【古代】稲荷山古墳、前方後方墳の可能性 邪馬台国・卑弥呼の墓説ある箸墓古墳と同時期、3世紀に築造か 桜井市埋文センター
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前方後方墳の可能性があることが分かった稲荷山古墳の空中写真。左下が墳丘=桜井市芝(市教育委員会提供)
https://www.nara-np.co.jp/dbimage/article/0d19966186a7b801748b47e0bd837dc8.jpg
桜井市芝の稲荷山古墳が、3世紀に築かれた前方後方墳の可能性があることが、市教育委員会の調査で分かった。これまで5世紀後半から6世紀ごろの古墳と考えられていた。市立埋蔵文化財センターで開催中の発掘調査速報展で、調査成果が紹介されている。
稲荷山古墳は、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓説がある箸墓古墳(3世紀中ごろ〜後半)の南西約200メートルに位置。高さ約3メートルの高まりが残り、墳丘上には稲荷社がある。市教委が1〜3月、古墳の北側と東側の6カ所、計約170平方メートルを調査した。
うち4カ所の調査区で墳丘の裾と周濠(しゅうごう)を確認。古墳北辺の平面形が方形と分かった。規模は東西約25メートルで、北辺から墳丘の残存部まで測ると南北29メートル以上の南北に長い形になる。
明治時代の絵図には、社が描かれた墳丘の南側に細長い高まりがあり、南西に前方部を向けた前方後方墳と推測できるという。
築造時期は、須恵器など新しい時期の土器が少ない▽埴輪(はにわ)や葺(ふ)き石がない▽周濠の幅が狭い―などから、箸墓古墳と同時期までさかのぼる可能性がある。
前方後方墳には、東海地方など、他地域との関係を指摘する見方もある。
周辺の纒向遺跡ではメクリ1号墳(3世紀前半〜中ごろ)が前方後方墳と確認されている。市教委文化財課の三沢朋未技師は「まだ見つかっていない前方後方墳が存在している可能性がある」と話す。速報展は9月29日まで。
奈良新聞 2019.05.08
https://www.nara-np.co.jp/news/20190508091917.html これもまた、渡来人もが野蛮なクソジャップに授けてやった智恵かな。
カムサハムニダ。 魏志倭人伝に卑弥呼の墓は石室が無く土を被せただけと書いてあるから奈良の箸墓古墳の可能性はゼロ。卑弥呼の墓は、棺はあるけど室はないから。早い話が、石室がない前方後円墳なんてものはない。 ということで、前方後円墳は卑弥呼の墓ではない 従来円墳と見なされていた というのは書いてある?
>>8
稲荷山古墳 って聞いたらまず思い浮かべるのはふつうそれだろ
同名のが日本中にあるけど >>10
槨=石室 だなんて誰に教わった?
"魏史倭人伝"鵜呑みにすべきかはともかく 稲荷とかキツネ崇拝してるのは、今も半島に残る熊トラ鹿などの動物崇拝なんだよな
古墳時代の半島は、シンボルとして熊の子孫とか名乗るのが王族の権威付けだった
東日本に動物信仰の神社が多いのは半島系渡来人が多い証拠 ニニギの墓地以外の前方後方墳は、399年以後から建設されますた 纒向遺跡の外来系土器で一番多いのは尾張東海系、ダントツ。
次が山陰系。
その次が吉備系だが、吉備系は3世紀後半に突然姿を消す。
吉備系と入れ替わるように急激に増えるのが河内系。
初期のヤマト政権は尾張王朝かもしれない >>15
稲荷はキツネ信仰じゃないぞw
食物神への信仰で、キツネは単なるその食物神の神使。
奈良の春日大社の鹿と同じポジション。 稲荷山か、埼玉だったな。
そうか邪馬台国は埼玉にあったのか、このところ埼玉がきてると思ったがこれまでとは 伊勢内宮神前祝詞
天照大御神、又の名は
撞賢木厳之御魂天疏向津比賣命とある
天から遠ざかった向津姫
伊勢の向かい側は尾張三河
何か関係あるかもしれないな
卑弥呼は尾張か、三河出身? >>19
それは大和朝廷が格上ということを表しアマテラス等の支配下であることをあらわしてるだけ
土地を神社に寄進するだけで課税対象から外されたので当時の半島系渡来人は挙って神社を建て大和朝廷に忠誠を誓った体をとった
半島系渡来人が多かった関西や関東に、寄進したことを意味する「神」を付けた地名(神戸、神田等)が多いのもその名残 >>23
天照の荒御魂といわれる瀬織津姫が熱田の奥に祭られている。 邪馬台国=奈良 というのは
× 学問
〇 政治(学者の世界の) 箸墓古墳は350年前後だと思うけど、理性や理屈の通じるような
連中じゃないしなあ >>29
年代を繰り上げる根拠の方を聞きたいよ。
三角縁神獣鏡の大半が舶載とか、基地外そのものでも学説として成り立つ業界だし、
言論の自由がないんだろうけど >>21
スレタイを見たとき、全く同じことを思ったw >>26
両方〇だろ
巨大古墳と言う物的証拠があるのに
それを覆すのが学問か? >>33
その「巨大古墳」と卑弥呼の墓(径百歩の塚)とが、
どうも結びつかんw 邪馬台国は九州だよ
「隋書」に邪靡堆には阿蘇山があると書いてあるからね >>33
魏朝皇族墓の墓が最大径60m、例えば曹操の墓が径60mなのに冊封国女王卑弥呼の墓が
全長300mとか頭おかしい 3世紀初頭の桜井市の前方後円墳 纒向石塚古墳とどっちが古い? けっこう地元じゃん
チバニアンがちょっと羨ましかったからさ
卑弥呼ならタメはれるべ 当時百余国の中心的な存在だったんだから
古墳が集積してる地域でしかあり得ない
大国魏の使いが九州という小さな島の中で国が
百以上分かれてるとするならもう村以下の規模だろ?
それを一つ一つ国と呼ぶとは到底思えんのよ
レベルの低すぎる使いだろ >>33
巨大古墳=卑弥呼の墓
↑
これが他の遺物や記述をガン無視してるから畿内説論者全員が頭オカシイと言われてる >>40
100余国が統合されて当時30国
そして唐津や糸島だけでも一国 >>42
邪馬台国は日本の中心(九州の中心?)=国内最大勢力=大きな古墳がある
当然なんだが 普通に考えて邪馬台国=大和政権だろ。
邪馬台国は「やまとのくに」と読む。
大和政権からの使者が「やまとのくにから来た」と言うから
魏の役人が適当な漢字を当てはめて「邪馬台国」って書いただけの話。 >>40
世界的に見ても墓地遺跡が集中してるのは戦場の跡地とかな
蝦夷や隼人土蜘蛛と戦って殉死した王族や将軍グラスの墓だと考えるのが普通 >>40
そこはそれ、21世紀になっても人口35万人のアイスランドが
FIFAワールドカップに出ちゃったりするじゃんか。
中原の民が世界帝国を標榜しつつも「小国寡民」をある種の理想と見なすのは、
老子以来の伝統なのだ。 稲荷山古墳ていうと埼玉のほうが有名だよな
奈良にも稲荷山古墳があったのか
埼玉の方は文字が彫られた鉄剣が見つかって
471年?ワカタケル(雄略)が来て支配するのに土着のヲワケが仕えて助けた
とか書いてる >>1
>これまで5世紀後半から6世紀ごろの古墳と考えられていた。
500年前後から3世紀初頭にまで一気に年代を繰り上げたホケノ山古墳みたいだな。
その年代繰上げが定着しつつあった頃に、隣にある堂の後古墳(500年以降)の周濠をホケノ山古墳の
築造時に踏み壊していることが判明した。
いまだにこの事実を無視して「ホケノ山最古」をわめいている恥知らずもいるよなw
んで、ホケノ山が頓挫して、今度は稲荷山とメクリで年代繰上げ
恥知らずな連中だな >>46
だからその根拠が当時の邪馬台国の状況(魏の冊封国)と矛盾する。
邪馬台国は魏の後ろ盾を必要とした魏臣下
曹操より遥かに巨大な墓なんてつくれない いっぽう池袋勲章走りの超上級国民様は、年金3000〜4000万円も貰っていましたとさ(爆笑) >>55
見るもへったくれも、まだ無かったんじゃ…。 >>52
「若い頃はワカタケル大王の近衛兵として活躍した」って内容だろ。
オオヒコからの系譜も具体名を明記して載ってる。
この証拠があるのに、「オオヒコは実在しない」とかわめいているアホも多いんだよなあ。
オオヒコの下のテヨカリワケは「豊韓別(トヨカラワケ)」の名称で本朝皇胤紹運録に出てくる。
血族重視の時代に数世代の先祖の名前を間違えるわけないので、これらの人物の実在性も確定する。
これに対して、「非実在の祖先を列記した」とする恥知らず極左が歴史学会の主流。 ところで箸墓に埋葬されてる百襲姫って
アソコに箸が突き刺さって死んでしまった姫だってこと、
知ってた?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E8%BF%B9%E8%BF%B9%E6%97%A5%E7%99%BE%E8%A5%B2%E5%A7%AB%E5%91%BD
百襲姫は大物主神の妻となったが、大物主神は夜にしかやって来ず昼に姿は見せなかった。
百襲姫が明朝に姿を見たいと願うと、翌朝大物主神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れたが、
百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて御諸山(三輪山)に登ってしまった。
百襲姫がこれを後悔して腰を落とした際、箸が陰部を突いたため百襲姫は死んでしまい、
大市に葬られた。 >>51
あやふやな記述より物的証拠だと思うんだよね
当時の国内の勢力図から所在を当てはめる方が理にかなってる >>58
2百年程度で人が移動してきて作る代物じゃないだろ
昔からその地域に巨大な勢力が実在していたんだよ 東近江の神郷亀塚古墳も3世紀後半の前方後方墳
近くに外来系土器の組成が纒向遺跡とよく似た斗西遺跡がある
東海→伊勢→伊賀→大和
東海→伊勢→伊賀→甲賀→琵琶湖
元伊勢ルートで東海の勢力が進軍したのかもしれない >>60
アマテラスの侍女も機織りの杼をマンコに刺して死んじゃうし、
たぶん記紀神話が成立した頃は、そっち系のエロ話がブームだったんだろうなと。
>>62
いや、それらって百舌鳥古墳群じゃん。
応神帝の後だよね。 箸墓は卑弥呼の墓という説は正確ではない
もとは内藤湖南が箸墓の被葬者とされる孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命を
卑弥呼に当たるとしたことから言われ出した話 卑弥呼の墓は後に作られた他の巨大古墳の下敷きになっている気がする >>55
魏 西暦220年 - 265年
仁徳天皇陵 西暦400年代 >>10
ヤマト政権と邪馬台国は違うと考えるべきなのに近畿説の奴らは同一視しているからおかしくなる 稲荷塚古墳ってストリートビューで見てもすぐそばの箸墓に比べてえらく小さいし、国土地理院の戦後すぐの航空写真でも現状とほとんどかわらない田んぼの中の小さな塚山でしかない
箸墓の副葬を埋めた陪塚だと言う方がまだ納得できる
これが前方後円墳だとすると誰がなんでこんな小さな物を作ったのかというのが謎だな
箸墓を作る前に試しに作ってみたとかじゃないだろうかって気もする >>14
鵜呑みって邪馬台国が出て来るのはそれしか無いだろ >>54
別に魏に叱られるわけでもないからいいんでないかい >>66
「邪馬台国は当時の日本の中心だった」ってところがダウトだよね。
なんで皆、アプリオリに受け入れちゃうんだろ? 物的証拠なら鉄器(軍事力)、絹、鉾、内行花文鏡(河北鏡)の九州なんだよな >>70
前方後方墳やろ
神郷亀塚古墳もそれくらいの大きさちゃうか? >>73
九州に邪馬台国を中心とする勢力があり近畿にヤマト政権を中心とする勢力があったというだけの事だろ >>72
いや、当時中華の皇帝と王侯の墓には、その規模に明確な序列があったんだよ。 邪馬台国=ヤマト国=ヤマト政権の始まり
日本書紀にあるようにヤマト征伐によりヤマト政権が始まるのだ
ただ始まりが東海勢による西征だった可能性が高いかもしれない 当時中華の皇帝と王侯の墓には、その規模に明確な序列があったニダ
中華国内ではそうだろうけどさ
ウンコ食べてるのかね 万葉集
東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ
真十鏡 可照月乎 白妙乃 雲香隠流 天津霧鴨 >>78
だよねー。
>>79
この部分はちょと異論があって、漢王朝(後漢)が勢力を保っていた頃は
序列があったけど、その基盤が揺らいだ途端に朝鮮半島や日本列島などの
東アジアの首長墓が大型化したらしい。みんな遠慮してたんだねw さきたま古墳群の方を想起して、何で今さら形状が問題になっているのかと思ったw だいたい邪馬台国が出て来る唯一の書魏志倭人伝に出て来るのは九州にあったと思われるクニだけだし邪馬台国が近畿なら出雲や吉備が出てこないとおかしいだろ 出雲や吉備が邪馬台国に含まれてたら出てこないよな
邪馬台国だけ人口が多くなるわけだ この古墳の小山の上に明治期に稲荷神社が作られて今もある >>10
おそらく卑弥呼の邪馬台国は九州で
大和で発展した古墳文化の大和王朝とは別の国だな 生贄とか殉葬とか卜占とか殷の文化ぽいんだよな
殷、イン、イネ
米コメと稲イネ、一つの対象に二通りの単語があるのは興味深い >>93
大和王朝は卑弥呼の国と対立してた狗奴国じゃないか?
大和王朝狗奴国が奈良で邪馬台国が九州というのが一番しっくりくる >>97
狗奴国は邪馬台国、初期のヤマト政権に滅ぼされかけていた元々畿内にあった国だろう
狗奴国=奈良+大阪
卑弥呼の時代、奈良は陥落 卑弥呼の時代は古墳の時期から崇神の頃だし
崇神の頃は大和王権が九州まで進出できていない頃
九州を支配下に置いてた邪馬台国と大和王権は別の国だわ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています