【関ヶ原の戦い】岐阜から滋賀にまたがる島津家の退路を鹿児島県の小学生が2日がかりでたどる
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https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20190803/2000018549.html
島津家の退路 小学生がたどる
08月03日 19時22分
関ヶ原の戦いで劣勢のなか敵陣を突破して退路を切り開いたことで知られる島津家の武士たちをしのぼうと、島津家ゆかりの鹿児島県の小学生たちが、2日がかりで岐阜県と滋賀県にまたがるおよそ70キロの戦跡を踏破しました。
この行事は、関ヶ原の戦いで敗れた島津義弘とその部下たちが鹿児島に戻ったルートをたどることで先人の苦労を学ぼうと、島津義弘ゆかりの鹿児島県日置市の子どもたちが昭和35年から毎年行っているもので、ことしは小学生17人が参加しました。
子どもたちは2日、岐阜県海津市を出発し、三重県を経由して滋賀県多賀町に至るおよそ70キロのコースを2日間かけて歩きました。
コースはほとんどが山の中で標高600メートルの峠を越える難所もあり、子どもたちは連日の猛暑の中汗だくになりながらも元気よく歩き通しました。
岐阜県との境にある滋賀県多賀町の峠では地元の人たちから拍手で歓迎され、冷たいジュースやアイスクリームでもてなされていました。
参加した小学6年生の男の子は「毎日暑くて思ったより辛かったけど、互いに励ましあってここまでくることができてよかったです」と話していました。
子どもたちはこのあと多賀町の施設でゴールし一泊したあと4日は大阪城を見学してから鹿児島に帰ることになっています。 俺のFacebookに知らない外人からコメント付けられたんだけど、なんて書いてあるんや?
At Honkawa-cho station, a lame old woman got on and stood next to me. Everyone sitting on the seat, however,
pretended as if he were sleeping, which was just as I had expected. I had witnessed such scenes not only once nor
twice since I came to Japan from Alamogordo, New Mexico. Hence, I realized that Japanese were different from
polite and kind people that I had expected them to be.
At that time, a teenager behind me stood up, and offered a seat to the old woman. It's the very Japanese virtue!
I praised his courtesy in my heart profoundly.
Yet it's not long before I recognized that he was not a Japanese. He had a book under his arm, the title of which was
written not in Japanese, but in Korean. 今の時代、こんなことやらせて問題になったらどうすんだ 退路とか言わんでくれよな小早川は裏切るしあほらしくなって帰っただけだから この気温の中あんまり子供に無理させたらあかんやろ
バス移動のお遊びならいいけど 毎年やってるよね
面白そうだけど大変だな。体調に気を付けてほしい イベントとしては面白いが、この時期の岐阜はとんでもなく暑いぞ。
昨日今日は40度近かっただろ。
せめて9月10月の連休とか、まともに外を歩ける時期にしないと、
そのうち死人が出るわ。 子供でも2日で帰れるんか
結構大した事なかったんやな 人は記憶型と思考型に大別できる
結局は毛利なんだよな〜
めぼしい西軍は宇喜田・小西・石田・長宗我部・島津・立花
兵力的にみて分が悪いとおもったのかもしれん
小早川だって毛利の意向を少なからず受けていただろうしな よし、岡崎の小学生は堺から夜を徹して伊賀越えしようか
ご飯はおにぎりだけ 10月21日にやれよ……岐阜の暑さは洒落じゃすまんだろ
なんか今勝手に最後ジャズマンって変換されてびっくりした 島津はそもそも参戦してないだろ
退路というのはおかしい 島津の退き口
敵陣を中央突破
松平忠吉と井伊直正を負傷させる(怪我が元で死亡) 高校野球と一緒で若いのが苦しんでるのを見るのが楽しみな老人が企画した催し物だよ 今も地元では島津越えと言われる峠付近は、結構舗装化が進んでる。
落石には注意だがw >>29
一定間隔で捨て駒を配置して追手の勢いを削ぐんだから、
神風特攻隊を思わせる忠誠心なんだよな。
撤退戦と言えば、織田の朝倉攻めの時の秀吉の殿軍も有名だね。 座学だけが勉強ではない
社会勉強も大事
暖かく送り出した親御さんに敬服します ボスを逃がすためにお前ら盾になれ!
ってキッツイ命令だな。 イベントそのものは良いんだけど史実での実施日とかけ離れた
一番きつい今の時期にやる意味とは 最初から西軍に加わる気があまりなかったくせにわざわざ岐阜まで行って敗走するあたり、義弘はゆとり教育だわ 関ヶ原の時島津は井伊直政に傷を負わせたんだよな
それが元で数年後に亡くなってる >>20
鹿児島での妙円寺参りでは具足を付けて行進する。 >>46
五僧峠な。
長らく車両では上石津時山側から峠は越えられなかったが、いまは舗装された道が通ってるな。すぐ崖崩れで通行止めになるけど。。滋賀側の廃村巡りが良かった。 アスファルトと河川敷を地下足袋で4万歩歩いた時は
足裏がめちゃ痛くなって3日ほど辛かった。 島津73万石を守ったんだから、捨て奸は犬死とは程遠いよな
子孫も大切にされたでしょ >>55
彦根藩の事実上最後の藩主の井伊直弼は桜田門の変で元薩摩藩士に討ち取られて首を落とされた。 面白い企画だけど、今の時期は外してやれ
夏休みだからっていうのはあかん ずっと山道やで歩いててもつまらんかったやろなー清流も流れてないし暑いだけ。 >>60
つうか島津維新斎が戦死しても当主は別にいたので島津は潰れんかった気がする ドリフターズスレやん
君らなんでドリフターズ関連で語らんの?いかりやさんのドリフちゃうで
ヒラコー様をなだめるために語ってくんなまし >>45
実父の仇たる島津を護衛するエピソード好きだわ。
立花宗茂は爽やかな逸話が多いのぅ。 11才の時にやった妙円寺参りは往復で70キロあったな。 わけのわからん歌歌いながらな。
まだ覚えてるが、最後は昔を思い出して義弘が
泣くんだよな。足が棒で、どうでも良かった。
だれだよ、そいつって思うだけ。 >>71
池田輝政の「我が父の首の値打ちが5千石でござるか」と家康の前でぼやいて
親の敵の永井直勝の加増を促した話も好きだ まあ、このスレがドリフスレになってるのはスレ民の属性を考えれば
薔薇の木に薔薇の花咲くほどに不思議のないスレであるとはいえるねwww
そしてそこから応用して史実の関ケ原退却戦に1ミリもハッテンしないところが
ネトウヨくんの限界だな、ともいえるw 玄界灘www
>>35
ジャズマン? ジャズメンという言葉はあるが、あんまりきかないない気もすなあジャズマンwww
お? ところでアフリカではジュジュマンという言葉があるんだがw チミは知らんかね?
そのジュジュマンが八面六臂の大活躍をするアフリカ文学の一大傑作
エイモス・チュツオーラの『やし酒のみ』(岩波文庫)はオヌヌメ
このレスを読んだスレ民(not白人至上主義のネトウヨ病身)にもオヌヌメしておくぞwww 三河民も家康を偲んで脱糞しながら逃走経路を辿るべき 大阪からは船だった。立花と同じ船だったらしい。
親父の敵討ちをしろと家臣に進言されたが、宗茂は
やらなかった。 >>2
日本人は席も譲らず冷たい
老人に席を譲ったのは韓国人니다
ってかいてあるよー 三国志だと退路には伏兵が居て
げぇ関羽みたいな感じで斬り殺されるのに
日本で良かったw >>85
クロカンが徳川べったりだったらやってそう 敵軍の中を突破して、は語弊があるな
徳川方の旗を立てて東軍のフリしながらコソコソと通り抜けた、が正しい 鹿児島県人ながらこんなイベントがあるとは知らなかった。
妙円寺詣りと錦江湾遠泳くらいと思っていた あえて負け戦のシミュレーションをやるって珍しいな
小学生は悔しいと思うのか誇らしいと思うのか 稚児に過剰な淘汰圧をかける、あの野蛮な県民性を
ただちに払拭して貰いたい。年寄りが苦しめば良い。 このエピソードを初めて聞いたとき薩摩の人間ってマジでイかれてると思いましたね >大阪城を見学してから鹿児島に帰ることになっています。
大阪から鹿児島まで歩いて帰るのか。偉いな! 桜島一周とかも高校の時あった
30キロ後半くらいの距離を完走させられるやつ
徒歩でも問題なかったから楽しかった 島津さんとこの義弘さんが帰り道に立花宗茂と鉢合わせるという気まずい状況ながら
宗茂の器量に感服して一緒に仲良く帰ったいう話は逸話?事実?(´・ω・`) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています