「魚沼コシヒカリを、最強の銘柄米に」。そんな思いを胸に30年前、旧六日町の若手生産者が立ち上げた「コシヒカリ共和国」が今月、食味ランキングで魚沼コシの特A復帰を花道に、その歴史に幕を下ろした。1989(平成元)年10月の建国以来、自主流通米の入札取引で魚沼コシと他地域産と区別して扱う別建て上場の実現や、品質向上などに取り組んだ。一方会員の減少や高齢化も進む。「地域全体のコメの底上げは果たせた」と、静かに表舞台を去った。

 8日に南魚沼市で行われた解国(解散)の式典。30年前に開国宣言を朗読した笠原喜一郎さん(65)が再びマイクの前に立った。「魚沼コシはいつ食べてもおいしいと言われるようにやってきた。魚沼に追い付け、追い越せの意識で新潟全体の底上げもなった。(日本有数の産地として)『さあ、これからだ』という思いで、解国を宣言する」と力強く言った。

 共和国は当時の六日町農協の青年部が中心となって設立した。目的は、高食味で安心・安全な「日本一」の魚沼コシを、それにふさわしい価格で販売すること。また消費者と交流しながら地域の活性化にもつなげるというものだった。89年に建国祭を開催。本県出身の落語家の林家こん平さんが応援団長に就き、「笑点」で「共和国」の名前を全国に広めた。

 共和国が一躍注目を浴びたのが、自主流通米市場での、魚沼コシの別建て上場を求めた働き掛けだった。首都圏では魚沼コシが他地域の県産コシより高値で売られていた。しかし県経済連(現JA全農県本部)の買い取り価格は一律だった。「魚沼米に正当な評価を」。7千人以上の署名を集めるとともに、県経済連などへの直談判を続けた。

 95年には念願の別建て上場が実現。他地域より高値が付いた。20年ほど前は、新潟一般と比べて最大で60キロ当たり、8千円ほど高く取引されたという。

 共和国に携わったJAみなみ魚沼の小倉一男組合長(70)は「魚沼コシがあったことで地域は潤った。別建て上場が共和国の一番大きな成果。経済界が重い腰を上げてくれた」と胸を張る。

 このほかにも、有機や減農薬栽培の研究に取り組み、魚沼産コシのブランド向上に突き進んだ。また首都圏の消費者との交流事業を企画したほか、東日本大震災でコメを福島県に送るなど、コメを通じた他地域との結び付きを深めた。

 ただ設立当時は若手だった農業者たちも、今や白髪が目立つ年になった。「農業者人口が減り、加入者も減少した」(共和国)。国の人口(会員数)は100人から50人ほどにまで減っていた。昨年6月、これらを理由に総会で解国を決議した。

 会は消えても「魚沼コシを最強の銘柄米へ」の思いは地域に根付いた。地元の農業者らが一丸となり、特A陥落から1年で復帰したのが、何よりの証左だ。最後の大統領となった並木泰夫さん(60)は「特A返り咲きは解国にふさわしいニュース。ここを新しいスタートとして、地域で魚沼米の栽培に取り組んでいく」。力強く、言い切った。

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コシヒカリ共和国の歩み

1988年 7月  共和国建国前夜祭

  89年10月  共和国建国

  91年12月  魚沼コシの別建て上場を求め県経済連に約7千人の署名提出

  93年     戦後最大級の冷害。食味ランキングで、魚沼コシは唯一の「特A」  95年 9月  魚沼コシが別建て上場

2004年 8月  魚沼コシ発祥50年まつり

  08年 8月  共和国建国20年祭り

  11年11月  福島県の「JAそうま(当時)」に復興応援米を届ける

2019/03/16 16:30
新潟日報
https://www.niigata-nippo.co.jp/sp/news/local/20190316457465.html