https://ja.wikipedia.org/wiki/ナチス・ドイツの経済
これらの政策によって登録労働者は1933年のうちに200万人減少したが、奉仕活動的な雇用や統計操作を
含むものであり、再軍備や軍需拡大による雇用創出が行われるまでの時間稼ぎ的な性格のものであった[26]。
一方で企業に対して租税減免措置がとられ、自動車産業に対する保護育成策もとられた。また低調であった
民間投資を集中するため、重点的事業でない繊維・紙パルプ・ラジオ・自動車部品製造などの分野には投資禁止措置がとられた[27]。

中略

この一方でヴァイマル時代からの外貨不足状況は変わっておらず、原材料である生糸や綿の輸入が進ま
なかったため、消費財分野の主力である繊維工業は停滞し[37]、消費財分野全体の雇用者もほとんど増加
しなかった[29]。また、統制による賃金抑制は国内消費水準回復の遅滞を招いた[38]。また、同時期には
食糧相リヒャルト・ヴァルター・ダレが推進した血と土イデオロギーに基づく農本主義的農業政策が行わ
れたが、自立小農民を保護する政策は経営合理化を妨げ、増産につながらなかった。また農地の長子単独相続を
定めたために次男以下の離農が進み、農業振興とは逆行する事態が発生した[39]。この事と天候不順が重なり、食料輸入が1936年代の課題となる。

中略

「帝国アウトバーン会社の設立に関する法律」によって6月30日に、ドイツ国営鉄道の子会社帝国アウトバーン会社(de:Reichsautobahn)が
設立され、技術者であったフリッツ・トートが「ドイツ道路総監」に任命された。アウトバーン関連には1935年6月までに4億マルクが投資され、
最大12万人の雇用が行われた[40]。ただし、アウトバーン関連労働者の一部に対しては少額の手当と衣食住の支給が行われたのみであり、
賃金と呼べるほどのものは受け取っていなかった[41]。