【奈良】ヤマト王権誕生の礎、唐古・鍵遺跡 埋文センター長が本執筆、邪馬台国の最有力候補地「纒向遺跡」との関係など考察
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藤田三郎さんが執筆した「ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡」
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弥生時代の大規模環濠(かんごう)集落、唐古・鍵遺跡(田原本町)について、調査・研究に長年携わっている田原本町埋蔵文化財センター長の藤田三郎さん(62)が、「ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡」(新泉社刊)を執筆し、出版された。遺跡と、邪馬台国の最有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(桜井市)との関係などを考察している。【藤原弘】
新泉社のシリーズ「遺跡を学ぶ」の中の1冊。遺跡で見つかった大型建物跡などの遺構のほか、楼閣などが描かれた絵画土器や銅鐸の鋳型外枠などについて説明。弥生時代前期から古墳時代前期までの4時期に分け、発掘成果を図示した。
弥生時代終末期から古墳時代前期の集落の姿にも言及。廃村になったかどうか分からないが、纒向遺跡ができてからも唐古・鍵遺跡は存続したとし、「唐古・鍵の人たちが営々と築き上げてきた高度な文化が、次の時代へと継承されていったからこそ、この地域(奈良盆地東南部)に王権が誕生することになった」と論じる。
唐古・鍵遺跡は動物の骨や植物の種子などが状態良く残っているのも特徴。日本最古とされる紀元前4世紀後半のニワトリの骨が確認されたことなども紹介し、藤田さんは「情報量の多い遺跡だと知ってほしい」と期待する。
藤田さんは同志社大2年生だった1977年、県立橿原考古学研究所による唐古・鍵遺跡での第3次調査に参加したのが同遺跡での調査の最初。82年からは町職員として発掘調査に関わり、定年退職後も町に再任用されている。
発掘調査は今では第126次に及んでおり、藤田さんは「自分が一生かかってもまとめきれない刺激を受ける遺跡。ポイントを絞って皆さんが知りたいと思われることを書いた」と話す。
毎日新聞 2019年5月15日
https://mainichi.jp/articles/20190515/ddl/k29/040/507000c?inb=ra AD 238
アマテラス御杖代(トヨ スキイリヒメミコト) →朝貢(ナマオナホ+ドレイとかいろんなもん)→ 明帝
アマテラス御杖代(トヨ スキイリヒメミコト) ←下賜(倭王とか一杯いろんなもん)← 明帝「いいもんくれた オマエを倭王にしてやる」
AD 240
アマテラス御杖代(トヨ スキイリヒメミコト) ←下賜(仮の倭王とかいろんなもん)← 斉王「まえのヤツは死んだ 挨拶だ おまえのことよく知らんから一旦仮の倭王にしてやる」
アマテラス御杖代(トヨ スキイリヒメミコト) →(お、ありがとな)→ 斉王
AD 244
アマテラス御杖代(トヨ スキイリヒメミコト) →朝貢(ドレイとかいろんなもん)→ 斉王「おい だれか黄色い旗刺しでもやっとけ ん? もってけるやつがいないのか?」
AD 247
アマテラス御杖代伊勢斎王(ヤマト ヒメミコト) →(クマソどもぶっころしにいった キャハ)→ 斉王
AD 248
アマテラス御杖代伊勢斎王(ヤマト ヒメミコト) →朝貢(ナマオナホ+ドレイとかいろんなもん)→ 斉王
以後、ずっと交信記録なし
一致 まあ卑弥呼を共立した勢力も直ぐに仲間割れしたんだろう
卑弥呼亡き後男王が立つも内乱
纒向遺跡吉備系の土器は台与の頃にはぐっと減る
卑弥呼の後の男王は吉備が母体だったんじゃないか?
その後吉備津彦による温羅の征伐
この辺は牛鬼伝説に繋がるな
石が海神牛鬼を乗っ取る話
牛鬼の娘、磯女は石の子を産むようになる >>848
いや、そういう意味ではない
「王」は中国が見下した称号なんだよ
金印もそう
漢委奴國王
漢の時代は人偏がついていないw
猿扱いだ >>853
委の字は、倭ではなくイト国の音訳という説も有る
伊都国の漢語すら曖昧だった時代だったうえ、江戸時代の学閥争いに巻き込まれた過去も事実。 >>855
色々な説があるとは思うが
魏の時代になって人偏つけてくれているので
ありがたやと思っているw 魏志倭人伝に畿内や本州のことが出てたっけ。
それに纒向遺跡って4世紀か5世紀ぐらいの遺跡だろ。
卑弥呼は2〜3世紀の地域連合の女王なんだが >>857
出ている
東にも倭人と同じ亜種がいると一言だけ 公孫氏が滅ぼされる前は
漢ではなく、公孫氏に朝貢してたんだろな 暦年代 纒向編年 土器出土遺構 対応する土器型式
180年-210年 纒向1類 北溝北部下層 灰粘土層 弥生V様式末
210年-250年 纒向2類 辻地区土坑2 庄内I式(庄内古式)
250年-270年 纒向3類 南溝南部 黒粘土(1)下層 庄内II式(庄内新式)
270年-290年 纒向4類 辻地区土坑4下層 庄内III式(庄内新新式) 布留0式
290年-350年 纒向5類 辻地区土坑4上層 辻地区土坑7 布留T式 明治時代に東大の学者たちが九州説で幕を閉じたのだが
京大の内藤湖南が魏国が東と南を間違えたとするキチガイ説に
のっかたのが畿内説
頭おかしいわ
まあ金が欲しいのだろうから電通から研究費もらっとけよって話 まちがいなく九州説がおかしいからな
学会では相手にされてない 重要なのは古墳やな
それだけの人員を動員できる王朝の存在が確認できる
それ以外は単なる生活の残骸でしかない >>863
じゃあ3世紀に畿内の国が北九州まで支配してたと言う根拠はなに?
崇神天皇の頃はまだ北九州まで支配できてないよ? 九州王朝説・多元王朝説
弥生中期から卑弥呼の時代はもとより7世紀にいたるまで、ヤマト王権のみならず、日本列島内において様々な勢力圏、連合独立地域自治権、が存在していた、
という多元王朝説が古田武彦らによって1970年代以降提唱され、かつては歴史愛好家などから一定の支持を得たこともあったが、
存在している文献資料の検討や古墳をはじめとする考古資料から、現時点において、学界は「この説は信憑性に欠けている」としている。
なお、これをさらに発展させ、九州王朝のみが存在したとする九州王朝一元説や、大和に王朝は存在せず、本来は豊前の王朝だったとする豊前王朝説、
九州王朝と東北王朝のみが存在し、大和は東北王朝の支配下にあったとする東北王朝説もあるが、多元王朝説論者も含めて学界からは無視されている。
コレが現実だからな 7世紀について書かれた旧唐書の倭国は新羅の東南で14000里と書かれていて距離が2000里延びている。
ここで倭国は出雲・吉備まで含んでいるのだと思われる。
朝貢は〜631年まで。
そして壬申の乱、白村江の戦い。
ここでようやく統一政権誕生。
702年〜
同書で日本国として登場するのは畿内大和政権で間違いないと思う。
大量に文献を持ち帰った遣使がいる。
大和政権はこの書物から初めて邪馬台国の歴史を知ったのかもしれない。
天武は自分たちの歴史も文書で残すべきと考え、国史の作成を指示した。 >>866
学会って何?
金儲けの為の既得権益じゃないか
原発が爆発してもニコニコ笑っていれば放射能は
よってきませんと言った学者と同じ
邪馬台国は九州で決まりなんだよ
残念だったな >>851>>861 ← このとおり3世紀の話だからな 巨大古墳の畿内か
巨大環壕集落の九州だと思うが
邪馬台国の倭国大乱からの連続を考えれば九州になるわな 放射脳と九州説は
低学歴知恵遅れがかかるオツムの病気
わかるわ >>872
魏志倭人伝に環濠集落がでてくるが奈良に環濠集落ある? >>37
植民地の総督なんだよ、総督が勲章をぶら下げてても何もおかしくはないだろ >>866
縄文期から続く民俗的史跡からすると、多元王朝(政権)が妥当かと思われるが、
天皇家との関係上、発掘は極端に制限されているので、抽象理論が優先される学会では
北九州説が優勢になるのかもしれない。
天皇陵をすべて自由に調査できれば諸説がまとまると思う。 百年以上戦乱続けてきた九州の軍事特化型小国家群を遥かに遠い畿内の国が支配するのは無理じゃないか?
九州で何かあっても畿内に情報から伝わるまでに一ヶ月以上かかるし
それで畿内から兵を派遣するのにさらに一ヶ月以上かかる
さらに卑弥呼のお言葉を畿内から九州に伝えるのも一ヶ月以上かかる 某考古学研究所も大変だな、大勢の生活がかかっているもんな
でももうそろそろいいんじゃないか、ご本人らもわかっているだろw 畿内の大和王権が九州を完全支配できるようになったのは数百年後の5世紀6世紀だろ >>877
参勤交代で薩摩から江戸へ向かう日数は
長くて2か月かかったらしい
雨季とかの時期によっても日数は異なるだろうけど 九州の倭国大乱後になぜ数百キロ離れた奈良盆地で卑弥呼を立てて崇めることになるのかが理解できない
あまりにも遠すぎる
ぶっちゃけ九州から奈良盆地だと九州から楽浪郡よりも遠い >>877
歴史的事実として4世紀には三韓征伐がある
朝鮮半島への出兵は、国内があらかた統一されてる事を示唆している
戦乱が続いている状況では朝鮮半島に出兵できないからな >>878
ありえないね
邪馬台国と卑弥呼が唯一出てくる倭人伝を無視している
まあ、そうういう奴らだよ
奈良県民の事を言っているのではない >>881
弥生時代だと江戸時代のように宿場町もないし道もかなり悪路だろうし
戦乱中の九州諸国を畿内から支配するのは無理ゲー 九州の小国家群を畿内・東海・北陸・山陰・山陽を抑えた広域国家が征圧するのは容易い話 弥生時代だと江戸時代のように宿場町もないし道もかなり悪路だな
実際、陸路伝いで制圧してるわけじゃないね
海路がある ぜんぜん違う
北部九州はすでに
天照皇大神宮をみれば分かる通り
すでに西暦200年頃には
大和朝廷が勢力の版図入れてたのは明らかだからな
南部九州は9世紀初頭まで朝廷の公民ですらない
>>814>>821
低学歴知恵お遅れは
ホントに歴史を知らずにテキトーなこといってる
まず隼人の乱がいつおこったのかすら知らない >>884
仮に本当に三韓征伐が本当にあったとしても4世紀末から5世紀だろ?
邪馬台国は3世紀中盤
百年以上離れてる >>859
倭種だろ「東」にいるのは。
倭種=同じ倭人だけど倭国に属さない人間
ほら、魏の使者は(九州より)東に海を渡れば倭じゃない国と言ってるじゃんw 古墳は勢力の大きさを示すシンボルとして作られたのかもな
大きなものほど、それだけ大勢の人を動員しなければ作れない
勢力の小さな国は、古墳を見比べて、戦わずして傘下に降ったのだろう >>887
4世紀の崇神の頃ですら未だ大和の国は九州を支配できてない >>890
三韓征伐は太平記に一部出てくるが
誰が書いたのか分からない そう
東の夷人雑類はコイツラ
田舎もんは朝廷の公民ですらなかった夷人雑類
北部九州、山陰、北陸 (つまり新羅系)
↓ ↓ ↓ (倭国大乱)
関東 東北
↓ (征 夷 大将軍の 坂上田村麻呂)
東北
東北にも古い八幡神社があるのはなんでか
もう分かるな 朝廷の支配で起きた「乱」だろうに
隼人の一部は、神武の当初から服属してる 纏向遺跡で暮らしていた卑弥呼の墓がどうして福岡県久留米市にあるのか理解が出来んよ
卑弥呼の墓は郭が無い石棺だけで百体ほどの殉葬者がある墓だから、祇園山古墳以外には
考えられん。 大和は4世紀の崇神から5世紀の応神まで100年以上かけて九州を制圧してる
3世紀の卑弥呼のころはまだ九州は大和の影響下にはない
三韓征伐はかなり後世のお話し それまで九州南部の土人は
大宝令の賦役令にもあるように
朝廷の公民ですらない
土人扱いだからな
↓このとおり
凡邊遠國。有夷人雑類謂。夷者夷狄也。雑類者夷之種類也。釋云。夷。東夷也。挙東而示餘。推可知雑類。謂夷人之雑類耳。
古記云。夷人雑類謂毛人。肥人。阿麻彌人等類。問。夷人雑類一歟二歟。仮令。隼人。毛人。本土謂之夷人也。此等雑居華夏。謂之雑類也。
一云。一種無別。 之所。應輸調役者。随時斟量。不必同之華夏。謂。中國也。
隼人もちゃんと入ってる
分かった? 日本が律令の時代になっても
東北では田舎もんが住む区域と野蛮な土人が住む区域の境界が↓コレになる
http://livedoor.blogimg.jp/itotaku77/imgs/2/a/2a761c8e.jpg
柵より向こうは
ずっと日本じゃなかったからな
野蛮人が住むエミシ土人(つまり 新 羅 系 の 俘 囚)地域
コイツラは公民になるまでヤマトの民じゃなかったワケ
南部九州の隼人土人と同じ
九州、東北の田舎もん土人がヤマト民族を自称するとか
わらっちゃうワケ どうでもいいけど奈良はちょっと掘るだけで土器とか遺跡とか出てくるから一向に工事が進まない
これをどうにかして欲しい 蝦夷土人が住んでる場所との境目が越後だからな
つまり辺境の地が越後
朝廷の公民と認められる田舎もんは越後まで
越後超えたら朝廷の公民と認められない土人の巣なワケ
越後でも沼垂城より先は土人が住む魔界
概ね阿賀野川が境になる
越後には渟足柵がある
コレで土人の侵入をふせいでた
渟足柵は
これより先は野蛮な土人が住んでたことを示す遺構になる つまり東北は
普通にいまの半島人じゃない半島のヤツラが支配してた
のちに俘囚となって
その俘囚が勢力をもつようになった
前九年の役とか普通に半島人がまぎれこんでたからな
平泉なんかもろ新羅系
安倍氏も間違いなくもろ新羅系だからな 卑弥呼=神功皇后
でほぼ間違いないと思うわ
あと、魏は任那も倭とみなしていた考えればいい >>889
西暦200年頃に天照皇大神宮が九州にあったって思ってるのか?アホなのか君は >>902
工場とか高速道路つくれば?
一挙に解決する 何度も書くわ
大宝令の賦役令にもあるように
朝廷の公民ですらない
土人扱いだからな
↓このとおり
凡邊遠國。有夷人雑類謂。夷者夷狄也。雑類者夷之種類也。釋云。夷。東夷也。挙東而示餘。推可知雑類。謂夷人之雑類耳。
古記云。夷人雑類謂毛人。肥人。阿麻彌人等類。問。夷人雑類一歟二歟。仮令。隼人。毛人。本土謂之夷人也。此等雑居華夏。謂之雑類也。
一云。一種無別。 之所。應輸調役者。随時斟量。不必同之華夏。謂。中國也。
大宝令の賦役令の引用だからなコレ ウンコキーワード: 新羅系
ウンコ韓国人はお呼びじゃない >>906
ちなみに応神天皇は5世紀な?
神功が仮に実在しても卑弥呼とは百年以上違うなんの関係もない人物 清和源氏を自称してる甲斐源氏の武田氏とか小笠原氏とか
普通に新羅系だからな
朝鮮由来
長野県の新羅神社(2)
三、神社の由来
更に、小笠原氏の祖は加賀美遠光(新羅三郎義光の孫)の子・小笠原長清であるので、 新羅明神の勧請は小笠原氏の氏族的な因縁もあるものと考えられる。
当神社には明治初年まで「新羅大明神」の社額(現在社宝で二面、蔵されている)が 元禄三年建立の石の大鳥居に掲げられていたという。
前宮司・倉田氏に新羅明神の像が見られないかと尋ねたら写真をみせてくれた。 像は朝鮮風の服装で頭に烏帽子風のかぶりものをした坐像である。
像には極彩色が施され、顔は博多人形のような感じがした。 両腕を膝の上に乗せて落ち着いた上品なイメージであった。
『阿智村誌』によれば、「当社の新羅明神像は江戸時代の造立であるが、 一見して渡来神であることが知られる形容の倚(い)像である」と説明されている。 関東の清和源氏は系図を偽造してる
あいつらの出自は新羅系
八幡太郎 賀茂次郎 新羅三郎
もろ新羅系
ホモ信玄の祖先も
石橋八幡神社を創建した新羅三郎義光 >>906
卑弥呼の時代に三韓なんか存在しないわw
神功皇后の時代とは時代が違いすぎるアホ丸出し >>908
土台の基礎作る時に出てくるから道路もまともにできないよ
だからみんな無視して申告しない >>912
朝鮮人は一切日本人と関係ない
ATLウイルスを持っている人間がいない >>376
日向には熊襲も隼人も土蜘蛛も新羅も居ない。
日向隼人と記される箇所があるが、日向から薩摩大隅が分けられる以前
であり、薩摩国・大隅国の設置以後に日向隼人と記される箇所は無い。
百済の伝承はあるようである。 うわあ、、、
チョンコもどきの土人どもが
大和朝廷を朝鮮系とかいいはじめてる。。。 網野善彦 『宮本常一「忘れられた日本人」を読む』 (岩波現代文庫)
私がこの『東日本と西日本』を読んで、とくに衝撃をうけた記憶がはっきりとあるのは、小浜基次さんの論文でした。
小浜さんは大阪大学の名誉教授で、形質人類学・解剖学の専門家、1904年に生まれ、1970年に亡くなっておられます。
この文章は短いものですが、小浜さんは形質人類学の立場から日本列島の、東と西に住む人びとの差異をいろいろな角度から指摘しておられます。
その中で私がもっともショックを受けたのは、朝鮮半島人と、近畿、瀬戸内海沿岸の人びとがきわめてよく似ており、形質上は同じであると指摘されている点です。
そしてそれに対して、山陰・北陸と東北の人びとと近畿人との差異は、朝鮮半島人と近畿人の違いに比べて、はるかに大きく、
東北、北陸の人びとはむしろアイヌに近いと小浜さんは強調しておられます。
これは頭部の特性、短頭、中頭、長頭をはじめ、身体的な特質から導き出された結論ですが、さらに衝撃だったのは小浜さんの、被差別部落に踏み込んだ発言でした。
小浜さんは大阪大学の方ですから、ここまで立ち入っておられるのですが、この論文の書かれた時期には、
被差別部落民は朝鮮半島から渡ってきた人たち
だというとらえ方をする人たちが、実際に関西では少なからずあったと思います。
これに対して、小浜さんはとんでもない誤りで、むしろ部落を差別している人びとの方が朝鮮半島人にそっくりで、差別されている被差別部落の人びとは、
東日本人、東北北陸型の人びととむしろ形質上はよく似ているとされています。
小浜さんは被差別部落の人びとが朝鮮半島からきたなどということはまったくの誤りだと強調されているのです。 >>919
九州は朝鮮系かもしれんが大和は中国系だろうな >>911
七支刀銘文の泰■四年は泰始4年
そう考えれば年代の差はなくなる 栲衾 志 羅 紀 の三埼を、国の余りありやと見れば、国の余りあり、と詔たまひて、
乙女の胸取らして、大魚の支太衝き別けて、波多須々支穂振り別て、三身の網打ち挂て、霜黒葛闇や闇やに、河船の毛曽呂毛曽呂にき国来国来と引き来縫へる国はや
出雲風土記の国引き神話からも
出雲が新羅の半島系なのがわかる
宇佐神宮Webページ
http://www.usajinguu.com/shinbutsu.html
8世紀の『豊前風土記』には、「むかし新羅の神が渡ってきて、この河原に住んだので鹿
春郷(かわらのさと)と名づけた」ことなどが記されています。つまり、田川郡には銅を産
する香春岳があったので、新羅国(しらぎのくに)の神を祀る技術集団が住んでいたことが
分かります。
つまり、北部九州も
出雲信仰、白山信仰と同じく新羅系
つまり渡来神
そして福井にも大量の新羅神社がある
アホじゃなければもうわかるっしょ
ヒスイの分布、白山信仰の分布をみれば分かる通り そもそも、魏から来て、本土にある巨大な勢力を確認せずに
小さな九州をちょろっと見ただけで帰るような
そんなガキの使いみたいなものとは考えにくい 新羅系は一杯いたからな
北部九州、山陰、北陸とたくさんいたからな
いまでいえば
丁度、北朝鮮の工作員が日本海側に漂着するのと似てる >>922
それの何が証拠になるのかがさっぱりわからんが?
応神は5世紀の天皇だぞ?なぜ神功皇后が3世紀にいたことになるの? >>925
魏志倭人伝には、東の海の向こうに(見える)土地があって、そこに住むのも倭人と書いてあるから、九州にしか寄ってないよ。
見えたのは四国だ。 そもそもスサノオが渡来神だからな
その漂着した新羅系の土人は
倭国大乱のあと
北部九州、山陰、北陸からおわれることになる
関東、東北へと逃げることになる
そして、朝廷が関東東北の土人どもをしばきにいくのが
坂上田村麻呂になる
坂上田村麻呂が土人の巣を一掃
坂上田村麻呂は
征 夷 大将軍だからな 卑弥呼末期の魏と同盟を結んだ頃(3世紀中葉)には、
魏志倭人伝にあるように半島南部はまだ馬韓・辰韓・弁韓の時代。
「歴韓国‥七千里」がそれ。
百済や新羅が現れるのは4〜5世紀のころ。残念でした<卑弥呼=神功皇后説 >>925
北九州と畿内が対立してたのなら北九州に来た使者が畿内に行くのは無理だろ? 新羅系なんか全然登用されてない
ほとんど、奴隷か経済難民だから
漢人系 163氏
百済系 104氏
高句麗系 41氏
新羅系 9氏
加羅系 9氏 >>925
そもそも道や港が全く整備されていない時代に九州から近畿地方まで行くのはかなり難易度が高い いまのハカタの土人ぶりをみれば
いかに土人かよくわかるだろ なんで愛知が多いか?
愛知県より東の各都県の部落には、必ずといってよいほど白山神社が祀られている
愛知県は、西日本と東日本のちょうど中間地帯だが、部落内に白山神社があるのは、かつての三河国に限られ、尾張国には存在しない
愛知でも三河に集中してる
三河の東国武士()なんか、ほぼ元エタヒニンだからな
ココは境界
クサナギノツルギが祀られてる熱田神宮がある理由を考えればいい
ヤマトヒメがヤマトタケルノミコトに託したツルギになる
ノブナガさまも東国からやってきた夷人雑類をやっつけるまえに
熱田神宮にお参りして桶狭間で東国の夷人雑類(今川義元)をやっつけてる >>934
日本人なら全員が縄文の遺伝子持っているよ >>932
肖古王は4世紀中頃
応神は4世紀末から5世紀
神功皇后が実在したら4世紀中頃から4世紀末になるね
間違いない
ちなみに卑弥呼は3世紀
崇神天皇は3世紀末から4世紀
ちょっとは整理してからレスしろよ
お前の話は100年以上ずれてるんだよ >>905
熊襲は用いられなかったが隼人は用いられた
職を終えた後は畿内で良民として編入された記述がある >>501
村起こしは昔ほどじゃない
今は韓国起こし
吉野ヶ里遺跡の近くに王仁博士顕彰公園が作られた
韓国人が百済門を作って、開園式は韓国人参加で大々的に行われた
九州説からの韓国説だよ
日本の半島系歴史学者が歴史改竄に加担するだろうから注意しないと >>940
おまえはさっきからなんの話をしてるの? >>1
日本が経済的にも社会的にも厳しい現実に直面しているから、
歴史の妄想に頭を突っ込んで幸せでいられるのは羨ましい。 日本にいる夷人雑類の話をしてる
田舎もんの夷人雑類がヤマト民族ヅラしてるから注意してる >>946
卑弥呼の時代に百済なんてないよ?
半島は中国が今のソウル辺りに帯方郡を設置して南部まで直轄統治してたそういう時代 明治時代に戸籍が作られたが朝鮮人は数名しかいなかった レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。