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https://ja.wikipedia.org/wiki/平田篤胤

平田国学・復古神道が立論の根拠にしたのは古伝であったが、『古事記』などの古典に収載された古伝説に
は齟齬や矛盾、非合理がふくまれているため、篤胤は古伝説を主観的に再構成した自作の文章を注解すると
いう手法を用いて論を展開した[9]。また、古伝の空白箇所を埋めるために、天地開闢は万国共通であるはず
だという理由から諸外国の古伝説にも視野を広げた[9]。古伝説によって宇宙の生成という事実を解明し、幽冥界
の事実を明らかにしていくのが彼の関心であるかぎり、これは自然なことであったが、漢意の排除と
文献学的・考証学的手法の徹底を旨としてきた本居派からすれば、かれの手法は邪道であり、逸脱にほかな
らない[9][11]。しかし、篤胤はそもそも古代研究を自己目的にしていたのではなかった[3]。彼は、自身も含め
た近世後期を生きる当時の日本人にとって神のあるべき姿と魂の行方を模索したのであり、そこで必要な神学
を構築するためにこそ『古事記』『日本書紀』その他の古典および各社にのこる祝詞を利用したのである[3]。
『霊能真柱』は篤胤にとって分岐点ともいえる重要な書物だったが、本居派の門人達は、この著作の幽冥観に
ついての論考が亡き宣長を冒涜するものとして憤慨し、篤胤を「山師」と非難したため、篤胤は伊勢松阪の鈴
屋とはしだいに疎遠になっていった。