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【古代】日本人の祖先は色黒!? 縄文人のゲノム解析に成功 「今後、弥生人のDNAと比較し、現代日本人の成り立ち解明したい」★2

レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
0001樽悶 ★
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2019/05/24(金) 20:06:17.53ID:oMloPkCA9
縄文女性の復元像/Credit:国立科学博物館
https://i2.wp.com/nazology.net/wp-content/uploads/20190513-00000084-jij-000-6-view.jpg

Point

■縄文時代の女性の人骨から、すべての遺伝子情報を解析することに成功

■その結果、縄文人は色黒で茶色の瞳、そしてアルコールに強い耐性を持っていることが判明した

■遺伝子的には東アジア大陸の人々に近く、現代日本人とは大きくかけ離れた特徴をしていた

縄文時代の女性はかなりの酒豪だったようだ。

国立科学博物館の研究チームは先日13日、縄文時代の女性の人骨(大臼歯)から全ての遺伝子情報を解析することに成功したと発表。

その結果、縄文女性は濃い色の肌に茶色の瞳、細く縮れた髪をしていてシミができやすく、アルコールに強い耐性を持っていたことが判明した。現代の日本人とはかけ離れたイメージだ。

さらに縄文人はおよそ2万〜4万年前に、アジア大陸に住んでいた集団から別れていたことも明らかとなっている。これにより、日本人発祥の起源が解明されるかもしれない。

研究の詳細は、今月末に学術誌で発表される予定だ。

■現代の日本人と全然違う!

縄文女性の人骨が発見されたのは1998年で、場所は北海道・礼文島(れぶんじま)にある船泊(ふなどまり)遺跡だ。人骨の保存状態が良かったことで、現代人のゲノム解析と同等の高い精度でDNA配列を特定することに成功した。

そのおかげで、縄文女性は今からおよそ3960〜3550年前のどこかで生きていたことが分かっている。

他にも高脂肪食に適応した遺伝子が見つかっており、これは当時船泊に暮らしていた縄文人が脂肪分の多いアシカなどを食料にしていたことが原因であるようだ。

このDNA配列を東アジア大陸の人々のDNAと比較してみると、縄文人の祖先となる人々は約3万8千年前〜1万8千年前に集団で日本列島にやって来ていることが判明した。

ちなみに縄文時代はおよそ1万6千年前に始まって、2300年ほど前まで続いたと考えられている。その後、縄文人は大陸からやって来た弥生人と遺伝子的に交わっている。

また今回のゲノム解析によって、縄文人から現代人に受け継がれているDNAの割合に大きな地域差があることも分かった。東京で採取したDNAサンプルでは約1割、沖縄では約3割、北海道のアイヌでは約7割に縄文女性との一致が見られた。

遺伝子的には日本人よりも、韓国や台湾、フィリピン人に近いようだ。

そしてもう一つ、縄文女性は湿った耳垢をしていたことも分かっている。しかし乾燥した耳垢への遺伝子変異はアジア北東部に端を発しており、現代の東アジア人のおよそ95%が乾燥する耳垢の遺伝子を持っている。これは興味深い事実だろう。

つまり縄文女性の特徴は、われわれ現代の日本人とは大きくかけ離れているというわけだ。日本人のお酒の弱さを考えると、ものすごい下戸な遺伝子がどこかで交ざっていたりするかもしれない。

研究チームの神沢秀明氏は「今後、弥生人のDNAなどと比較して、現代日本人の成り立ちを詳しく解明したい」と話している。(文/くらのすけ)

2019/05/23
https://nazology.net/archives/38975

★1:2019/05/23(木) 19:34:25.32
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1558607665/
0851名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 15:35:22.70ID:cwr4LW5x0
すくり【村主】 世界大百科事典 第2版解説

日本古代の渡来系氏族の姓(かばね)の一つ。〈すぐり〉ともいう。
村主を〈すくり〉と読むのは,古代朝鮮語の郷,村を意味するsu‐kur(足流)という語に由来する。
5世紀以降,主として朝鮮百済から渡来した技術者集団である漢人(あやひと)を,各国内の村に配置したさいに,
各集団を統率した渡来人の長を村主と呼称したものらしい。

やがて姓制が確立すると,称号である村主も姓の一つとなり,また後には氏名ともなった。
村主の姓を称する氏族には,高向(たかむく)村主,西波多(かわちのはた)村主,平方村主などがおり,
仁徳天皇の時代に百済などから村落の人たちが,こぞって日本に渡来したとする伝承を持ち,いずれも,
後に坂上氏となる東漢(やまとのあや)氏の統轄下に,各種の技術者集団の統率者の役割を果たしていたらしい。

新撰姓氏録
831 右京 諸蕃 漢 錦織村主 村主  出自 韓国人波努志也



東漢氏は応神天皇の時代に百済(出身地は加羅諸国の安羅か)から17県の民とともに渡来して帰化した
阿知使主を祖とする氏族(東漢氏という個人名ではない)。
東漢氏は飛鳥の檜前(桧隈:ひのくま−奈良県高市郡明日香村)に居住して,大和王権(大和朝廷)のもとで
文書記録,外交,財政などを担当した。また,製鉄,機織や土器(須恵器:すえき)生産技術などももたらした。

始祖に渡来系である阿知使主を持つ坂上氏で代表的な人物といえば、征夷大将軍であった坂上田村麻呂。
大阪生野に隣接し、百済貨物ターミナル駅のすぐ隣りに位置する平野神社は坂上田村麻呂の子の坂上広野によって開拓された地。

百済ターミナル駅
http://www.youtube.com/watch?v=oL4Hua-v8LY
0852名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 15:35:51.37ID:9NopSFnE0
欧州人のクラスター分析
https://www.pnas.org/content/pnas/113/25/6886/F2.large.jpg?width=800&;height=600&carousel=1

フィンランド人とノルウェー人が同じグループ
フィンランド人 N:63.2%、I:28.9%
ノルウェー人 I:42%、R1a:25%

ドイツ人、ハンガリー人、ルーマニア人、ブルガリア人が同じグループ
ドイツ人 R1b:44%、I:20%
ハンガリー人 I:28.37%、R1a:25.6%
ルーマニア人 I:27.9%、R1a:20.1%
ブルガリア人 I:26.6%、E1b1b:22.1%


クラスター分析は、地域的に固まる傾向があって、実際の民族分布を反映しない
0853名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 15:36:53.73ID:PhqVc4SV0
>>849
イギリスではまさにそういう認識ですよ。だから男系にこだわらない。
0855名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 15:39:04.59ID:Hy/FLQ5t0
>>853
えっ、イギリス人では、
チャールズ皇太子みて、あいつはドイツ人って言ってるの?

ソースが神功皇后の逸話だったり、だった1つの遺跡だったり、ホントに都合のいい解釈だな。
0856名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 15:39:15.62ID:cwr4LW5x0
前天皇陛下「ゆかり発言」

前天皇陛下
日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。
韓国から移住した人々や,招へいされた人々によって,様々な文化や技術が伝えられました。
宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。
こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。
日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,
続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。
武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。
また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。
0858名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 15:40:58.42ID:cwr4LW5x0
安倍晋三著『美しい国へ』(文春新書)

「日韓両国はいまや一日一万人以上が往来しているという重要な関係にある。
日本は長いあいだ、韓国から文化を吸収してきた歴史を持つ。その意味では、韓流ブームはけっして一時的な現象ではない。
わたしは日韓関係については楽観的である。韓国と日本は、自由と民主主義、基本的人権と法の支配という価値を共有しているからだ。
これはまさに日韓関係の基盤ではないだろうか。」 (P157)
0859名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 15:42:04.61ID:J/W1V/b00
 >■現代の日本人と全然違う!

本文と全く関係ない見出しを挿入するんじゃないよ、チョーセンジン。
0860名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 15:42:21.95ID:cwr4LW5x0
梅原猛

「中国の先進文化は韓国を経由して日本に入った。 私は今月、『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く』という本を出すが、
出雲王朝の創立者は韓国から来たと考えている。 『日本書紀』に多くの文書があるが、そのうち3つの文書は‘韓国系’と把握している。
これは新しい考えだ。 弥生(BC200−AD300)時代には日本海(東海の日本式表現)側が日本の中心部だった。
したがって越の国、今の新潟県から移ってきた国が出雲を支配していたが、韓国から来たスサノオ(日本神話の人物)が出雲を
越の国の支配から独立させた。 出雲王朝の創立者は韓国系と考える。 その証拠に出雲王朝の遺跡から銅鐸が出てきた。
大和王朝の鏡に代わるものだ。 銅鐸の起源は韓国の貴族が双頭馬車に付けて入った鈴だ。 (神話に出てくる)スサノオが
韓国から渡ってきたとする説はますます有力になっている。 新しい日韓関係を見せてくれる。 韓国にまた注目しなければならない。
古代日本にとって韓国は文明国であったし、さまざまな文化を伝えてくれた恩人だった。」
0861名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 15:42:24.07ID:PhqVc4SV0
>>855
そんなことも知らないのかw
ダイアナ問題はイングランド系のダイアナがドイツ系のウインザー家にやられたという認識からおこっている。

よって、ドイツ系の男系などにイギリス国民はこだわらない。
0862名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 15:43:23.23ID:cwr4LW5x0
朝鮮半島の新羅からスサノオが渡来し、大国主から国譲りさせ出雲を征した(ヤマタノオロチ伝説)
そして吉備を経て物部政権を樹立した(奈良の纒向)
物部政権は初代神武から16代仁徳までであって
この初代から16代あたりまでの天皇(大王)は架空の存在であったが、実在のモデルは存在する
神武・応神なんかはスサノオであり、スサノオは新羅の王子であった天日槍であり
八坂神社でお馴染みの牛頭大王であり、敦賀の地名の由来にもなって敦賀駅前に銅像もある
都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト・ツノガアルヒト)であり、蘇民将来伝説の武塔神であり
ヤマトタケルでありと、挙げていったらキリがないからこの辺にするが、とにかく記紀等
日本の正史として捉えられている日本国の始まりとしては、この古代朝鮮人であったスサノオがパイオニア
実際日本が独立国家らしい姿を見せてくるのは継体・欽明のヤマト政権辺りからで
現代日本の礎を築いたのは天武天皇
実際「天皇」という称号を使い出したのも天武天皇と言われてて、それまでは小国の王を纏める
ヤマト政権の首長という意味で大王(オオキミ)と呼ばれていた
天武天皇は伊勢神宮の式年遷宮を制定し、崇拝を広めた人物であるが
本人は道教にも傾倒していて、天皇という称号を使用しだした理由も
唐の高宗が674年に自らの称号を皇帝から「天皇」に変えたから
この情報が遣唐使を通じて天武朝に伝えられ、689年に編纂された日本史上初の
体系的な法典といわれる飛鳥浄御原令に於いて「天皇」の称号が日本で初めて使われるようになった
この天武天皇は、高句麗末期の宰相であった淵蓋蘇文だという説も歴史ファンの間で支持されている
0863名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 15:43:28.40ID:9NopSFnE0
ID:Hy/FLQ5t0 王族が―
ID:cwr4LW5x0 コピペ
樽悶 ★

こいつが出てくると議論不可能
0865名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 15:43:44.12ID:PhqVc4SV0
>>857
本性隠さなくなりましたねw
0866名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 15:44:01.53ID:Hy/FLQ5t0
>>861
は?

だから世界の常識はY遺伝子にこだわってないって事だろ?アホかよ。

Y遺伝子って言ってんのはネトウヨだけって事だよ。
0867名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 15:44:32.82ID:cwr4LW5x0
まず伊勢神宮は純日本様式であるとされてきたけど、
実は伊勢神宮正殿の手摺には、火焔文様のついた珠玉の色彩配置があり、
道教由来のモノだということが最近判明したばかり

日本書紀によると、伊勢神宮祭神である天照大神は高御産巣日神と婚姻関係にあり、
天照大神は高御産巣日神の並列神であり、高御産巣日神こそが主神とされている
そしてこの高御産巣日神は朝鮮から来た神だということ
元は地方豪族から生まれ出た天皇は、土着系と渡来系の混血であり、
「神武天皇以来、万世一系 125代」とされてきた天皇家を否定する事実なので、
意図的に、巧みに隠蔽改竄され続けてきたというわけだ


敦賀の地名の由来にもなって敦賀駅前に銅像もある
都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト・ツノガアルヒト)
これも古代朝鮮の王子であったスサノオ本人である
http://pandapanda6289.up.n.seesaa.net/pandapanda6289/tsuruga/a0728005.jpg
0868名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 15:44:47.15ID:dfZojFxN0
じゃ色白の縄文顔のおいらの先祖はどこから来たんだろ?w
0869名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 15:45:07.91ID:9NopSFnE0
ID:Hy/FLQ5t0 王族が―
ID:cwr4LW5x0 コピペ
樽悶 ★

このウンコが出てくると議論不可能
0870名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 15:45:27.12ID:Hy/FLQ5t0
>>865
世界の常識はどこにいったんだよ、

ゲノムが重要視されないソースは?

全部お前の脳内ソースかよ。
0871名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 15:46:46.14ID:cwr4LW5x0
>>869
貴様らの妄想、戯言など議論するに値しない
0872名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 15:46:57.42ID:PhqVc4SV0
>>866
まあ、朝鮮遺伝子は日本に関係ないことは理解できてよかったですねw
0873名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 15:48:23.04ID:cwr4LW5x0
八坂神社 創祀

当社は慶応4年(1868)5月30日付の神?官達により八坂神社と改称するまで、感神院または祇園社と称していた。創祀に
ついては諸説あるが、斉明天皇2年(656)に高麗より来朝した使節の伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊を
山城国愛宕郡八坂郷の地に奉斎したことに始まるという。

また、一説には貞観18年(876)南都の僧円如が建立、堂に薬師千手等の像を奉安、その年6月14日に天神(祇園神)が東の麓、
祇園林に垂跡したことに始まるともいう。

伊利之来朝のこと、また素戔嗚尊が御子の五十猛神とともに新羅国の曽尸茂梨(そしもり)に降られたことは、ともに『日
本書紀』に記されており、『新撰姓氏録』の「山城国諸蕃」の項には渡来人「八坂造(やさかのみやつこ)」について、そ
の祖を「狛国人、之留川麻之意利佐(しるつまのおりさ)」と記してある。この「意利佐」と先に記した「伊利之」は同一
人物と考えられている。伊利之の子孫は代々八坂造となるとともに、日置造(へきのみやつこ)・鳥井宿祢(とりいのすくね)
・栄井宿祢(さかいのすくね)・吉井宿祢(よしいのすくね)・和造(やまとのみやつこ)・日置倉人(へきのくらびと)などと
して近畿地方に繁栄した。

天長6年(829)紀百継(きのももつぐ)は、山城国愛宕郡八坂郷丘一処を賜り、神の祭祀の地とした。これが感神院の始まり
ともされている。そして、八坂造の娘を妻とし、男子のなかった八坂造家の職を継承したといわれ、その後裔である行円
(ぎょうえん)は、永保元年(1074)に感神院執行となり、以後子孫代々その職を継ぎ、明治維新による世襲制の廃止まで続いた。


八坂郷鎮座大神之記
齊明天皇即位二年丙辰八月韓國之調進副使伊利之使主
再來之時新羅國牛頭山座須佐之雄尊之神御魂齋祭來而
皇國祭始依之愛宕郡賜八坂郷並造之姓十二年後
天地天皇御宇六年丁 社號為威神院宮殿全造營而牛頭
山坐之大神乎牛頭天王奉称祭祀畢
淳和天皇御宇天長六年右衞門督紀朝臣百繼尓感神院祀
官並八坂造之業賜為受續
奉齋御神名記
神速須佐乃男尊 中央座
『八坂社舊記集録』上
0877名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 15:49:42.95ID:cwr4LW5x0
668年に高句麗が滅亡すると難民・棄民となり倭国に亡命してきた高句麗人もあり、716年には武蔵国に高麗郡が建郡された。

高麗郡大領となる高麗若光には705年に王(こきし)の姓が贈られており、高句麗王族であろうとされる。

高麗郡高麗郷の地である埼玉県日高市にはこの高麗王若光を祭る高麗神社が今も鎮座する。

ほかにも『新撰姓氏録』には以下のような高句麗系氏族が見られる。

狛人…高麗国須牟祁王の後(河内国未定雑姓)
狛造…高麗国主夫連王より出(山城国諸蕃)
狛首…高麗国人安岡上王の後(右京諸蕃)
狛染部…高麗国須牟祁王の後(河内国未定雑姓)
大狛連…高麗国溢士福貴王の後(河内国諸蕃)
大狛連…高麗国人伊斯沙礼斯の後(和泉国諸蕃)
0878名無しさん@1周年
垢版 |
2019/05/28(火) 15:50:39.91ID:cwr4LW5x0
武王=舒明天皇、義慈王=孝徳天皇、翹岐=天智天皇、淵蓋蘇文=天武天皇、
武王の妃=皇極天皇、斉明天皇であり、智積=鎌足となり、金ユ信は淵蓋蘇文の義父となっている
さらに、文武天皇は淵蓋蘇文の子であり、新羅の文武王であったが、681年に死んだことにして
日本に亡命し、軽皇子として吉野で蟄居していた
そして文武天皇となったという話

日本正史では以下のようになっている

推古(592-628)→舒明(629-641)→皇極(642-645)→孝徳(645-654)
→斉明(655-661)→中大兄称制(661-668)→天智(668-671)→弘文(671-672)
→天武(673-686)→持統称制(686-690)→持統(690-697)→文武(697-707)
0879名無しさん@1周年
垢版 |
2019/05/28(火) 15:51:55.14ID:PwVWBR3t0
おかげでクッキリ二重で
目がくりくりです、オッサンだけど
0880名無しさん@1周年
垢版 |
2019/05/28(火) 15:53:35.30ID:9NopSFnE0
一部の形質遺伝子では役に立たない事例: 耳垢

全人類が保有してて、湿と乾の1bit情報しかない
乾が劣性遺伝子で、乾&乾の組み合わせでしか発現しない

何千何万年も経てば、地域環境に応じて各々の生存率が微小に変わり、今の分布になった可能性がある

特定民族固有のものじゃないし、ルートを追うのには適切じゃないね
0881名無しさん@1周年
垢版 |
2019/05/28(火) 15:54:36.23ID:cwr4LW5x0
>>873について

「ソシモリというのは、地名ではない「ソシ」は「高い柱」、
「モリ」は「頂上・てっぺん」の意味
したがって、「ソシモリ」は「高い柱の頂上」という意味だ」
「牛頭天王の「牛」は「ソ(シ)」という音にあたる漢字の牛を当てはめただけ」という

韓国慶尚北道高霊にはその昔「ソシモリ山」と呼ばれていた山が実在していたという
その山は高霊の現加耶山である
加耶山とは、仏教が伝わって以降の呼び名で、古代には「牛の頭の山」と呼んでいたそうだ
「牛の頭」は韓国語のよみで「ソシモリ」
その山が「牛の頭の山」と呼ばれたのは、加耶山麓の白雲里という村の方から見た時、
山全体が大きな牛が座っているように見えるからだという
さらに白雲里には「高天原」という地名まである
0883名無しさん@1周年
垢版 |
2019/05/28(火) 15:58:00.64ID:PhqVc4SV0
>>874
>>875
民族関係ないのが世界の常識といいながら、おまえら民族は無関係と言われて火病をおこしてるやつw

ゲノム理論を理解することは、自分たちが単なる労働者として移民してきただけのことを受け入れられないので火病です。
0884名無しさん@1周年
垢版 |
2019/05/28(火) 15:58:17.09ID:cwr4LW5x0
安羅神社 滋賀県草津市

「日本医術の祖神、地方開発の大神を奉祀する」とあり、祭神は天日槍命(新羅の王子)とする。
「近江国の吾名邑」は、ここ「穴村」に比定する。天日槍が巡歴した各地にはそれぞれ彼の族人や党類を留め
後それらの人々が彼を祖神として、その恩徳を慕うて神として社を創建した。
「安羅」という社名は、韓国慶尚南道の地名に同種の安羅・阿羅があり、天日槍を尊崇するとともに
故郷の地名に執着して社名にしたものと思われる。社宝として古来神殿に蔵されている数十個の小判型黒色の小石は
従前その由来が判明しなかったが、近年有識者によると、この小石は野洲川源流地帯に多い玄武岩と同質とされ
その黒色をなしているのは火にあぶって温め(温石として)患部に当て治療に使用したものと解かった。
このことは今日の鍼灸の原型をなす医術であるとされる。


↑に出てくる天日槍もスサノオ(牛頭大王)そのもの
0885名無しさん@1周年
垢版 |
2019/05/28(火) 15:59:15.21ID:9NopSFnE0
まぶたも一緒

二重が優勢で、一重が劣性
0886名無しさん@1周年
垢版 |
2019/05/28(火) 15:59:30.28ID:cwr4LW5x0
古墳時代の古墳としては、滋賀県高島町の鴨稲荷古墳がある。
金製の耳飾りや金製の冠、金でつくった沓など朝鮮的な遺物が
沢山まとまって出土したことで、全国的にも有名な古墳である。
単に朝鮮的な服装品が埋葬していたというだけでなく、これらを
セットとして揃え、新羅の支配者たちの政治的な儀式のスタイル
をそのまま踏襲して埋葬されている点で注目すべき古墳とされている。
滋賀県の西部から越前にかけての地域を政治的な根拠として新しく現れる、
継体天皇を生み出した勢力で、天皇より1代ぐらい前の可能性がある。
0887名無しさん@1周年
垢版 |
2019/05/28(火) 16:00:56.90ID:cwr4LW5x0
奈良県明日香村の都塚古墳(6世紀後半)が、石を階段状に積み上げて
墳丘を築いたピラミッド形の大型方墳であることが分かり、
村教委と関西大考古学研究室が13日発表した。
現在の中国と北朝鮮の国境付近に残る古墳に形状が似ており、
渡来人と関係の深い大和朝廷の実力者、蘇我稲目(?〜570年)が埋葬されたとする説もある。
村教委などによると、墳丘とその周囲を発掘調査したところ、階段状の遺構が3カ所で見つかった。
これらの遺構は石室と方向を合わせ、いずれも数多くの石で造られていた。3カ所のうち1カ所は4段、
より低い位置の2カ所で1段ずつが確認され、全体としては7、8段のピラミッド形をしていたと推定できるという。
墳丘は裾の部分が東西41メートル、南北42メートルの大規模なもので、高さも東側4.5メートル以上、
西側7メートル以上あったとみられる。
ピラミッドのような形の古墳は、現在の中朝国境地域に高句麗時代に築かれた「将軍塚」の形状によく似ているといい、
村教委などは都塚古墳もこの影響を受けて築かれた可能性があるとみている。
0889名無しさん@1周年
垢版 |
2019/05/28(火) 16:03:38.88ID:cwr4LW5x0
日本神話において、神武東征の際に高皇産霊尊によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への
道案内をしたとされるカラスとして有名な八咫烏、日本では和歌山県の熊野三山(本宮大社・速玉大社・那智大社)
をはじめ全国2000余の熊野(高麗野)神社の共通の紋章であるが、奈良・明日香村キトラ古墳(8世紀初頭)の天井壁画
太陽図にも日輪の中に三足烏が書かれている
高句麗の古墳壁画によく見られるこの三足烏は、太陽の中で生きる、三本足を持った想像上のカラス
中国・集安の「五カイ墓4号墓壁画には、円(太陽)の中で翼を半円形に広げて立つ三足烏が描かれている
あと、北朝鮮の平壌・徳興里古墳や江西中墓には、太陽の中の玄鳥が翼を広げて飛び立つ様子が描かれている
4世紀の高句麗の古墳壁画に初めて登場する「太陽の中の三足烏」がこのような図像の枠組みを持つに至った背景には
古来から伝承されてきた太陽崇拝やソッテ(信仰の対象、または何かのお祝いのために立てる長い竿)信仰・卵生説話
などの「鳥トーテム」が緊密に関係しているとされている
太陽とカラスとの関連については、高麗の文臣・李奎報の詩文集『東国李相国集』の「東明王篇」で
太陽の化身である解慕漱(かいぼそ=高句麗の建国神話では天帝の子で、東明王〈朱蒙〉の父とされる)が頭にカラス
の羽で作った「烏羽冠」をかぶっているところに淵源を求めることができるとされている
三足烏は高句麗建国のシンボルであり、三足烏と云えば高句麗の始祖、朱蒙(チュモン)であり朱蒙が率いた軍旗でもあった
三足烏の形象とは古朝鮮以来のシンボルであり、漢民族は朝鮮族を東夷族と呼んでいたが、三足烏の形象は東夷族のものであり
高句麗は中国中原にあって、朝鮮族がもともと居住していたと云われている
三足烏(Samjokgo サムジョゴ)は高句麗の建国神話などに見られる文様



高句麗のシンボル三足烏は、日本では八咫烏と称されている

・奈良県橿原市五條野町に八咫鳥を祀った八咫鳥神社
・奈良県明日香村のキトラ古墳で石室の天井にある星宿図の日輪の中に三本足のカラス(日象)
・八咫烏は加茂建角身が化身した姿だと云われていて建角身は賀茂御祖神社=下鴨神社の祭神であり
 賀茂別雷神:賀茂神社こと賀茂別雷神社に祀られている神
・建角身命を祀る京都の上加茂神社では禰宜が烏に扮して年を占う烏相撲を執行していて、八咫烏は熊野の
 夫須美神の使いでもあり、熊野の火祭では烏帽をかぶり八尺の黒衣で烏の嘴をかたどって烏と化した神官が
 空中に扇で呪文を書き、それは烏文字で護符や熊野誓紙の文字ともなった
・美保神社の青柴垣神事に用いられる神宝である三本足の烏と兎もそれぞれ日神と月神を象徴している
・穏地郡武良郷の中村の御客祭(荒神祭)は霊山・大峰山の山祭であり、ここに古式の的射神事が残されていて
 その的となるのは遠来の神は日神たる「烏」の図像であり武良郷全体の大祭「日月陰陽和合祭(略して日月祭)
 もまた日神(三本足の烏)と月神(白い兎)を祭りの旗印(御神体)」としている
・三島と云う名前が付く神社は全国に1万社以上あり、その総本山は静岡にある三島大社であり延喜式によると
 三島大社は伊豆国賀茂郡にり伊豆はかなり早い時期から賀茂氏が支配していた場所であって、伊豆諸島の神社は
 ほぼ事代主命を祀っている
0890名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 16:05:04.11ID:9NopSFnE0
ID:Hy/FLQ5t0 劣勢
ID:cwr4LW5x0 コピペで援護
樽悶 ★

このウンコが出てくると議論不可能
0891名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 16:07:25.35ID:cwr4LW5x0
『韓民族と太陽の中の三足烏』
4世紀の高句麗古墳に初めて登場、後に朱雀・鳳凰へと変化

 高句麗の古墳壁画によく見られる「三足烏」は、太陽の中で生きる、三本足を持った想像上のカラスだ。中国・
集安の「五〇墳4号墓(〇は灰に皿という字、カイ)壁画には、円(太陽)の中で翼を半円形に広げて立つ三足烏
が描かれている。また、北朝鮮の平壌・徳興里古墳や江西中墓には、太陽の中の玄鳥が翼を広げて飛び立つ
様子が描かれている。

 美術史を専攻するキム・ジュミ博士(51)が檀国大大学院史学科(考古美術史専攻)に提出した博士学位
論文を基に、『韓民族と太陽の中の三足烏』(学研文化社)を出版した。本書は、丸い太陽の中に黒いカラスを
結合させた日象文、すなわち「太陽の中の三足烏」が、韓国文化の中でどのように形成され、時代によってどの
ような変化を遂げ、現代に至ったのかを広く分析している。

 キム博士は、4世紀の高句麗の古墳壁画に初めて登場する「太陽の中の三足烏」がこのような図像の枠組みを
持つに至った背景には、古来から伝承されてきた太陽崇拝やソッテ(信仰の対象、または何かのお祝いのために
立てる長い竿)信仰・卵生説話などの「鳥トーテム」が緊密に関係していると分析した。太陽とカラスとの関連に
ついては、高麗の文臣・李奎報(イ・ギュボ)の詩文集『東国李相国集』の「東明王篇」で、太陽の化身である
解慕漱(かいぼそ=高句麗の建国神話では天帝の子で、東明王〈朱蒙〉の父とされる)が頭にカラスの羽で
作った「烏羽冠」をかぶっているところに淵源を求めることができると解説している。

 特に高句麗の古墳壁画以降、日象文の姿が時代によってどう変遷していったかという点は興味深い。政治的
安定期や全盛期には、三足烏が円の中で翼をたたんだ姿が描かれることが多かった。これに対し、外部勢力の
侵入などで自主意識が高揚した時期には翼を大きく広げた三足烏が、また極度の政治的混乱期には太陽の中
から飛び立つ三足烏が主に描かれた。

 例えば高句麗時代には、6世紀半ばを前後して、三足烏は翼をたたんだ姿から翼を大きく広げた姿へと変わって
いった。そして高麗初期には、三足烏がいない円だけの日象文が登場したが、10世紀末に起こった契丹の侵入
以降、高句麗継承意識が強く提起されるようになり、当時の首都だった開城の玄化寺碑(1022年)や、原州の
智光国師玄妙塔碑(1085年)には、太陽と三足烏が結合した日象文が再び登場した。玄化寺碑と智光国師
玄妙塔碑に描かれた三足烏は、翼を大きく広げて立ち、尾羽を高々と掲げ巻き上げているのが特徴だ。

 キム博士は「太陽の中に見える三足烏はただのカラスではなく、慶事をもたらす瑞鳥の象徴で、後に朱雀や
鳳凰へと変わっていった。韓国の日象文の伝統は、高句麗以来現在も、大統領の紋章や国璽の装飾に用い
られる形で受け継がれている」と語った。また、キム博士は「生命と夜明けを象徴する赤い太陽の中に、死と夜を
意味するカラスのような玄鳥を組み合わせた表現には、生成と消滅が境界なく併存する宇宙論が込められている」
と解釈した。
0892名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 16:08:38.27ID:yFkNkPvj0
>>遺伝子的には日本人よりも、韓国や台湾、フィリピン人に近い

矛盾してね?
そもそも国立博物館が最近発表した研究では、現代日本人は縄文人より現代韓国人に
近いとか言ってなかったっけ?

やっぱり現代日本人は縄文遺伝子と東南アジア及び長江流域人との混血なんじゃね?
0893名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 16:25:31.74ID:cwr4LW5x0
日の丸の歴史

701(大宝元)年、文武天皇の御代、797年に編纂された続日本紀の朝賀の儀に関する記述で、正月元旦、
儀式会場の飾りつけに「日象」の旗を掲げたとある。これが日の丸の原型で最も古いものといわれている。
文武天皇の後、天皇が即位する際の飾りでは、正面に鳥形の幢、左右に日月像の旗を立てるようになったと伝えられている。
「日月(じつげつ)紋]は太陽と月を象った紋で、太陽は天照大御神、月は月読尊を表していると言われている。
この日月の紋のついた旗が「御旗」と呼ばれていたと解釈できる。当時は太陽と月の2つをセットにして考えられていた。
どちらが太陽か月であるかを区別するために、太陽を金で、月を銀で打つようになる。月を丸ではなく三日月にしたものも現れ
室町時代からは菊家御紋章を打つものもでてきて、皇室の現在の紋章となっていったものと思われる。

文安御即位調度之図
https://www.gensetsu.com/20140308heijou/images/zu6.jpg
即位式とカラス
http://kphodou.web.fc2.com/zioku/blog-10/blog-13/blog-18/files/50a5ce3cd99db11c4a7200511d434881-29.html
0894名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 16:26:39.83ID:6enwu8WV0
日本人と朝鮮人は顔も生活も性格も似てないやん
0899名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 16:30:35.18ID:9NopSFnE0
ID:Hy/FLQ5t0 劣勢
ID:cwr4LW5x0 コピペ連投で荒らし
樽悶 ★

このウンコが出てくると議論不可能
0901名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 16:34:53.98ID:cwr4LW5x0
そうやって面倒臭がってる人間に歴史の本質など理解できるわけもない
思考停止でネトウヨブログだのの捏造ネタを鵜呑みにして発狂するしか能がない
0902名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 16:34:55.39ID:EfK8gxnd0
縄文人と弥生人と考えれば、縄文人のDNAを色濃く残してるのは
アイヌ系と沖縄の人達で、あの残りは混血
0903名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 16:36:19.18ID:Hy/FLQ5t0
ユダヤと日本が共通点があるってのも
上のコピペ程度じゃね?
0905名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 16:37:24.63ID:mvoNRixs0
>>16

おまエラ朝鮮人の歴史は、
百済・新羅・高句麗・任那等の古代朝鮮がその祖ということになっている。(これも捏造)

しかし実際には、元寇のあった時期に、朝鮮在住人のDNAが激変したという歴史的事実がある。
(埋葬された死者のDNA鑑定・分析結果)

これは、半島で古代朝鮮人が絶滅し、エベンキ族と推定される他民族が成り替わったことを意味する

つまり、「古代朝鮮」人と現在のいわゆる朝鮮民族はDNA的にほぼ他人である。


それをあたかも継続しているが如く語るのは、「古代朝鮮人からその歴史の強奪することに他ならない」。


■韓国ほぼ0%である

島国であり人の出入りが少なかった日本人は、世界でも稀な古代血統とされるY遺伝子D系統を多く持つ人種である。
日本人はY染色体DNAのD系統を高頻度で持つ事で有名である。

世界的にもチベット人や中近東の人だけがこのDNAをもっているが、他の世界のどこにもほとんど存在しない。
さらに日本のすぐ近くの朝鮮半島や中国人が南方系O系統であり、孤立したD系統を持つ日本人の異質さが際立って見える。

またこのD系統は、アジア人種よりも地中海沿岸や中東に広く分布するE系統の仲間であり、Y遺伝子の中でも非常に古い系統である。
東アジアの地域全体には南方系O系統が広く分布し、島国の日本や山岳のチベットにのみD系統が残ったと考えられる。

D2系統はアイヌ人88%、沖縄人56%、本土日本42〜56%(参考までチベット33%)で、韓国ほぼ0%である。
0907名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 16:38:00.74ID:Hy/FLQ5t0
>>901
ネトウヨは都合のいい事しかチョイスしないからね。

上の奈良の遺跡がどうのこうの言ってたのが典型的な例。

朝鮮人と交わってないソースは神功皇后の逸話。w
0908名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 16:38:40.31ID:bFGZfA7A0
>>907

おまエラ朝鮮人の歴史は、
百済・新羅・高句麗・任那等の古代朝鮮がその祖ということになっている。(これも捏造)

しかし実際には、元寇のあった時期に、朝鮮在住人のDNAが激変したという歴史的事実がある。
(埋葬された死者のDNA鑑定・分析結果)

これは、半島で古代朝鮮人が絶滅し、エベンキ族と推定される他民族が成り替わったことを意味する

つまり、「古代朝鮮」人と現在のいわゆる朝鮮民族はDNA的にほぼ他人である。


それをあたかも継続しているが如く語るのは、「古代朝鮮人からその歴史の強奪することに他ならない」。


■韓国ほぼ0%である

島国であり人の出入りが少なかった日本人は、世界でも稀な古代血統とされるY遺伝子D系統を多く持つ人種である。
日本人はY染色体DNAのD系統を高頻度で持つ事で有名である。

世界的にもチベット人や中近東の人だけがこのDNAをもっているが、他の世界のどこにもほとんど存在しない。
さらに日本のすぐ近くの朝鮮半島や中国人が南方系O系統であり、孤立したD系統を持つ日本人の異質さが際立って見える。

またこのD系統は、アジア人種よりも地中海沿岸や中東に広く分布するE系統の仲間であり、Y遺伝子の中でも非常に古い系統である。
東アジアの地域全体には南方系O系統が広く分布し、島国の日本や山岳のチベットにのみD系統が残ったと考えられる。

D2系統はアイヌ人88%、沖縄人56%、本土日本42〜56%(参考までチベット33%)で、韓国ほぼ0%である。
0910名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 16:40:07.72ID:cwr4LW5x0
四神像(朱雀、青龍、玄武、白虎)
・キトラ古墳 4つ揃っている、白虎が北向き(めずらしい)、躍動感がある
星宿図
・キトラ古墳 精密で平壌(ピョンヤン・北朝鮮)からみた星空だという説がある
十二支像
・キトラ古墳 朝鮮半島風のキトラの獣頭人身十二支像

国営飛鳥歴史公園
http://www.asuka-park.go.jp/kitora/index.html

高松塚古墳 日象復元図
http://c-academy.up.d.seesaa.net/c-academy/image/B4D8C0BEC2E7B3D8A1A1CCCFB5BCB9D6B5C1BBF1CEC1A3B2.jpg
0911名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 16:42:35.96ID:9NopSFnE0
ID:Hy/FLQ5t0 逃亡
ID:cwr4LW5x0 コピペ連投で煙幕
樽悶 ★

このウンコが出てくると議論不可能
0912名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 16:43:57.68ID:Hy/FLQ5t0
>>911
だってゲノムが役に立たない世界の常識ってソースが出てこない。

あいつが逃亡犯
0913名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 16:44:24.29ID:0d8BNTab0
縄文人はオーストラロイドだからな
0914名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 16:45:09.97ID:Hy/FLQ5t0
>>911
イギリス人では、チャールズ皇太子事をあいつはドイツ人って認識されてるってソースも出てきてないなー
0915名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 16:46:17.15ID:cwr4LW5x0
三井寺 新羅神社考「新羅神社」への旅


福井県の新羅神社(1)若狭地方の森羅神社

若狭地方は北九州・山陰・北陸などの地域と同様に日本海沿岸の古代日本の先進的地域であった。
若狭(ワカサ)の語源は、朝鮮語のワカソ(往き来)であるともいわれている。
弥生時代の水稲は朝鮮半島から直接に伝来したものであろう。
若狭地方は敦賀市から小浜市に渡る若狭湾に面した地方である。
湾内には敦賀半島、中外海半島、大島半島をはじめ数多くの入江や島が存在し、西隣は丹後国である。

当地方も新羅・加耶系氏族に係る伝承や伝説が多く、神社の祭祀氏族としては、
秦(はた)氏(朝鮮語のパタは海の意で、渡来海人であろう)が圧倒的に多い。
秦氏については古代中国の秦氏の移民説や加羅氏族説など、異説が多い。
当地の神社で新羅神社と標記される神社は現存しないが、 標記の方法を変えて新羅(しらぎ)信仰を
今に伝えている神社がいくつか残っている。
敦賀市の「白城(しらぎ)神社」(所在地・白木)、 「信露貴彦(しろきひこ)神社」(沓見(くつみ))、
小浜市の「白石(しらいし)神社」(下根来(しもねごり))などである。
これらに 加え「気比(けひ)神社」「角鹿神社」「須可麻(すがま)神社」なども 新羅・加羅系の氏族が祖神を祭ったといわれている。
当地方は応神天皇や継体天皇とのつながりが強い地方であり、 いわゆる古代三王朝の内、二王朝、
即ち応神王朝(応神―武烈)・継体王朝(継体―現在)が、 越前・若狭地方と関係している。両王朝共に新羅・加羅等と係わりが深かったであろう。

継体天皇は近江で生まれたが、越前で育っており、越前・若狭・近江などを含んだ地域は一つの文化圏といえる。
この時代、敦賀と大和の間を結ぶ重要な交通路である琵琶湖西岸には三尾氏、東岸には息長氏が勢力をもっていた。

http://www.shiga-miidera.or.jp/serialization/shinra/117_2.htm
0916名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 16:46:19.07ID:9NopSFnE0
ID:Hy/FLQ5t0 ウリは逃亡してないニダ
ID:cwr4LW5x0 こっちが止む
樽悶 ★

このウンコが出てくると議論不可能
0917名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 16:47:48.85ID:cwr4LW5x0
三井寺 新羅神社考「新羅神社」への旅


福井県の新羅神社(2)若狭地方の新羅神社

社伝によれば、朝鮮新羅城の新良貴氏の祖神「稲飯命」或いは「白城宿禰」を祭るといわれているが、
『神社誌』及び『遠敷郡誌』は「天日矛命の後裔が此国に留まり、其の遠祖である鵜茅葺不合尊、又は稲飯命を祀りしもの。
地名のシラキは日倉族の新羅人の住みしことあるにより起り、その祖神を祀りしとの説がありこれに従う」としている。
『新撰姓氏録』は新良貴氏を瀲武鵜葺草葺不合尊の男稲飯命の子孫とし、稲飯命を新羅国王の祖と伝えている。
『記紀』によれば、鵜茅葺不合尊(うがやふきあえず)は神武天皇の父とされており、 稲飯命は神武天皇の兄に当る。
従って、神武も新羅(加耶)国と係わりがあることになる。

『福井県神社誌』には、「創立年代不詳。境内より縄文式土器の破片が発見されているから、 弥生後期(一、二世期頃)には祭祀が行われていたであろう」とある。
当社は式内社に比定され、 『越前国内神名帳』には「従五位白城神」と記載されている。
更に、橋本昭三『白木の星』によれば「白城神社は延喜式にその名を記しており、 昔、朝鮮半島に栄えた新羅の人達が、
はるばる日本海を渡ってこの白木の浜に上陸して住んだといわれる」と述べている。
この伝説は、一種の天孫降臨を示すものであろう。

『南条郡誌』によれば「古名考」に「或云白木浦の社乎、案南条郡今庄町に新羅明神あり是なるべし。 今庄も古く今城と書けり。
此白城の誤転する乎。此町の東に川あり日野川と云。 此即古の叔羅(しらき)川なり。叔羅は即ちしらきなるべし」。
また『神明帳考証』には「吉従按白城宿禰を祭るなるべし。武内宿禰の孫也」と記載されている。

白城神社前の白城神社橋を渡ると大きな石の稲荷鳥居があり、白城神社の額が掲げてある。 鳥居の柱には「文政十三年庚寅歳四月上旬」と刻んである。
その左手には樹高33mの黒松の巨木がある。 境内の広さはおよそ一千坪。鳥居の下を過ぎ、二十段程石段を登った台地状の場所の西側に拝殿があり、
たくさんの扁額が掲げられている。台地状の場所の右手奥に二の鳥居(石の稲荷鳥居)があり、 鳥居の下から十段程石段を登ると本殿がある。
本殿は大社造のりっぱな建物。南向きである。 本殿の西側に末社等が祭られている。境内は白砂が敷かれ、清潔な感じがする。

神紋は菊。境内社は岩清水神社・春日神社・稲荷神社・蛭子神社・龍神社・日吉神社・伏見神社。

例祭は七月十五日。白木祭(新羅祭であろう)という。

新年祭・新嘗祭。

特殊神事として陰暦十一月上ノ卯日の前宵から餅を搗き、 これを薄い楕円形の小判形のものにして(古代神餅牛舌餅か)祭の当日暁方に神社へ参拝して撒く。
現今の新嘗祭に相当する。更には、能楽は白木祭の御能と称し有名である。能師は小浜方面より来る。

「当区において祭礼情景を観る時、往昔の自己の氏神祭礼に 官人・傭人等が賜暇を得て郷土に気休する時の事を想像される」(『敦賀郡神社誌』)
0918名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 16:48:53.38ID:cwr4LW5x0
三井寺 新羅神社考「新羅神社」への旅


福井県の新羅神社 (3) 信露貴彦(しろきひこ)神社(敦賀市沓見(くつみ)に鎮座)

沓見には久豆弥(くつみ)神社がある。地名の沓見は古くは久豆弥であったのであろう。
沓見は敦賀半島の付根の中心部にある集落である。円塚古墳・横穴式墳墓が数個所発見されている。
敦賀駅からは車で二十分位の場所にある。沓見のバス停の前を左折し100m程進む。
道路の突き当たりが信露貴彦神社である。神社のある場所は山裾で標高が高くなっている。
東北部には農耕地が続き、そのはるか遠くに山並が連なっているのが見える。
神社の左隣(南側)には前宮司の龍頭(りゅうとう)家の屋敷があり、 「龍頭一夫」なる標札が掲げてあった。
夫人に話を聞いたが、大変親切に説明をいただき、帰る時には柿などを土産に頂戴した。
龍頭家の座敷には信露貴彦大神・久豆禰大神・八幡大神の三神の掛軸と供物や狛犬などが飾られていた。
今の宮司は前宮司の弟さんとのことであった。宮司の龍頭家は新羅系の家系であることから、 信露貴彦神社は新羅系の神社である証拠とされている。
「宮司の龍頭家は系譜に新羅国王族の末裔ということになっておる」(『今庄町誌』)

神社は三百坪位の境内であるが、境内地の境を区切る玉垣などはないので、 林の中に鳥居や神殿が立っているような印象を受ける。
神社の入口には信露貴彦神社と刻まれた背丈の高い石柱や二基の石灯籠・石の台輪のある大きな明神鳥居が立っている。

祭神は瓊瓊杵(ににぎ)尊と日本武尊。 社伝によれば推古天皇十年(602)の創建とされる。古代の新羅系渡来人とのつながりが深く、
敦賀半島の北端にある白城神社とも同系の氏族が祭ったものである。

「当神社は、同村の久豆弥(くつみ)神社の姫宮に対し男の宮と呼ばれ、 共に『白木大明神』といわれた」(『敦賀神社考』)

『敦賀神社誌』によれば、「按ずるに当社は往昔より白木大明神と尊称し、 推古天皇十年に創立し延喜式神名帳には越前国敦賀郡信露貴彦神社とあり。
元は当区南方字神所(かんどころ)・下の森地籍に鎮座したというが、 現地に奉遷の年代は不詳」という。

『福井県神社誌・遠敷郡誌・南条郡誌』には、「或いは今庄堺村荒井の新羅神社ならん乎」。
『古名考』「一説日野川の源である夜叉ケ池に古へ新露貴神社あり。
故に此河の渡所を白鬼女村と云は信露貴彦の訛なりと云へ共然らじ」。
『古名考書入』「合波堺村山上の社なり按に合波のは白鬚神社なるに 荒井は地名も古文書に見え社名も同じなれば寧ろ之を採る可き乎」としている。
0919名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 16:49:04.23ID:9NopSFnE0
ID:Hy/FLQ5t0 逃亡
ID:cwr4LW5x0 こっちが始動
樽悶 ★

このウンコが出てくると議論不可能
0920名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 16:49:10.83ID:cwr4LW5x0
『今庄町誌』では「敦賀郡松原村沓見にある信露貴彦(しろきひこ)神社は、 南条郡今庄町今庄の新羅神社・白鬚神社、堺村荒井に鎮座する新羅神社と同じである」と記載している。
従って、祭神も新羅明神(素盞鳴尊)であったであろう。神社は拝殿と本殿からなる。 拝殿及び弊殿は妻入り神殿、木造瓦葺、白壁造りで庇がつけられているが、建物は相当古い。
拝殿の奥に七.八段の石段があり、その上の台地状の場所に本殿がある。 本殿のある台地は、石垣が積まれている。
石段を登った所に四脚門(これも妻入り、左右に木造の透塀がある)があり、 その数メートル奥に本殿がある。
簡素ではあるが千鳥破風造の屋根をもつ木造建築である。 瓦屋根。境内社に神明社・猿田彦神社・金比羅神社・山神社がある。

例祭は五月四日。祈年祭三月二十一日。新嘗祭十一月二十三日。 五月六日の例祭日に行われる「王の舞」は天孫降臨の様子を表現したものともいわれている。
沓見祭といわれ、古代そのままの神事が行われるという。

金達寿は『日本の中の朝鮮文化』の中で「信露貴とはもちろん新羅(しらぎ)ということで、 彦とはその男ということであろう。
新羅を白木(しらき) ・白城(しらぎ)としたのはいゝほうで、 信露貴とはずいぶんめんどうな字をあてたものである」と記述している。

当神社も、明らかに渡来系の新羅神社であるにもかかわらず、祭神が天孫邇々芸命(高天原に天降った神)である。
邇々芸命は大山津見神の娘・木花開耶姫(神吾田津姫)と出会い、 海幸彦・山幸彦(天津日高日子穂手見命)など三柱の子神を産むのであるが、山幸彦の子が鵜茅葺不合尊であり、
孫が稲飯命である。天日槍の後裔が新羅国王の祖として祭ったということを示したものであろうか。
0921名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 16:50:41.78ID:cwr4LW5x0
>>919
猜疑心の塊
妄想も程々にしとけド阿呆
0922名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 16:51:19.15ID:9NopSFnE0
ID:Hy/FLQ5t0 逃亡
ID:cwr4LW5x0 こっちが始動
樽悶 ★

ウンコは、専門知識の必要ない邪馬台国スレに帰ればいい

【徳島】「邪馬台国は阿波にあった」 徳島市のNPO法人が「邪馬台国阿波説」で地域活性化へ★3
1樽悶 ★2019/05/28(火) 16:24:16.78ID:N9rVioZI9
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1559028256/l50
0924名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 16:58:12.01ID:cwr4LW5x0
日本に点在する歴史的な事実をすっ飛ばして
妄想の世界で奮闘する哀れなネトウヨであったw
0925名無しさん@1周年
垢版 |
2019/05/28(火) 16:58:51.03ID:Qt9ux84s0
>>923 = >>924

おまエラ朝鮮人の歴史は、
百済・新羅・高句麗・任那等の古代朝鮮がその祖ということになっている。(これも捏造)

しかし実際には、元寇のあった時期に、朝鮮在住人のDNAが激変したという歴史的事実がある。
(埋葬された死者のDNA鑑定・分析結果)

これは、半島で古代朝鮮人が絶滅し、エベンキ族と推定される他民族が成り替わったことを意味する

つまり、「古代朝鮮」人と現在のいわゆる朝鮮民族はDNA的にほぼ他人である。


それをあたかも継続しているが如く語るのは、「古代朝鮮人からその歴史の強奪することに他ならない」。


■韓国ほぼ0%である

島国であり人の出入りが少なかった日本人は、世界でも稀な古代血統とされるY遺伝子D系統を多く持つ人種である。
日本人はY染色体DNAのD系統を高頻度で持つ事で有名である。

世界的にもチベット人や中近東の人だけがこのDNAをもっているが、他の世界のどこにもほとんど存在しない。
さらに日本のすぐ近くの朝鮮半島や中国人が南方系O系統であり、孤立したD系統を持つ日本人の異質さが際立って見える。

またこのD系統は、アジア人種よりも地中海沿岸や中東に広く分布するE系統の仲間であり、Y遺伝子の中でも非常に古い系統である。
東アジアの地域全体には南方系O系統が広く分布し、島国の日本や山岳のチベットにのみD系統が残ったと考えられる。

D2系統はアイヌ人88%、沖縄人56%、本土日本42〜56%(参考までチベット33%)で、韓国ほぼ0%である。
0926名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 17:01:42.95ID:cwr4LW5x0
俺は馬鹿は相手にしないよ
疲れるだけだから
0927名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 17:06:40.73ID:6enwu8WV0
アイヌ民族
やまと民族
琉球民族
チベット民族は

同一のルーツ

ってだけ
0928名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 17:09:48.22ID:cwr4LW5x0
これは古代中国に朝貢に訪れた各国(左から倭国、新羅、百済、高句麗)を
中国の絵師が書き留めていた資料(唐閻立本王会図 6世紀中国の使臣図)
http://kstatic.inven.co.kr/upload/2017/02/06/bbs/i14310178719.jpg


高句麗、百済、新羅は靴を履いて綺麗な布を身に纏っているが
倭国だけは裸足でオムツみたいなのを巻いてるだけ
新羅に至っては花郎という実際に存在した美少年組織そのまま表されてる

花郎 (つい最近BSフジで再放送やってた)
http://knda.tv/datvspecial/faran/img/main.jpg


注目すべきは百済
安倍首相そっくり


あと、倭国に関して唐書におもしろいことが書いてある

大和朝廷からの使者が、国号を「日本」とすると通知してきた際、応対した役人が従来の「倭」との関係を尋ねると、
説明を二転三転させ、要領を得ない。その一つの説明にいう

「日本国は、倭国の別種なり」

要するに、あくまでも別種(かなずしも本流とはいえない一部分)ということなんだな
0929名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 17:29:12.18ID:uyzoY0C90
>>928
「日本国は、倭国の別種なり。
その国、日のヘリに在るが故に、日本を以って名と為す。
あるいは曰く、倭国自らその名の雅びならざるをにくみ、改めて日本と為す、と。
あるいは云う、日本はもと小国にして倭国の地をあわせたり、と。」

旧唐書のこれは日本の使者とのやり取り、あるいはそれ以外からの情報を整理できずに並べた
だけだぞ。
壬申の乱の直後で唐側が混乱している。
0930名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 17:34:31.29ID:uyzoY0C90
>>913
父系YハプロD系統はオーストラロイドではないぞ。
C1系統のうちC1b2系統がオーストラロイドだ。
日本にはクロマニョン人のC1a2系統の兄弟にあたるC1a1系統が来ている。
が、現代日本人における割合がD1b系統が4割近くに対してC1a2系統は5%あるかどうかだ。
C1a1系統は水稲に関与しない生業だった可能性がある。
これは縄文時代でも主流ではなかっただろう。
0931名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 17:42:00.85ID:aCxBs3ug0
適当な記事www
0932名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 17:43:37.28ID:cwr4LW5x0
>>929
そういう解釈でも構わんと思うよ
思いを巡らすのは自由だ

>>621
奈良の春日大社を始め、茨城の鹿島神宮等、日本には
野生の鹿を聖獣と位置付けているところは多いが、同じく
この鹿を神聖視して崇めていたのがその扶余族なわけだよ
そしてこの扶余族は百済人のルーツであるわけだ
もうお分かりですね

扶余族系
https://i.imgur.com/pju5ZE8.jpg
0933名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 18:05:44.45ID:r8Lu6ZGc0
要するに港川人だろ
資料読むと身長や体型が俺そっくりなんだよね
俺自身は色白だけど北方系とのミックスだからだよね
0934名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 18:05:58.04ID:Rmz7tyaf0
>>1
北海道の離島で1体だけ
そもそもサンプルとして適切ではない

それを本土に住んでいた縄文人と断定できる根拠が無い
0935名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 18:09:31.25ID:9NopSFnE0
話しのすり替えです

http://www.rebun.org/ancient/index.php

本州では律令によって国の形が作られていくなか、北海道では古墳文化の影響を受けた
擦文文化が成立し、 後半の時期になると礼文島を含む全域に拡大します。
また、続縄文時代の後半からは、サハリンからオホーツク文化という独特の文化を持つ
人々が南下してくるなど、 古代の礼文島は、南北から様々な人々が行き交うダイナミックな
時代でした。

オホーツク文化概要
オホーツク文化の人々は、北東アジア、とりわけアムール川流域やサハリンなどの地域と
関係が強い人々で、海での狩猟や漁労を生業としたことから、 遺跡のほとんどは海沿いに
分布しています。

擦文文化概要
擦文文化は、土師器の影響を受けた擦文土器、カマド付き住居の使用、鉄器の普及など、
これまでの北海道の在地文化とは大きく異なります。
0936名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 18:44:33.41ID:s639fVKl0
よくまあ遺伝子は変化するもんだなと
元は黒人だろ?
0937名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 18:48:02.66ID:Hy/FLQ5t0
ネトウヨいわく、
朝鮮人と混血してないソースは神功皇后の逸話。

おかしいって指摘されると火病をおこした。
0938名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 18:48:47.96ID:Xsi3erpz0
大陸・半島から渡来(わたってきた)はずの
弥生人のDNA・ミトコンドリアゲノムが
どういうわけかアッチとは遠くかけ離れている件

「いやいや縄文と混血したから・・・」と言う割には
わたってきたとされる大陸・半島オリジナルDNAが
国内のどこにも見つからない件

これさ・・・一回縄文が大陸半島に進出して
そこで繁殖して・・・後に日本に「弥生」として追い出されたか
帰国したんじゃねえの??
0939名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 18:56:33.87ID:ThpwhGa/0
>>938
おっ!!いい読みしてる

呉など大陸からの難民は
@朝鮮半島をスルーして日本に辿り着いたグループ→これが縄文と混血して倭人となる
A朝鮮半島に居ついたもの
の2グループ

で@の倭人が再び朝鮮半島に再上陸
そう考えないと説明つかない
0942名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 19:12:14.38ID:J1aVJVzg0
>>16
穢族
汚穢

糞尿民族
0944名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 19:15:21.13ID:ooNmuyd30
>>1
中国は朝鮮を穢=糞尿と名付けた

第13話 朝鮮が穢と呼ばれた理由
視聴回数 46万回
http://y2u.be/KbBCgFTRfME

第14話  朝鮮半島と穢族の歴史 ?周辺諸国との関わり?
視聴回数 21万回
http://y2u.be/FRb4qn9b6zg
0945名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 19:15:29.38ID:YHJwo+Z/0
>>937
どちらにせよ現韓国人とは関係ない話じゃね
0948名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 19:35:07.93ID:9NopSFnE0
>>947
ルーツや経路を探るのにまるで役に立たない
欧州人のクラスター分析
https://www.pnas.org/content/pnas/113/25/6886/F2.large.jpg?width=800&;height=600&carousel=1

フィンランド人とノルウェー人が同じグループ
フィンランド人 N:63.2%、I:28.9%
ノルウェー人 I:42%、R1a:25%

ドイツ人、ハンガリー人、ルーマニア人、ブルガリア人が同じグループ
ドイツ人 R1b:44%、I:20%
ハンガリー人 I:28.37%、R1a:25.6%
ルーマニア人 I:27.9%、R1a:20.1%
ブルガリア人 I:26.6%、E1b1b:22.1%
0950名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 19:36:58.25ID:ThpwhGa/0
>>947
これってどう考えても【朝鮮半島→日本】じゃなくて【日本→朝鮮半島】の流れじゃん
0951名無しさん@1周年
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2019/05/28(火) 19:37:06.67ID:NzVswMmV0
>>945
半島がモンゴルに占領され植民地になり80年間も支配された。
あの当時のモンゴル軍がどれだけ凶暴だったか
女は手当たり次第に犯してる。
混血児だらけになった。

モンゴルの高麗侵攻(モンゴルのこうらいしんこう)は、朝鮮半島を統治していた高麗王朝に対して、
モンゴル帝国が1231年から1273年にわたり繰り返し行った戦争を指す。この間、主要な戦いは6度行われ[1]、
高麗の国土は荒廃した。戦争の結果、その後約80年間にわたり高麗はモンゴル/元朝の支配下に置かれることとなる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E3%81%AE%E9%AB%98%E9%BA%97%E4%BE%B5%E6%94%BB
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