【古代】特別展開催で話題の「三国志」、物語の持つ魅力とは “邪馬台国”や“卑弥呼”との関係は?
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東京国立博物館(上野)で開催中の特別展「三国志」(新華社/アフロ)
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2〜3世紀、中国大陸で漢帝国の滅亡後に魏・呉・蜀が並び立った「三国時代」。その時代を描いた『三国志』といえば、日本でも小説や漫画、ゲームの題材として人気を博している。現在、東京・上野の国立博物館では、曹操の墓からの出土品など近年になって新たに発見された三国時代の考古史料を集めた特別展が開催中だ。歴史作家の島崎晋氏が、「三国志」と日本の深いつながりを解説する。
* * *
今年は日中文化交流協定締結から40周年ということで様々な記念行事が予定されているが、そのなかでも最も力の入れられているイベントのひとつが、上野にある東京国立博物館の平成館で開催中の特別展「三国志」である。
実は三国志には4世紀初頭に陳寿という人によって著わされた歴史書の『三国志』と、14世紀後半に羅貫中によって著わされた小説の『三国志演義』の二つがある。特に後者はおそらく日本で最も多くの読者を獲得している海外文学の一つであろう。
江戸時代末期には葛飾北斎の門下生・葛飾戴斗が作画を担当した『絵本通俗三國志』が大人気を博し、昭和には吉川英治や柴田錬三郎、陳舜臣といった日本を代表する有名作家がそれぞれ三国志を題材にした長編を著わしている。平成以降はゲームや漫画から三国志にのめり込む人も増え、およそ10年周期で大きなブームが繰り返されるようになった。
三国志の魅力は、個性豊かな登場人物がそれぞれの理想や目的のために知恵と力の限りを尽くして繰り広げる人間模様にある。単なる群雄割拠でも二雄対決でもなく、群雄割拠が三大勢力にまで淘汰され、一強対二弱で均衡を保つ微妙な関係が他の動乱期と一線を画し、興趣を増す要素となっている。
日本史との関係でいえば、歴史書の『三国志』は日本について言及した最古の文献史料でもある。『三国志』は「魏書」「呉署」「蜀書」の三部からなるが、その「魏書」の中の「東夷伝」の中に倭国、すなわち日本について触れた部分があるのだ。俗に「魏志倭人伝」と呼ばれ、日本の歴史書には登場しない邪馬台国と卑弥呼の名が初めて登場するのもその部分である。
卑弥呼が魏の都に最初の使節を送り出したのは238年のことで、魏からも答礼の使節が倭国を訪れていることから、「魏志倭人伝」の記述はその使節の報告書をもとに記されたと考えてよい。
だが、そこに問題がないわけではない。双方の言語を操る通訳がいたとは思えず、日本側がいまだ無文字社会であれば筆談もできない。いったいどうやって意思の疎通や細かなやりとり、情報の収集が行なわれたのかが謎のままなのである。
一つ考えられるのは中国語と朝鮮語の両方を操れる者、および朝鮮語と日本語の両方を操れる者が同行。二重通訳によりコミュニケーションが図られた可能性である。これであれば倭国に関して詳しく記されているのも納得がいく。
今回の三国志展では卑弥呼と同時代の文物が数多く展示されるので、『三国志演義』のストーリーやひいきの登場人物に熱を上げるもよし、三国志の動乱に遠く日本も関わっていたことに思いを馳せるのもまた一興であろう。
【プロフィール】しまざき・すすむ/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。著書に『ざんねんな日本史』(小学館新書)、『春秋戦国の英傑たち』(双葉社)、『眠れなくなるほど面白い 図解 孫子の兵法』(日本文芸社)、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』(辰巳出版)、『いっきに読める史記』(PHPエディターズ・グループ)など多数。
7/13(土) 7:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190713-00000003-pseven-life >>36
そういう奴が現存後漢書や現存隋書のテキストを知らない >>65
神戸に華僑が建立した関帝廟があって関羽を祀ってる >>92
嫌い
>>94
去城十五里,水即郃水也。——《水経注》
【唐韻】侯閤切 カフ≒kap
【唐韻】という書物は魏略のように散逸したが
930年代の平安時代に源順(みなもとのしたごう)が書いた倭名類聚抄(和名抄は通称)に引用されてる。
源順が生きた時代の日本語にhという子音は無くてカ行音で代用した。
閩語でhap 24 江戸時代の日本語でハフ >>85
毛沢東(マオツォトン)主席も香港その他西側メディア、マスコミに数回殺されてる。 >>36
現存写本の魏志倭人伝て何処かに画像upされてるのか >>97
信じちゃうと悪いからネタばらしすると、半分嘘で半分本当
紳々竜々は黄巾の乱から蜀滅亡までほとんどの合戦に参加しながら生き延びて張飛の墓守して物語は終わり
竜介はコンビ別れの後パッとせず芸能界から落ちぶれて大阪は十三の風俗の客引きで食いつないでいるうちに死亡というリアル >>92
場所による
信長に滅ぼされた斎藤氏の岐阜なんか信長大好きで駅前に金ぴか信長像おいてるし、滋賀も天主の上の方だけ復元安土城とか飾ったりで好きだろう
逆に越前の方なんかは地元出身者から攻められたから嫌いとか聞いたことあるし、根に持ってるっぽい >中国語と朝鮮語の両方を操れる者、および朝鮮語と日本語の両方を操れる者が同行
これは在日チョンの希望的観測
当時は朝鮮エベンキなんて居なかった。
奈良時代になると遣新羅使が派遣されて新羅語と日本語の通訳が居たかもしれない。 >>13
近畿パーって精神障害者だからね。
近畿パーが全部悪い。
九州説明は単に正論を言っているだけ。 劉備や関羽、張飛と呼びつつ諸葛亮だけは何故か孔明と呼ぶニワカが多すぎてびっくりだわ 漫画の影響から普通入るからだろ、作者陳寿は、蜀漢に使えた官史、蜀が滅ぶ姿をよく知ってる人で、魏志倭人伝を書いた人。CSでやってた三國志は面白かった。 >>101
>最近は阿波説がクソ
最近は阿波説が最強! ってことを言ってるんだな。 ワハハハハは @阿波 >>117
まあ涙拭いてうんこ食べろよ泡パーwwww で、こういう三國の争いや呉と越の争いやらの中で、越から東シナを渡り九州に逃げて来た人達が国を作り、それが邪馬台国だというのと、元々天から降ってきた人達が奈良にいてそれが邪馬台国だと罵りあうのが論争とされてる。 ただこれはこれで実に深い話なので興味ある人は、色々調べて考えてみるといいよ、なんせお金を使わなくなる。 >>119
こらこらまず糞を食え近畿パーw
畿内説は否定証明完了済み 糞食い近畿パーは何引き分けみたいにしようとしてんのこのカスwwwww だってそうは言っても近畿パーってカタワのカス野郎なんだもん。
え?何も言ってなかった?
w 倭が文字を使えなかったなんてことは無い
当時の硯が発掘されている 三国志では、蜀・劉備が主人公、魏・曹操が仇役、呉・孫権が脇役の扱いで、
劉備は「仁義の人」、曹操は冷酷非情な奸雄として描かれているが、
この扱いには違和感がある。
三国志に描かれていることだけを見ても、劉備は自分を保護してくれた
恩人から国を奪うことを繰り返して蜀を建国するし、諸葛亮以下の
優秀な部下を持ちながら、それを生かせず国を衰退させる。
それに比べ、曹操は公言したことは実行し、はるかに言行一致の人だ。 >>80
民族の思考の違いだろうけど
日本人は蜀に魅力が行きがちだけど
中国だと曹操と蜀に真っ二つに別れる、だから曹操の人気も高い
アメリカも曹操の人気が高い傾向にある
たぶん、統治能力、人材運営がほかより素晴らしいからだと思う >>69
実際黄忠のが働いてる
趙雲の後世評価は子孫やらの贔屓目が大きい
長坂で阿斗を救ってはいるけど単騎駆けはしてないし
でも趙子龍と言う名前といい、控え目で出しゃばらず忠義に篤い設定といい、人気出ない筈がないチートキャラ設定 >>126
三国志は初期はみんなほぼ蜀にいく
ちょっと知り出すと劉備に嫌気がさして曹操格好よくね?天才じゃね?になって
もうちょっと調べるとやっぱり劉備もすごいよねに落ち着く >>126
>統治能力、人材運営がほかより素晴らしいからだと思う
https://ja.wiktionary.org/wiki/ 說曹操曹操就到
說曹操曹操就到シュオ ツァオツァオ、ツァオツァオ チウタオ
は
>曹操のことを話すと、曹操がやってくる。噂をすれば影がさす。
>由来
>曹操は、後漢の武将・政治家で三国時代魏の事実上の建国者。
>三国志演義に代表される三国志伝承において、冷酷な悪役として認識される。
>情報収集力に優れていたため悪口など言えば、すぐに曹操が現れて殺されると恐れたことから。
つまり特高警察のようなスパイ組織を駆使して言論を弾圧してたのだ。
中国や東南アジアの華人・華僑の間で今でもよく使われてることわざだ。 で、史書、漢書など、中国古代史を読みつくし、日本書紀、古事記、風土記を読み漁った人達が、陳寿の書いた邪馬台国の方角が東か南で争っているんですよ。珍種もいるんですよ、そのうち出てきます。徳島だそうです。 >>80
キングの3人はあの人たちだろうけど、残りの一人が気になる
袁紹が本命そうだけど、袁術・劉表・劉焉・馬騰・張魯だと肩を並べるにはやや力不足に感じる
まさかの董卓?
いっそ南蛮王孟獲ってのもありかな >>132
董卓はありじゃね?
しかし一応献帝っていっとく >>131
今や、徳島が大本命だそうですよ。 @阿波 >>132
三国志トランプと言ってもめっちゃバージョンや種類があるんだよw
1番の使われてるキャラは
趙雲
2番手が関羽、張飛、周瑜、呂布
これがほぼトップ5に入る
種類によってはKは3君主に諸葛亮ってパターンもある
バージョンによって全然ちがうよ 邪馬台国は魏に朝貢したが、そのあとは一貫して晋とその後継の南朝に朝貢してるんだよな
北朝と交易した痕跡はあまりない不思議 伸竜の部分は
ダウンタウンにでも人形作り替えて
撮影し合成で地上波行けるかな。
川本喜八郎の弟子筋に頼んで。 半島南部も倭国だった時代だ。
中国語も朝鮮語も達者だったんだろうよ。 >>137
夷狄の王朝に朝貢して臣下の礼は取りたくなかったんじゃないの 横山光輝三国志で一コマで終わる官渡の戦いのせいでイマイチな袁ちゃん >>126
単にその時流行ってる小説や漫画の違いだろ
中国の場合は、それに加えてその時の国策な ちなみに演義じゃない国史のほうでは孔明さんとかどんな活躍してはるん? 統治、内政、戦争の計画、準備といった後方支援、各種アイテムの開発に秀でている
孟獲を屈服させてる実績もある 今回の三国志展示会で邪馬台国・卑弥呼ネタなんて方格規矩鏡のところであっさりと触れたくらいだよね。 >>3
原文でも「中国人」って文字列で書かれてるのか? 倭国乱は、倭国(阿波)国内での争乱。
中国の三国(魏・蜀・呉)ならいざ知らず、弱小の卑弥呼時代に大軍を率いて西日本一帯を戦い歩くことなど不可能。 トンデモ説は、あまりにも兵站を無視しすぎ。 @阿波 卑弥呼が魏の前に公孫子に朝貢していた可能性もあり。 耳飾が特徴の近畿式銅鐸と
はみ出る横線が特徴の三遠式銅鐸
その両方の特徴を併せ持ったのが
滋賀県大岩山遺跡の全長135cm銅鐸
http://yasugawa-iseki.yayoiken.jp/photo/doutaku.jpg
まんなかのでかいやつ
近畿と東海の2国が争ってからの銅鐸の合体は
魏志倭人伝に書かれる倭国乱れるからの共立と一致する >>151
頭悪すぎ。「中華」以外に朝貢する意味はないだろ。
公孫氏は独立政権ではあるが「中華」ではないから朝貢するわけない 三国志時代の中国人が南と東の区別も付かなかったとするのが邪馬台国畿内説。 曹操の子の曹丕が初代魏皇帝、でその子の2代目曹叡から卑弥呼は親魏倭王を。貰っています。何処に住んで居たんでしょうか?魏志倭人伝の伊都国という国から水行20日で投馬国、そこから水行10日、陸行1ヶ月。これが罵り合いの中心なんですよ。興味ある人は参加ください。 >>145
それとは別に、鏡から見た三国と日本という展示コーナーがあったな 公孫氏の一部は日本まで逃げてきたらしく、神社も残ってるな
常世岐姫神社というのがそれ トーハクでやってるのか
いいなあ、夏休みに行こうかな >>155
九州説だと帯方郡から水行20日で投馬国、そこから水行10日、陸行1日で邪馬台国の都の女王国。 方角に関しては意図的に変えたんだろうな
呉の北 → 魏
呉の西 → クシャーナ朝(魏の同盟国)
呉の東 → 倭国(魏の同盟国)
方角を1ヶ所変えると魏の連合国で呉を取り囲む形になる >>155
>魏志倭人伝の伊都国という国から水行20日で投馬国
なんで、ウソを平気をつくの?
「不弥国から水行20日で投馬国」 @阿波 魏志倭人伝では、南に狗奴国、東に国名不明地
後漢書范曄「一緒にしちゃえ」 >>159
そういう中国の学者は採用しない説を主張しても意味ないんだけどね
99%の学者は畿内説で、九州説はトンデモ系しかいないからそれで通るのかもしれないが >>163
倭国乱は、倭国(阿波)国内での争乱。
中国の三国(魏・蜀・呉)ならいざ知らず、弱小の卑弥呼時代に大軍を率いて西日本一帯を戦い歩くことなど不可能。 トンデモ説は、あまりにも兵站を無視しすぎ。 @阿波 究極の放射説では、帯方郡の東南陸行500里に伊都国 確かなこと
@近畿ヤマト政権は 魏志邪馬台国を 自国とは無関係とみていた
A近畿ヤマトは 自国が 九州出身と思っていた
B近畿ヤマトは 唐人に 自国のもとは 漢のイト国だと言っている
Cイト国は 北九州にあって 魏志邪馬台国連合の構成国だったが
日向に移ったころ 独立したのだろう
邪馬台国卑弥呼に従っていたころを 高天原時代と呼んだのかも >>165
そもそも大軍を率いて戦ったってどこに書いてあるの?
戦乱はあったが大軍で戦ったという記録はないな >>168
>そもそも大軍を率いて戦ったってどこに書いてあるの?
どこにも書いていないよ。 それなのに、西日本一帯での倭国大乱を想定してるでしょ? トンデモ説は。 わははははは @阿波 >>167
『神功皇后紀』に『魏志倭人伝』が引用されているので
近畿ヤマト政権が邪馬台国は奈良だと認識していたのは明らかだよ。
『日本書紀』は神功皇后に卑弥呼と台与を一致させにいってる。
『日本書紀』によると
170年 神功皇后が産まれた
200年 神功皇后が即位
238年 神功皇后が朝貢 (卑弥呼が朝貢した年と一致)
269年 神功皇后が死亡
卑弥呼が女王になったのは184年頃と考えられているので
卑弥呼が産まれたのは170年頃(神功皇后が産まれた年)と推測できる。
※台与は13歳で女王になった。卑弥呼もそれくらいの年齢で女王になったと考えられる。 常世氏(赤染氏)は公孫淵を祀ってるが、この手の亡命漢人が半島南部経由で倭国まで逃げてきた時代でもある
ちなみに常世の本拠地は河内の方のようで >>169
そりゃそうでしょ
大軍を率いなくても西日本一帯での倭国大乱は起こるからね
飢饉などがきっかけだと大軍はでないで全国的な乱は起きるよ 倭国大乱の痕跡は中国地方から東へと徐々に遷移する高地性集落かな
海の民だった北部九州が亡命漢人を受け入れ、それが東へと流れていった可能性もある
播磨風土記の天日槍は瀬戸内海ルートで姫路あたりに上陸しようとしてるな >>172
>大軍を率いなくても西日本一帯での倭国大乱は起こるからね
中国の三国(魏・蜀・呉)ならいざ知らず、弱小の卑弥呼時代に 「小軍」 を率いて西日本一帯を戦い歩くことなど不可能。 トンデモ説は、あまりにも兵站を無視しすぎ。 ワハハハハは @阿波 戦国の七雄の時代でもそれなりの記録があるのに日本は本当に駄目だよな
魏や東晋の時代ですら自地域のまともな記録がなく、邪馬台国の場所も不明 完全に年代が合ってるから倭国大乱の原因はタウポ大噴火で間違いないだろう。
181年 タウポ大噴火
181年 『後漢書』によると「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」
182年 『後漢書』によると「井戸の中が凍ってしまった」異常気象を示す記述は2年続く。
184年 黄巾の乱
181~184年頃 『梁書』によると「霊帝光和年中(178年 - 184年)」に倭国大乱が起きた。
184年頃 『三国志』によると卑弥呼が女王になった。
黄巾の乱のスローガン「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」は
空が噴煙に覆われて、空が黄色くなったことをあらわしている。
『三国志』のスタートも180年頃なので
三国志、倭国大乱、黄巾の乱、すべてタウポ大噴火がきっかけで起きたと考えられる >>175
時期も意味も不明な記紀が正史だなんて恥ずかしいよなw >>153
公孫に会いに行ったら既に滅ぼされてたから魏に行ったんだろ
ルートからして 魏に朝貢して王としての承認をもらおうとするくらいなんだから、そのバックには当時の漢文化に通じる一族がいたんだろう
武内宿禰とか言われた亡命漢人の一派は記紀よりもっと前の時代から大きな勢力になっていたのかもしれない 邪馬台国は今と同じで延々と魏に干渉しまくって
他所の国に戦争を撒き散らしていた・・・!! >>175
魏志倭人伝に書かれてることは
日本に文字なし
ただ木を切り紐を結ぶだけ
だからなw
マジで文明レベルから全然違うんだろ
そこから文字が普及するまでに400年かかってるし >>181
>マジで文明レベルから全然違うんだろ
そんな時代に、中国の三国(魏・蜀・呉)ならいざ知らず、弱小の卑弥呼時代に 「小軍」 を率いて西日本一帯を戦い歩くことなど不可能。
トンデモ説は、あまりにも兵站を無視しすぎ。 ワハハハハは @阿波 >>167
@日本書紀では、卑弥呼を神功皇后とみなす記載がある
A紀元前660年に日向から移ってきたと書かれており、3世紀にはとっくに政権ができている
Bもっと成立年代が近い隋書には、魏志の邪馬台国は飛鳥時代の大和と同じと書かれている
C物証に矛盾した作り話にすぎない >>14
あれ関羽の人形が祟るから公開しなくなったな >>183
@日本書紀では、卑弥呼を神功皇后とみなす記載がある
解説:本当はよく知らないけど魏志に準じてさりげなく記載しておいた
A紀元前660年に日向から移ってきたと書かれており、3世紀にはとっくに政権ができている
解説:神武東征の痕跡無し。各地の伝承を時間軸上で直列に並べてしまったため紀元前660年となってしまったと思われ。
Bもっと成立年代が近い隋書には、魏志の邪馬台国は飛鳥時代の大和と同じと書かれている
解説:隋の時代より以前に纏向遺跡は消滅しており、当時の邪靡堆がどこなのかは不明。
また、邪靡堆を国とは書かれていない。
C物証に矛盾した作り話にすぎない
解説:まさに畿内説がそれです。単なる妄想だった模様(過去形) 卑弥呼を神功皇后とみなす記載?
そんなのあったかな? 魏志倭人伝(280年ごろ)
>倭國亂 相攻伐歴年
後漢書(5世紀ごろ)
>桓 靈 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主
倭国大乱て言うけど一番古い三国志だと倭国乱れるとなってる
ものすごい戦いがあったんじゃなくて軽い小競り合いだったと思うよ
最終的に共立してるし 神功皇后の伝承は元々あったようだ
ただ、各氏族の色々な伝承を無理に時系列にしようとした結果混乱が起こっている 紀元前後は九州北部を中心に鏡などが発掘されるが、邪馬台国の頃になると畿内中心の分布に遷移はしている
銅鐸を鋳つぶして鏡にした国産鏡もあったようだ 日本書紀の神功皇后の年代記には、即位39年、40年、43年に魏志によると倭女王が魏に使者云々という話を記載
即位66年に、晋の起居注によると倭女王の使者が来たという話を記載
干支を繰り上げて、神功皇后を卑弥呼の時代に合わせたのでは、という話もあるな(神功皇后の時に百済の肖古王が出てくるが、これは四世紀半ばの人)
まあそれ以前に、晋の時代の時は卑弥呼は死んでるけど >>189
>ものすごい戦いがあったんじゃなくて軽い小競り合いだったと思うよ
>最終的に共立してるし
うん、だからトンデモ説は、へたな妄想過大。 @阿波 >>186
A「近畿ヤマトは 自国が 九州出身と思っていた」という元のカキコミに対するレスであって
日向から移ってきた時期は紀元前660年の認識だという意味だ
そう書かれているだけで、史実だとは言ってない
B日本の教育を受けた人間なら、飛鳥時代の都が大和に置かれていたことは誰でも知ってるはずだが?
裴世清の記述などは、日本書紀と隋書で一致している
しかも纏向遺跡が消滅云々とはまったく意味不明
奈良盆地の中で転々としてただけのこと
Cイト国が日向に移ったとは全く根拠がないが
畿内説が作り話だと言うのはただの誹謗中傷 神武東征は神武らしき人物が九州を平定した事を指す
その時期は魏志倭人伝の時代より前とは限らない
卑弥呼と神功皇后は別人 三国時代かもだが、五胡十六国時代や南北朝時代も中国はかなりカオスなんだよな。戦争のために異民族を引き入れまくったもんだからもう滅茶苦茶 <<@日本書紀では、卑弥呼を神功皇后とみなす記載がある
<<A紀元前660年に日向から移ってきたと書かれており、3世紀にはとっくに政権ができている
<<Bもっと成立年代が近い隋書には、魏志の邪馬台国は飛鳥時代の大和と同じと書かれている
<<C物証に矛盾した作り話にすぎない
1 神功皇后を 魏志にある 卑弥呼になぞらえるのは無理 それぐらい誰でも分かる
2東征が紀元前の話だというのは 歴史を飾る嘘だとは 誰でも知ってること
3中国人は 近畿ヤマトが魏志の邪馬台国の末裔だと書いてるが 肝心の和人は 違う イト国の末裔だと言ってる
4近畿ヤマト=イト国は完全に歴史文献や考古学物証と矛盾しない見方だ 希望の友で読んでたな横山光輝三国志
紅巾党〜劉備玄徳あたりで挫折 >>178
公孫に会いに行ったという記録がないから却下
公孫が完全に滅びる前にすでにルートは確保してて中華(魏)に会いに行ったと考えるほうが自然 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています