【古代】鳥取の出土弥生人骨をDNA解析 縄文人×渡来人、日本人は複雑なハイブリッド? 殺傷の謎、倭国大乱の犠牲者か★2
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溝の中から散乱した状態で見つかった人骨=平成12年、鳥取市青谷町の青谷上寺地遺跡
https://www.sankei.com/images/news/190405/wst1904050001-p2.jpg
※省略
■異様な発見
人骨は平成12年、遺跡の中心域の東側で、幅9メートルほどとみられる溝状の遺構から発見された。取り上げられた数は約5300点。鳥取大医学部で確認したところ、少なくとも109体分あった。
そのうち約110点、約10体分には刀や矢などで傷つけられた痕があった。骨の特徴からみると、成人男女から5歳ぐらいの子供まで。15〜18歳とみられる女性の頭蓋骨には、額に鋭利な刃物で突かれたような三日月形の穴があった。別の骨盤の骨は矢で射られた上、切りつけられており、彼らは武器で殺傷された犠牲者と考えられた。
骨の出土状況もまた、異様だった。普通の埋葬の場合だと、骨は人体の構造に沿った形で見つかるが、同遺跡では2体を除いてバラバラの状態。(省略)
■最新の技術でルーツを解明
※省略
国立科学博物館の篠田謙一副館長らの昨年11月の発表によると、32人分の人骨のミトコンドリアDNAを解析したところ、ハプログループは29種にも分かれ、互いに密接な血縁関係がないことが判明。大部分が大陸の渡来系のハプログループで、日本在来の縄文人が持っていたハプログループは1人だけだった。
■日本人のルーツ「二重構造説」
日本人の成り立ちで定説になっているのが、弥生時代に大陸から渡来した人と縄文人との混血が、北部九州から東へと移っていき、現在の日本人につながっているとする「二重構造説」だ。
現代の日本人には縄文系のハプログループが20〜30%あるという。ところが、同遺跡の人骨のミトコンドリアDNAの解析では、縄文人が持っていたハプログループはわずか3%にすぎず、弥生時代も後期なのに縄文人と渡来系の弥生人の混血が進んでいなかったようにみえる。
またハプログループが多様だということから集団の特徴も明確になった。長い時代にわたって同じ場所に住んできた「ムラ」では、特定のハプログループが突出する傾向があるとされる。母系がつながっている人たちがずっと住み続けた結果だ。これに対し、母系がバラバラの同遺跡の人たちは、血縁関係のない人たちが住み合わせる「都市」的な人模様だったと考えられる。
同遺跡はこれまでも、出土した遺物の性格などから「日本海の交流拠点」だったと考えられてきた。ミトコンドリアDNA解析の結果はそれを裏付けるように、人が盛んに行き来していたことを示した。
一方、1万6500の塩基からなるミトコンドリアDNAに対し、核DNAは30億からなるため解析には時間がかかり、解析結果が公表されたのは今年3月だった。サンプルとして選んだ6人分の人骨について核DNAを解析し、4人からY染色体の塩基配列データが得られた。そのハプログループは大半の3人が縄文系だった。
ミトコンドリアDNAの解析から母系は渡来系のハプログループが大多数だったのに対し、核DNAのY染色体の解析から父系は縄文系が多いという結果に。また核DNAの解析結果でも複数のハプログループが確認され、遺伝的な多様性が判明した。この結果は長く続いた閉鎖的な「ムラ」ではなかったことを補強している。
篠田副館長は同遺跡の人骨の研究成果は、従来の「二重構造説」が唱える単純なモデルに当てはまらないとし、「(日本の広い範囲で)大陸との(直接の)交流の中から、日本人が生まれてきたというのが真実に近いのではないか」とみる。
■殺傷の謎は
人骨が血縁で結ばれた“一族郎党”ではないと分かったことで、誰が、なぜ殺傷され、集団で溝に埋められたのかについては疑問を深めることとなった。一般的な血族集団間の争いなどではないと思われるからだ。
中国の史書「魏志倭人伝」には弥生時代後期に当たる時期、「倭国乱れ、相攻伐すること年を暦たり」と記されている。「後漢書」にも「桓霊の間、倭国大いに乱れ」とある。「桓霊の間」は2世紀後半を指す。同遺跡の人たちは、そうした争乱の犠牲者だったのだろうか。
人類学の観点からも、同遺跡が大陸も含めて人の交流が活発な場所だったと証明されたことで、骨を残したのはどんな人たちで、なぜ傷つき一挙に埋められたのかについて「解釈が難しくなった」(篠田副館長)という。研究プロジェクトは核DNAの解析を今後もさらに進め、こうした謎に挑もうとしている。
産経WEST 2019.4.5 08:00
https://www.sankei.com/west/news/190405/wst1904050001-n1.html
★1:2019/04/05(金) 16:59:10.98
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1554451150/ >>87
そりゃ古代中国はそうだろ、それと今は別の話。
というか古代から今まで繋がってるのは日本だけだよ。 紀元前後に朝鮮人は存在していないw
同様に日本人もw ID:R9aRzdMG0
ウンコを食べる人の蘇我氏は渡来人ニダ説
>蘇我は扶余・高句麗・百済系
証拠が皆無 >>98
これ見るとチベットと東南アジアに繋がりが強いのが解るな 一個の遺跡の調査で「日本人は」みたいに話を拡げるんじゃない >>89
仮に半島からの移民が九州に倭国を形成したにしても、卑弥呼の倭国(2世紀)から日本書紀編纂(8世紀)まで、5世紀もの間、
「でっちあげ」をやらねばならないほどの強い一族対抗意識を維持していたとは思わんのだなあ。
20世代だよ。
九州対近畿の対抗意識はどうでもよくなる時間の長さだよ、仮に初期に対抗意識があったにしても。 欠史八代は近畿の王じゃなく山陰の王で扶余(・高句麗・百済)系w
蘇我は其の系統w 母系がほぼ渡来系で父系の縄文が強いと言うことは
縄文人が半島や大陸を往来してる課程で徐々に弥生人化した可能性があるな 朝鮮人なんてのは李氏朝鮮以降に形成された民族w
紀元前後に存在する筈がないw
日本人ですら1300年程度の歴史しか持たないw >>108
朝鮮半島からの渡来が一度ではなく、何度もあったということ
まず朝鮮半島(高天原)で、負けた扶余の一部族(スサノオ)が、日本列島に追放された。
その後、どうも日本列島の方が稲作に向いている(豊葦原瑞穂国)ということで、天孫族が半島から日本にやってきた。 九州王朝説・多元王朝説
弥生中期から卑弥呼の時代はもとより7世紀にいたるまで、ヤマト王権のみならず、日本列島内において様々な勢力圏、連合独立地域自治権、が存在していた、
という多元王朝説が古田武彦らによって1970年代以降提唱され、かつては歴史愛好家などから一定の支持を得たこともあったが、
存在している文献資料の検討や古墳をはじめとする考古資料から、現時点において、学界は「この説は信憑性に欠けている」としている。
なお、これをさらに発展させ、九州王朝のみが存在したとする九州王朝一元説や、大和に王朝は存在せず、本来は豊前の王朝だったとする豊前王朝説、
九州王朝と東北王朝のみが存在し、大和は東北王朝の支配下にあったとする東北王朝説もあるが、多元王朝説論者も含めて学界からは無視されている。 >>102
国の連続性を言語と文字で語ると、中国は4000年の日本は1500年の連続性がある。
国の連続性を王朝で語ると、中国は王朝がなくなったので歴史が存在せず、日本は伝承によれば2500年以上の連続性がある。
国の連続性を政治形態で語ると、中国も日本も戦後に出発したことになる。
国の連続性を支配層の血統で語ると、いまのところ資料不足で言えることがない。
好都合な”前提”を使って、他国より自国の連続性が長いことを証明するのは、とても簡単だ。 >>108
神武東征の話は、天皇家が、天孫降臨の地である九州から来た、天孫の子孫であるということを主張する重要な部分。
わざわざ記紀にそう書いたということは、倭国の正当な支配者を名乗るには、九州から来たとする必要があったということ。
国内的には中国王朝のお墨付きをもらったことを誇示しつつ、後世や国外向けには朝貢はなかったことにしたい、見栄の綱引きをしている様子が伺える >>114
バカなん?
難しい言葉並べてるけどさ、
中国は建国して70年、日本は短く見ても1500年続いてるのは事実だよ。
これは覆しようがないもの。
それをねじ曲げて何が言いたいの?お前。 大陸から定期的に戦乱や滅亡で逃げてきたか、植民地的な橋頭堡があったか
縄文人たるアイヌ系、または蝦夷と古来呼ばれた東北をはじめとするマタギ、
沖縄人もまた縄文系の血を色濃く残す
近代に入ってさえ、大陸や半島から避難民は来てる
しかし来はするが交わらない点。 コレが定説
低学歴知恵遅れの九州説の珍説なんかだれも相手にしてないワケ
時間と空間の設定―神武東征と即位― そのカムヤマトイワレヒコは
よき地をもとめて日向から大和へと東征し、磐余宮で即位して初代の神
武天皇となる。これは地上における大和という地理的な特定地点の由来
を説明する物語である。ここで最重要の主題は、 神話から歴史への転換、
つまり、人間としての神武天皇という存在の位置づけである。そして
もう一つが現実的な空間的地理と時間的年代の設定である。時間につい
ては天孫降臨から一七九万二七四〇年余が経過したといい、東征の開始
の年を「是年、太歳甲寅」とし出発の日を「冬十月丁巳朔辛酉(五日) 」
としている。そして、橿原宮に即位した神武天皇元年が、辛酉年の正月
庚辰の朔(西暦への換算では紀元前六六〇年)としているのである。空
間については、出発地を九州の日向として瀬戸内海を通過し浪速、河内
から紀州へと旋回して熊野から大和の東部山中の菟田に出てそこから西
方に向かって大和盆地へ入る、という地理的関係を設定している。
ここで重要なのは大和盆地という現実的な王権発祥の土地であり、出
発地の日向については神話的な構成の産物にすぎないという点である。
先の一七九万二七四〇年余という時間が歴史時間として虚構であるとす
るならば、同時にこの日向という空間と地理も神話的な構成によるもの
である。それは、 『日本書紀』第9段の天孫降臨の一書〔1〕で、天孫
降臨の地が「筑紫の日向の」高千穂のクジフル峯であるといい、 『古事
記』でも同様で、 さらに「此地は韓国に向ひ、 笠沙の御前を真木通りて、
朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり、故、此地は甚吉き地。 」と表現
されていることからも明らかである。 「筑紫の日向の」小戸の橘の檍原
に至りまして、という言い方は、三貴神の誕生を記す『日本書紀』第5
段の一書〔6〕でも、『古事記』でも同じくみられる表現であり、この「筑
紫の日向の」という表現こそが重要な伝承である。その筑紫は地名であ
り日向はその筑紫における太陽信仰に関連する呼称である。それについ
て現実上の日向国という地理的認識を与えたのは、国郡制などが整備さ
れたのちのことであり、記紀編纂の最終段階であった可能性が高い。つ
まり、一七九万二七四〇年余という時間と日向という空間とは現実の時
間と空間ではなくまだ神話の中での伝承情報と考えるべきなのである。 >>114
あと、中国は時代毎に支配する民族も変わるから連続しようがない。
古代から現代まで一貫して単民族で日本とは違うよ。 九州南部が朝廷の支配が及ぶようになったのは
班田収受法にさからって隼人の乱がおきてから
隼人の乱がおきる前ははっきりいって
朝廷の支配が及ばなかった地域といっていい
隼人の乱を鎮圧されて、しばらくたって公民と認められてから
班田収受法が適用されるようになった
当の班田収受法自体は制度がひどすぎて
すぐに制度崩壊がおきる
それまで九州南部の土人は
大宝令の賦役令にもあるように
朝廷の公民ですらない
土人扱いだからな
↓このとおり
凡邊遠國。有夷人雑類謂。夷者夷狄也。雑類者夷之種類也。釋云。夷。東夷也。挙東而示餘。推可知雑類。謂夷人之雑類耳。
古記云。夷人雑類謂毛人。肥人。阿麻彌人等類。問。夷人雑類一歟二歟。仮令。隼人。毛人。本土謂之夷人也。此等雑居華夏。謂之雑類也。
一云。一種無別。 之所。應輸調役者。随時斟量。不必同之華夏。謂。中國也。 >>112
そもそも半島に人いたの?
日本列島へは南西諸島から入ってくる方がメインルートじゃない? もともと東北の蝦夷土人のルーツが
山陰のヤツラだからな
山陰の負け組が
東北へ落ち延びてる
出雲弁と東北弁が似てるのは
そのせい 宇佐神宮Webページ
http://www.usajinguu.com/shinbutsu.html
8世紀の『豊前風土記』には、「むかし新羅の神が渡ってきて、この河原に住んだので鹿
春郷(かわらのさと)と名づけた」ことなどが記されています。つまり、田川郡には銅を産
する香春岳があったので、新羅国(しらぎのくに)の神を祀る技術集団が住んでいたことが
分かります。
北部九州もチョンコもどきの土人の巣
つまり、出雲信仰、白山信仰と同じく新羅系
つまり渡来神 >>105
かつてアジア全域に広がった黄色勢が、中原の紫勢に駆逐され、
辺境(チベット・日本・東南アジア)に残った感があるなあ。
といっても、各時代を生きた人々は自分の遺伝子がどちらかなど知らんだろうから、
なんとなく混じったり移動した長い歴史の結果かもしれんが。 栲衾 志 羅 紀 の三埼を、国の余りありやと見れば、国の余りあり、と詔たまひて、
乙女の胸?取らして、大魚の支太衝き別けて、波多須々支穂振り別て、三身の網打ち挂て、霜黒葛闇や闇やに、河船の毛曽呂毛曽呂にき国来国来と引き来縫へる国はや
コレが出雲風土記の国引き神話
もうそのまんま
山陰は新羅のチョンコもどきの土人の巣 D-M174は日本から朝鮮に渡ったパターンに見える 出雲神社、白山神社、八幡神社のもともともの起源はスサノオだからな
で、スサノオは新羅のチョンコもどきの信仰の対象にもなってた
出雲、北陸、北部九州は新羅のチョンコもどきと関係が深かったことも影響してると考えられる >>166
>中国は建国して70年、日本は短く見ても1500年続いてるのは事実だよ。
比較するなら、せめて同一基準でやってくれという意味です。 八幡神社 ⇒ 新羅系
賀茂神社 ⇒ 新羅系
新羅神社 ⇒ 新羅系
出雲、九州北部、北陸
そして北陸から夷人雑類が
東北、関東へと流れ込んでる 新羅の神というのがスサノオだからな
つまり八幡神のもともともの起源はスサノオ
で、スサノオは新羅のチョンコもどきの信仰の対象にもなってた
北部九州は新羅のチョンコもどきと関係が深かったことも影響してると考えられる
で、宗像三女神の神功皇后も
ついでのように祀られるように
いつのまにかなった 蝦夷土人が住んでる場所との境目が
越後だからな
つまり辺境の地が越後
朝廷の公民と認められる田舎もんは越後まで
越後超えたら朝廷の公民と認められない土人の巣なワケ
白山信仰やヒスイ遺物の分布どおりになってる 百済は歴史的にほぼ大和朝廷の属国
南朝鮮の権益で九州北部の豪族は大和朝廷の朝鮮出兵を時折邪魔したりして争いもあったりした
北九州の豪族が新羅から賄賂をもらってたというのも古事記に記述されてる
白村江の戦いがなんでおきたか考えれば分かるな
ちなみに
いまいる半島のチョンコどもとは
一切関係ない話だからな >>119
>古代から現代まで一貫して単民族で日本とは違うよ。
DNA分析で多様性が確認されたニュースのスレで「古代から現代まで一貫して単一民族」を主張するかな。 あたり前田のクラッカー
単一民族ってなんだバカ
笑わせるな
人類なんてどれだけの数が行き来してると思ってるんだ
アフリカ発祥の猿がえらく遠くへ来たもんだ
地球の裏側へのルートなんて山ほどある >>132
『京都の歴史 第一巻』(京都市編)
【奠都以前】
仏教信仰、官司制の二つの移入に、朝鮮半島からの帰化氏族が重要な役割を果たしており、しかも帰化氏族の中核をなす秦氏の根拠地が
この京都盆地に存在したという事実を忘れることができないであろう。
【古代山城の氏族】
南方の大和盆地に近いところには高麗氏が住んでいた。その氏寺が高麗寺である。
淀川流域の河内国交野郡地方には百済王が蟠踞しており百済廃寺があって百済王氏の氏寺であった。
【秦氏】
秦氏の歴史は新羅につながるものである。
秦造の祖とされる弓月君が朝鮮より渡来したと伝えられていることや、『魏志』に見える辰韓人の記事、あるいは秦氏のもたらした技術が新羅系の技術であって、
秦氏の奉じた仏教が新羅系であることなどからも推定される。
【伏見稲荷大社】
伊奈利社(稲荷大社)の祭祀が秦氏によってなされたことは確実であって、秦氏後裔の人々が歴代稲荷社の有力祀官となった。
【松尾大社】
この社の創建にも秦氏が関係している。
洛南深草から洛西太秦にかけての秦氏の勢力は、土着神の祀官層を形成した。松尾大社の場合でも長く秦氏が社家になっている。
ついでながらにいえば、鴨県主家とも秦氏が姻戚をもっていたとする伝承が、「秦氏本系帳」や稲荷社祀官家「大西家系図」などにみえる。
【平野神社】
平野神社の第一座の今木神は桓武天皇の生母高野新笠が篤く信じた蕃神であった。
今木とは今来のことで、新しく帰化してきた今来の民が、新しく祀り伝えた神ということである。
「愛宕郡某郷計帳」にも今木氏の集団が見えているように、山背(山城)地方には古くから今木を名乗る人々が住んでいたのである。
こうした新来の民が新羅系の帰化集団であって、百済王を神として祀っていたのであろう。
【八坂神社】
高句麗人(狛人)意利佐の後裔といわれる八坂造の神。 >>139
行ききしていた中で大陸では旧モンゴロイドが粛清されちゃったわけさ だから、スサノオは九州から新羅に渡って日本に帰ってきた
つまり、スサノオは倭人 >>112
半島からの移民は、何度もあったは同意。
いまでも移民は続いているし。
だけど、記紀の神々の誰がどこの何系とまでは、証明するには証拠がないし、
そんな長い期間、「我々は〜出身の集団だ。〜とは別種」との意識でまとまって、対抗し合うかなあと思っただけ。
俺は20世代前のご先祖さまを北に追いやった人々の現在の子孫がわかるが、どうでもいいw 摂津の地域では、難波の地にあたる東生(成)、西成の両郡に吉志系の氏族と三宅忌寸とが居住していたことが知られる。
東生郡では難波忌寸・日下部忌寸、西成郡では吉士・三宅忌寸が、それぞれの郡の郡領をつとめる有力氏族であったのであろう。
吉士は朝鮮語の首長を意味する語に由来し、新羅では官位十七等の十四位の称にも用いられており、これを氏姓とする氏族の実体は渡来系氏族であると思われる。
『日本書紀』によると、難波忌寸がもとは草香部吉士であることが知られる。
(『大阪府史』)
河内国が列島随一の渡来人の集住地域であったことはよく知られているが、
なかでも大和川と石川の合流点付近の中河内から南河内にかけての地域、
令制の郡でいえば河内・高安・若江・志紀・安宿・古市・丹比の諸郡は特に顕著である。
ほかにも北河内の茨田郡・南河内の石川・錦部両郡・摂津の難波津付近・和泉南部の日根地域などに
渡来人の集中的な分布がみとめられる。
岩波書店『列島の古代史1』熊谷公男・東北学院大学教授 ○レヴィン(旧ソ連の人類学者)
『シベリア抑留者1万人を調査した結果、近畿人は朝鮮人とほぼ同じだが、東西へ向かうに従い日本人となっていく』
○梅原猛(愛知県出身。初代国際日本文化研究センター所長)
『近畿人は日本人全体からかけ離れて朝鮮人に近い。東大の埴原和郎先生は近畿人は日本人じゃないと言う。』
○池田次郎(京都大学名誉教授・自然人類学)
『畿内人は韓国朝鮮人と同じグループに属し、日本人から最も離れている』
○岩本光雄(京都大学名誉教授・霊長学)
『畿内人と大陸人、とりわけ朝鮮人は人種的につながっている』
○埴原和郎(東京大学名誉教授・自然人類学)
『近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近く、日本人からは外れている。帰化人たちは、ほとんど全部が大阪京都奈良に根を下ろしたといってよい』
○欠田早苗(兵庫医科大学名誉教授・解剖学)
『大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い』 皇室は縄文人の末裔はわかったけど
日本人が殺傷された遺跡とかこわいね 倭人は尽く山間部に追われ土蜘蛛だの鬼だのと呼ばれて殲滅されていったw
現在では他地域からの流入も有って半島系畿内人は畿内人全体の精々8割程度だろうw 大和朝廷が九州北部を版図に治めてからも
大和朝廷と九州北部の一部の豪族と争いもおきてる
九州北部の豪族(チョンコもどきの土人)は新羅との関係が深かった
大和朝廷のほうは百済に支配地域を広げていた
で、南朝鮮の権益で九州北部の豪族は大和朝廷の朝鮮出兵を時折邪魔したりして争いもあったりした
北九州の豪族が新羅から賄賂をもらってたというのも古事記に記述されてる
もうコタエはでてるワケ 東北では
田舎もんが住む区域と土人が住む区域の境界が↓コレになる
http://livedoor.blogimg.jp/itotaku77/imgs/2/a/2a761c8e.jpg
柵より向こうは
ずっと日本じゃなかった
野蛮人が住むエミシ土人地域
コイツラは公民になるまでヤマトの民じゃなかったワケ
南部九州の隼人土人と同じ
そんなとこから東征とかちゃんちゃらおかしいワケ 越後でも沼垂城より先は
土人が住む魔界
概ね阿賀野川が境になる
越後には渟足柵がある
コレで土人の侵入をふせいでた
渟足柵は
これより先は野蛮な土人が住んでたことを示す遺構になる 現代の話でも、丁度な、北朝鮮の工作員が
日本海側の海岸に漂着するようなもんだからな 新羅系の土人は
出雲、北陸からおわれることになる
そして、関東、東北へと逃げることになる
そして、朝廷が関東東北の土人どもをしばきにいくのが
坂上田村麻呂になる
坂上田村麻呂が土人の巣を一掃
坂上田村麻呂は
征 夷 大将軍だからな
九州説の低学歴知恵遅れは
まったく歴史をしらない >>156
朝鮮系の文明人が、日本土着の関東東北人を攻めたんじゃないの? 東北にも古い八幡神社があるのはなんでか
もう分かるな
一般的に神社がある周辺は天災が多い
ただ八幡神社がある周辺は
東日本大震災の被害が少なかった
天災の被害が及ばない場所に神社をつくったものと推察される
つまり土人なりの生き残る知恵があったものと推察される >>24
朝鮮人も日本人も、
同じくらいエベンキ族と同じ遺伝子がある
ベンキ、という発音に反応しすぎなんだよ
小学生か >>159
日本人にはツングース系はあまり入って無いんじゃないの? 古代の日本列島ではフレンチ・インディアン戦争みたいなのが何度も行われてたんだろうなw
新羅系やら百済系やらが入り乱れてw
最後に行われたのが壬申の乱w よく外人が目をつり上げるジェスチャーやるけど
日本はモンゴル系あんまり入ってないから全然ピンと来ないんだよな 卑弥呼の時代、
すでに大和朝廷が
北九州を版図に治めてたのは明らか
大和朝廷が北九州を版図に治めてないと
朝鮮出兵の説明がつかない
半島では、前方後円墳、日本様式の弥生式土器もみつかってる
それでチョンコどもが発狂してる
明らかに任那政府はすでにあった つか重要なのは日本の文化は独立してから長いってことが重要
人種同じでも文化違ったら違う人種みたいなもんだからな
文化って遺伝するし、長い間違う文化なら性能も変わるだろ >>154
だね。
同一民族集団を同一母語集団とするならば、
中国にも日本にも、現代につながる相当の長さの連続性がある。 >>105
縄文人はヒマラヤ山脈やインドと近い関係を持っている。
これはさらに大きな関係だ。
第一主成分(多次元で最も変化の激しい方向):西<-->東に近い
第二主成分(第一主成分と直交する次に変化の激しい方向):南<-->北に近い
つまり核DNAすべての多次元散布図を最も変化の大きい直交平面に射影した図。
https://i.imgur.com/8nDK7ID.png
図の右上隅近くに現代日本人の集団がある。
さらにその左を辿ると赤字(点は黒色)で示した「縄文人」がある。
ただ一人だけ縄文女性の骨から成功した核DNAデータだ。
東アジア人とは違う印欧・テュルク人方向にあって、東南アジア人の北上によって
現代人は東アジア化している。去年の東南アジア古人骨論文。
いまこの中の日本人研究者が日本人の場合に焦点を当てて準備してるらしい 例えばガラパゴス諸島に居る鳥は人間を怖がらないんだよね
それは人間がそもそもいないから、そういうのを怖がる文化的な遺伝子がない
つまり人種が同じでも文化が違えばそういう文化的な遺伝子が変わっていくんだよね
そういう意味は日本は遙か昔に分かれたから
日本みたいな国は日本しかないわけ >>162
これを見れば、欧米の人間にとって日本人がどう見えるかよく分かるでしょ
https://i.imgur.com/Mq0Xygo.jpg >>169
いや向こうの人そもそも区別する気ないでしょ
しかし日本と中国の区別をする気がないのは命取りレベルなんだよなぁ
イギリスとロシアの区別をしないようなもんだから 日本人と韓国人はほぼ同一種族なんだよ。
ネットウヨはいい加減認めろ。 >>156
田村麻呂こそ勝ったら官軍の代表じゃん?
歴史書は勝者が書くから
縄文時代は関東が一番人口が多かったんだから
遠い西日本とは別の独自の文化があったと見るのは普通 >>171
まぁ認めたくないが
チョンシナ日本人はみんな同じようなもんだわな
蒙古斑もできるし チョンコの起源ならしってる
半島では、有史以来ずーっと
漢族、蒙古族、女真族が血で血を洗う争いが繰り返されてきた
そんな中、突然、チョンコみたいな民族がポッとでてきた
考えられること一つしかない
野蛮人同士の争い 勝者が、略奪、レイプも当然
その中で産まれたのがチョンコの祖先、起源
李氏朝鮮の時代になっても酋長は女真族だからな
漢族レイパー x 女真族♀ → 相の子A
漢族レイパー x 蒙古族♀ → 相の子B
女真族レイパー x 漢族♀ → 相の子C
女真族レイパー x 蒙古族♀ → 相の子D
蒙古族レイパー x 漢族♀ → 相の子E
蒙古族レイパー x 女真族♀ → 相の子F
つまり、相の子A〜Fみたいなのが
交配を繰り返してできたのが
いまの半島にいるチョンコ
つまりいま半島にいるチョンコはレイパーの末裔 >>173
分かってないな
>>167なんだよ
人種として似通ってるとか関係ない
文化が分かれたタイミングだから
だいたい人としての能力なら黄色人種ならたいしてみんな変わらねえわ 朝鮮人の遺伝子が日本人と中国人の中間あたりにあるのがおもしろい
多分今の朝鮮人は後から南下してきた連中なんだろ >>176
人類は中国→朝鮮→日本つ伝わってきたんだから、朝鮮が中間になるのは当たり前だろ ”渡来系弥生人”というのが変な話だって言ってる人いるじゃん
その渡来系とされる人骨の出土割合がとても少ないって
九州南部の弥生時代の人骨さえ縄文系気質が強いのばっかり…
縄文人より遅れて弥生人が大陸から入ってきたんじゃなく縄文人(丸顔四角顔)が「食生活の変化」から弥生人(面長瓜実顔)になったのであって
渡来系弥生人なんておかしなキャラは一体何者だ?ということ
食生活で人の容貌は驚くほど変化するのは実に単純な事なのに
大陸との混血がまったくなかったという話でなく渡来人はいた
しかし
その渡来人による民族浄化的な支配がなかった、大量移民がなかった
ゆえに今日まで縄文系遺伝子が全国均一に残存しうるてこと
渡来系縄文人というキャラは実在しない
単に渡来人って呼びたくないんだろう >>172
何となく田村麻呂は渡来系で、アテルイは縄文系だと思うのだが、
(言語的には別種だったようだし、現代人の遺伝子マップでも関西と東北では差が大きい)
掘り出してビックリ、田村麻呂のYはD系統で、アテルイのYはO系統だった、
みたいなことが起こるのがDNA分析なのかなあ。 中国人と韓国人が同じってのは分るけど
日本人は縄文人がベースになってるから韓国人とはちょっと違うぞ ネットウヨの好きな縄文人だけど、
縄文人の影響がないわけではないけど、
縄文人こそ、今の日本人とはかけはなれた遺伝みたいよ。
縄文人の影響はごくわずか、現在の日本人と朝鮮人の方がはるかに近い人種。 >>182
いやらしい細い目つきとか、ひょうたんみたいないびつな輪郭とか、わりとそっくりじゃん >>167
DNAはハードウエアとして大事だが、もう一つ大事なのがソフトウェアだ。
居住環境もそうだが人類では言語や文化などがそのソフトウェアを決める。
クジラはハードウエア的には哺乳類だが、海洋生物だからな 半島のヤツラの顔みれば分かる北へいくほど
顔がどんどん蒙古に近づく 正直韓国はモンゴルに蹂躙されてるからやっぱ日本とは顔つき違うわ
つかモンゴルの遺伝子強すぎ >>183
だよなあ。
火炎土器とか凄いとは思うけど、ぶっちゃけ床の間に飾ろうとは思わんもんw
やっぱ今の俺らの日本文化のエッセンスはは侘び寂びで、
それは室町時代以降のもんだよな。 >>189
土器はそのとおりだが、
土偶(縄文の女神)と埴輪(踊る人々)のどっちについてく?
と問われれば、また違う結果が。 >>1
内容が専門的すぎてよく分からないんだが、要するに日本人には中国や朝鮮の血がふんだんに入り雑じってるってことだね。 オスが縄文系なんだから、縄文人が制服者だぞ!
やってきた弥生人を征服したんだろ。 >>185
まだ分かってないだけで文化も遺伝してるだろ
文化もDNAだよ >>183
近く見えて実際は遠い関係なんて幾らでもある。
だからDNAで民族を調べる時には、差を比較できる要素を見つける。
その一つが Y-DNA。
哺乳類のDNAなんてほとんどが同じ。けど全く違う生物になる >>191
縄文人の芸術は素晴らしいと思うが、
今の日本人のセンスは踊るハニワが基本だと思う。 >>192
昔も今も、中国・朝鮮・日本の間で、移動しまくりの、混じりまくりの、(認めがたいが)殺し合いもあったということでしょう。 >>194
長い時間続けば環境だから、DNA変化に出るかもしれない >>191
今の俺らにとってはどっちも異質だよなあ。
フィギュアならだんぜん仏像だよね。欽明天皇もそうだったw >>199
そうか?
縄文の女神も踊る埴輪も現代の渋谷を歩いている ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています