世の収集図書
の中で最も人気がある概説書[20]で、ルネサンスの時代まで継続した人気を保ち、1470年から1530年の間に10版を重ねるほど印刷され続けた。

https://en.wikipedia.org/wiki/Etymologiae
Book III: de mathematica Quadrivium: mathematics, geometry, music, astronomy Boethius on mathematics; Cassiodorus[11]
Book III covers the mediaeval Quadrivium, the four subjects that supplemented the Trivium being mathematics, geometry, music, and astronomy.[b]
He argues that there are infinitely many numbers, as you can always add one (or any other number) to whatever number you think is the limit.[16]
He attributes geometry to Ancient Egypt, arguing that because the River Nile flooded and covered the land with mud, geometry was needed to
mark out people's land "with lines and measures".[17]
0160名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:57:07.88ID:pEVwxPPH0
天皇制度がないと日本の求心力が失われる
遠心力の時代になると思う
0161名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:57:21.37ID:BRYs86eA0
【皇室】天皇陛下はどんなものを食べているのか?

 食べることは生きること。いわば食は命の素である。多くの人にとって食事は大きな関心事だろう。では、天皇の食事はどうなっているのだろうか。調べてみたら、知らないことだらけで驚いた。

「昭和天皇の朝食は1年中洋食でした」
「具体的には、オートミール、パン、野菜料理、サラダ、果物、煮冷水(湯冷まし)、お茶、牛乳を毎朝食べていたんです。オートミールは大麦を使った西洋風のおかゆのようなもので、
戦後はコンフレークのこともありました。牛乳や甘みを足して天皇好みの味に仕上げるのは皇后の役目です」

風変わりな習慣もあった。
「ピーナッツか銀杏の炒ったものを3粒だけ食べる、というのが昭和天皇の毎朝の習慣でした。
ピーナッツは皮をむき、バターで炒めて軽く塩をふります。銀杏は殻からだして皮付きのまま焼き、その後皮をむいて軽く塩をふるのです」


 朝食は8時、昼食は12時、夕食は18時で1年中変わることがない。昼食が洋食であれば夕食は和食、昼食が和食なら夕食は洋食と決まっていた。


「昭和天皇のウナギ好きはよく知られていますが、宮内庁大膳課に勤めた渡辺誠さんによれば、昭和59年にウナギの蒲焼を食べた回数は22回、それに対してサバの味噌煮も12回ありました。
麦入りごはんで山かけを食べるのも好きだったようです。ただ、基本的にお刺身は少ないんです。特に地方への行幸啓に出かける前は、行事に支障をきたしてはいけないので、なまものは外されました」

 繰り返すが、天皇は基本的に好みを言わない。だから料理人は天皇の食べっぷりから好みを推し量るほかない。
「渡辺さんによれば、リンゴはシャキシャキよりもふかふかが好きで、サツマイモは黄色いホクホクより白っぽいベチャ芋がお好きだったそうです。また、
稚鮎を塩焼きにして骨をとらずに頭から食べたり、鮎の内臓を塩漬けしたウルカをご飯に混ぜてよく食べていたとか。そこだけみるとお酒もいけそうに思えますが、お酒はまったく飲めませんでした」

米は市中の米屋さんから普通の米を買い、押し麦を混ぜ、水道水を使って炊いたという。
0162名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:57:22.97ID:LR+w1t3N0
>>159

https://ja.wikipedia.org/wiki/カロリング朝ルネサンス
カロリング朝ルネサンスまたはカロリング・ルネサンス[1](Carolingian Renaissance, Renaissance carolingienne )とは、
フランク王国(カロリング朝)のカール大帝(フランク王 768年 - 814年、西ローマ皇帝[* 1] 800年 - 814年)の頃(8世紀〜9世紀)
に見られる古典復興、文化の隆盛を指す言葉である。

As Pierre Riché points out, the expression "Carolingian Renaissance" does not imply that Western Europe was barbaric or obscurantist
before the Carolingian era.[4] The centuries following the collapse of the Roman Empire in the West did not see an abrupt disappearance
of the ancient schools, from which emerged Martianus Capella, Cassiodorus and Boethius, essential icons of the Roman cultural heritage
in the Middle Ages, thanks to which the disciplines of liberal arts were preserved.[5] The 7th century saw the "Isidorian Renaissance" in
the Visigothic Kingdom of Hispania[6] in which sciences flourished[7][8][9] and the integration of Christian and pre-Christian thought
occurred,[10] while the spread of Irish monastic schools (scriptoria) over Europe laid the groundwork for the Carolingian Renaissance.[11][12]
0164名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:57:54.98ID:+rRp9prH0
糖質がすげーコピペたくさん貼って草
0165名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:58:03.86ID:StfjrrOZ0
>>99
小室さんと皇室は合わないからなぁ
雰囲気的にも違うと感じる
0166名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:58:37.03ID:BRYs86eA0
■昭和天皇

昭和天皇のウナギ好きに応えた形でしょうか。
特に鰻茶漬けが好物でしたが、これは献上品だったため年に1回から2回しか食べられませんでした。
もっと食べたいと思われることがあったとしても、昭和天皇は決して自分から食べたいとおっしゃることはなかったのです。

同様に好き嫌いを言うことも一切ありません。出されたものは残さず食べる、を文字通り実践していました。
一度柏餅をお出しした時に、葉っぱ付きでお出ししたため、それも召し上がってしまい、さすがの昭和天皇も「美味しくない」と答えたのだそうです。

御殿での普段のお食事よりも、むしろ行幸で地方にお出向きになったときのほうが異色の食事になりました。

地方では陛下のおでましともなれば、精一杯のおもてなしで出迎えねばと意気込むわけで、戦後まもない昭和24年(1949年)という時期でさえ
大分県別府市の日名子旅館(現在廃業)では若鶏のバター焼き、野菜の土佐煮、鮎の塩焼き、城下鰈、南瓜、蕗と鯛の酢の物、お汁、メロンとご馳走が並びました。

出されたものは全て平らげねばならない主義ゆえに満腹に苦しみながらお召し上がりになったのではと思われます。ほかにも地方行幸では過分な饗宴が多かったようです。

しかし、陛下はそれについて良いとも悪いとも、何が美味かったともまずかったとも決しておっしゃいませんでした。
0167名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:59:00.15ID:6RMztIMN0
>>124
全文同意
天皇陛下と皇后陛下お二人であの場面を奇跡の場面にしてくださったこと
心の底から喜び溢れる万歳三唱
お帰りになるギリギリまで会場に向かって手を振ってくださるお姿
本当に素晴らしい式典だった
この天皇陛下皇后陛下の時代に生まれ生き
今日この日この式典ををテレビからでも参加することができて本当に幸せだ
0168名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:59:02.33ID:LR+w1t3N0
>>162

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_lay_Catholic_scientists

Many Catholics have made significant contributions to the development of science and mathematics from the Middle Ages to today.
These scientists include Galileo Galilei,[1] René Descartes,[2] Louis Pasteur,[3] Blaise Pascal, André-Marie Ampère, Charles-Augustin de Coulomb,
Pierre de Fermat, Antoine Laurent Lavoisier, Alessandro Volta,[4] Augustin-Louis Cauchy, Pierre Duhem, Jean-Baptiste Dumas, Alois Alzheimer,
Georgius Agricola, and Christian Doppler.
0169名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:59:44.67ID:h+ayBLVt0
ギャースカ喚き散らしてる
超老害田原総一朗 隠居せよ
0170名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 16:59:55.53ID:LR+w1t3N0
>>168

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Catholic_clergy_scientists
This is a list of Catholic churchmen[1] throughout history who have made contributions to science.
These churchmen-scientists include Nicolaus Copernicus, Gregor Mendel, Georges Lemaître, Albertus Magnus,
Roger Bacon, Pierre Gassendi, Roger Joseph Boscovich, Marin Mersenne, Bernard Bolzano, Francesco Maria Grimaldi,
Nicole Oresme, Jean Buridan, Robert Grosseteste, Christopher Clavius, Nicolas Steno, Athanasius Kircher, Giovanni Battista Riccioli,
William of Ockham, and others listed below. The Catholic Church has also produced many lay scientists and mathematicians.
0171名無しさん@1周年
垢版 |
2019/02/24(日) 16:59:58.54ID:XRDfk/Bw0
>>160
なわけねーだろw
今あるものをわざわざ無くす必要がないってだけのやつが大半だよ
神の子孫とかアホらしいけど伝統文化の保全

ジジババやキチガイは知らんが
0172名無しさん@1周年
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2019/02/24(日) 17:00:38.84ID:mwiMntbR0
マコムロ結婚の裁可取り消しは無くて、学科り。
式典迄にって、やっぱり女性週刊誌はインチキ。
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