1923年(大正12年)9月1日の関東大震災は、10万人以上の死者・行方不明者を出したが、もう一つの悲劇はデマににより引き起こされた朝鮮人虐殺事件であった。
このデマは『朝鮮人が婦女を犯し、井戸に毒物を投入した』などというもので、このため、日本刀や竹槍、猟銃などで武装した自警団が、関東一円で三千七百もつくられ、朝鮮人を襲ったという。
『警察史』から抜粋すると、『二日夕、自警団員が四人の男を朝鮮人だと鶴見署に突出し、「持っている瓶に毒が入っている。たたき殺せ」と騒いだ。
当時、46歳の大川署長は「そんなら諸君の前で飲んで見せよう」瓶の中身を飲み、暴徒を納得させた。翌日、状況はさらに緊迫。大川署長は多数の朝鮮人らを鶴見署に保護する。
群集約千人が署を包囲し、「朝鮮人を殺せ」と激高。大川署長は「朝鮮人たちに手を下すなら下してみよ、憚りながら大川常吉が引き受ける、この大川から先に片付けた上にしろ、われわれ署員の腕の続く限りは、一人だって君たちの手に渡さない!」と一喝。
体を張っての説得に群集の興奮もようやく収まったかに見えた。
しかし、それでも収まらない群集の中から代表者数名が大川に言った「もし、警察が管理できずに朝鮮人が逃げた場合、どう責任をとるのか」と。すると大川は「その場合は切腹して詫びる」と答えた。
そこまで言うならととうとう群衆は去って行った。保護された人は朝鮮人220人・中国人70人ら、計300余人に上る。
保護された朝鮮人・中国人は合わせて301名に増え、9月9日鶴見警察署から横浜港に停泊中の崋山丸に身柄を移しその後海軍が引き受けて保護した。
保護された朝鮮人のうち225名はその後も大川署長の恩に報いるべく震災復興に従事したという。
大川常吉氏は1940年(昭和15年)死去。墓地は東漸寺にある。死後13年目の1953年、関東大震災30周年を機に上記石碑が建立され大川常吉氏の遺徳を刻んだ。
 大川常吉氏は後年「警察官は人を守るのが仕事、当然の職務を遂行しただけ」と語ったと伝えられているが、あの当時、あの状況下で、多数の暴民に取り囲まれながら、しかも 署員はわずか30名で多数の朝鮮人らを守り抜いたのは並大抵の胆力と度量ではなかった。
「覚悟を決め・死を賭して」の大川常吉氏の行動こそ日本人としての誇りでありヒューマニズムの原点である。