【†】「全国初」の石剣が出土 平形銅剣を模したものか・阿南
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「全国初」の石剣が出土 阿南市
*ソース元にニュース画像あり*
http://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/20190910/8020005625.html
※NHKローカルニュースは元記事が消えるのが早いので御注意を
阿南市の弥生時代の遺跡から、これまで全国で見つかったことがない形をした石の剣が出土しました。
瀬戸内地方で多く見られる祭祀用の銅剣を模したものとみられ、専門家は
「当時の交易の状況を知る貴重な資料だ」としています。
阿南市加茂町にある「加茂宮ノ前遺跡」は、那賀川の南岸に広がる縄文時代から鎌倉時代にかけての遺跡です。
遺跡の調査を行ってきた徳島県と県埋蔵文化財センターは10日、県庁で会見を開き、
昨年度の発掘調査で、およそ2000年前の弥生時代中期の地層から
祭祀で使われたとみられる石の剣が見つかったと発表しました。
石の剣は先端が折れて失われた状態で見つかり長さおよそ24センチ、重さは120グラムあります。
瀬戸内地方に多く見られる幅広の平たい形をした銅剣、「平形銅剣」を模したものとみられ、
この形をした石の剣が出土するのは全国で初めてだということです。
県埋蔵文化財センターの田川憲専門研究員は、
「剣は近畿地方から持ち込まれた可能性が高く、当時の交易を考えるうえで非常に貴重な資料だ。
加工されて剣の形がつくり替えられていることから、地域独自の祭祀が行われていたと推定できる」
と話していました。
今回見つかった石の剣は、板野町の「レキシルとくしま」で今月14日から来月13日まで公開されます。
09/10 17:18 渡来人(韓国)の所持していた金属器が羨ましいからと、石でバッタもんを作ったかwwwwwww
クソジャップ、まさに猿真似だな(笑) 日本てさ、こういうの盛んだよな
アメリカは?
中国は?
なんか、日本は大事にするし、
古いもの好きだよな 四国は貧乏だったから青銅なんて2グラムくらいしか手に入らなかったんだろな 徳島県で現在までに発見されている銅剣数は細形,平形を合わせて源田遺跡の細形銅剣1本,
神山町左右山の平形銅剣2本,同じく東寺で平形銅剣3本と美馬郡西祖谷山五社大明神の平形銅剣1本で合計7本となっている。
因みに、源田遺跡は阿波国分寺跡の南方約 1,700mに位置し,四国霊場第16番札所常楽寺南西のため池の西岸の丘陵斜面に立地し,
昭和23年 3月 ,袈裟祥文銅鐸 3個及び細形銅剣 1口 が発見された。 @阿波 >>21
「加茂宮ノ前遺跡(縄文時代)」
阿南市加茂町にある加茂宮ノ前遺跡のは発掘調査では注目すべき成果がいくつもあった。
その一つに縄文時代後期(約4千〜3千年前)の集落跡の発見を挙げることが出来る。
集落跡からは、竪穴住居2軒のほか、屋外炉(火を燃やした跡)、土坑などが見つかった。
注目されるのは、県内で初めて確認された円形配石遺構16基だ。
1基の円形配石遺構は、直径が1〜3m。
人の頭よりやや大きい砂岩の河原石を円形に並べたもので、円の内部には小石や、白色の小円礫(砂利)が敷き詰められていた。 「加茂宮ノ前遺跡(弥生時代)」
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡は、那賀川の右岸、標高24〜26mの自然堤防上に立地している。
発掘調査で弥生〜古墳時代集落の中心部を確認した。
それ以前の調査成果と合わせ、竪穴住居が約100軒発見されたことになる。
県内の他の弥生時代集落では、鉄器が製作されたとみられる竪穴住居は各集落の中で1,2軒程度しかない。
ところが、加茂宮ノ前遺跡の弥生時代中期末〜後期初頭の竪穴住居の約半数では、鉄器を生産していたことを示す鍛冶炉が複数設けられていた。
生産に関わる道具類と鉄鏃などの製品も出土した。
背景には、水銀朱の生産との関連が考えられる。
これまでの発掘調査で、石臼や石杵といった水銀朱の生産に使った道具類のほか、原材料となる辰砂が大量に出土している。
その流通ネットワークを通じて、当時の最先端技術だった鉄器の製作法とその原料の鉄が持ち込まれたと推測できる。
加茂宮ノ前遺跡の弥生時代中期末〜後期初頭の竪穴住居からは、稀少な装飾品も多数発見された。
この時期の県内の他の遺跡からは、ガラス小玉や凝灰岩製管玉などが数点しか出土していない。
加茂宮ノ前の集落が繁栄していた証といえる。
県内の弥生時代中期末の鍛冶炉の発見例は、県内では加茂宮ノ前遺跡が初めてだ。
それ以外は鳴門市大麻町の光勝院寺内遺跡、徳島市名東町の名東遺跡、徳島市国府町の矢野遺跡など、いずれも吉野川下流域の遺跡に限られていた。
(県埋蔵文化財センター専門研究員・田川憲)
2019年(令和元年)7月 1日 徳島新聞朝刊 「加茂宮ノ前遺跡(縄文時代)」
阿南市加茂町にある加茂宮ノ前遺跡のは発掘調査では注目すべき成果がいくつもあった。
その一つに縄文時代後期(約4千〜3千年前)の集落跡の発見を挙げることが出来る。
集落跡からは、竪穴住居2軒のほか、屋外炉(火を燃やした跡)、土坑などが見つかった。
注目されるのは、県内で初めて確認された円形配石遺構16基だ。
1基の円形配石遺構は、直径が1〜3m。
人の頭よりやや大きい砂岩の河原石を円形に並べたもので、円の内部には小石や、白色の小円礫(砂利)が敷き詰められていた。
また、16基あるサークルが一部重なり合っていることや出土した地層に高低差があることから、全ての円形配石遺構同時期に作られたのではなく、長期間にわたって順に造られたと考えられる。
配石遺構は、主に祭祀施設として利用されたと考えられる。
縄文時代前期から中期(約7千〜4千年前)ごろ、中部地方を中心として直径が50mを超えるような環状列石(ストーンサークル)が造られるようになった。
後期に入ると、その分布は東北地方にまで広がる。
一方、西日本では、こうした大型の環状列石は造られることはなく、代わりに小型の円形配石遺構が造られた。
しかし、発見された遺構は極めて少ない。
円形配石遺構が竪穴住居に近接している加茂宮ノ前遺跡の場合、日常生活と祭祀をした場所が一体として発見された稀な例として、全国的に注目されている。
(県埋蔵文化財センター事業課長・氏家敏行)
2019年(令和元年)6月30日 徳島新聞朝刊 >>1
恐るべし。 倭国(阿波)の技術力。 @阿波 >>1
恐るべし。 狗奴国(長国)の技術力。 卑弥呼も手を焼いたはずだ。 @阿波 マグマの中にあってすら
溶けない石を剣の形に
削るのに一年!
そこから毎日研ぎ師が
二年かかって研ぎ出す! 縄文の遺跡からは、石棒といって、男性のチ●●を模したものが出てくる。
しかも、超小型のストーンサークルのような、女性のマ●●を模した遺構の中心に、そそり立った状態で出土する例もあるという。
縄文人はおおらかですな。 おおらかと言うより赤子が死ぬ可能性高い原始時代は子孫繁栄は宿願だったはずだよ。
現代は性をタブー化して少子化してるけど。 >>19
遺跡が出ると、個人負担で必ず調査が入ってその間工事が中断するんだよ
チクるやつがいるから、見て見ぬふりってなかなかできねぇんだよな
海外なんか都市を丸ごと壊してその上に都市造るとかザラだから
へたすると生きている都市の真下にアルなんてこともある
それに海外はよほど大学とか関与してない限り、埋めちゃうだろうね
だいたい日本の遺蹟とか逝っているレベルって海外からみたら
土人の集会所跡みたいなもんだからね >>37
それは石剣だよ。 石棒ではない。 @阿波 土建屋の息子から聞いたけど、何か有りそうではない意外な所からも出る事が有るけど見ないフリして埋めると言ってたよ。
工期遅れるから仕方ないと言ってた。
そりゃ卑弥呼クラスなら知らんぷりは出来ないけどねと言ってた。 土建屋が一目で邪馬台の遺物って判断できるのは凄いや 平形銅剣模した石製品
「阿南・加茂宮ノ前遺跡」
全国初出土 再加工の形跡
縄文時代から弥生時代に赤色顔料「水銀朱」を生産していた阿南市加茂町の「加茂宮ノ前遺跡」で、
弥生時代中期末(約2千年前)の祭祀に使用したとみられる「銅剣形石製品」が出土した。
瀬戸内地方で見られる「平形銅剣」を模して作られた石製品が見つかったのは全国初。
畿内との強い結び付きも裏付けられたという。
県と県埋蔵文化財センターが10日、発表した。
「銅剣型石製品」は黒色の堆積岩製で、長さ24.1cm、幅5.4cm、厚さ1.4cm。
先端部分が欠損しており、重さ約120g。
刃にあたる部分は真っすぐに整えられ、中ほどの両側にとげ状の突起を備える。
遺跡東端の竪穴住居で見つかった。
「銅剣型石製品」は畿内や瀬戸内などで約80点出土しており、多くが弥生時代中期中ごろに使われた細形か中細形の銅剣を模している。
平形銅剣は時代が100年ほど新しくなるという。
今回の出土品は、細形か中細形の形状だったものを、平形に作り直した形跡がある。
「銅剣型石製品」は銅剣と同様に祭祀で使った後、山に埋めるなどして廃棄されたと考えられており、形を変えて再使用したことを示す全国初の例だという。
県埋蔵文化財センターは、似通った石材の「銅剣型石製品」が多く出土する畿内で製造された可能性が高いとみており、「水銀朱の生産拠点だった加茂宮ノ前遺跡が、畿内と強い結び付きがあったことを示している」と分析している。 徳島新聞 令和元年9月11日 @阿波 「独自性が見える」
愛媛大学ミュージアム・吉田広准教授の話
近畿との交流で得た「銅剣型石製品」を瀬戸内で流行した平形銅剣をまねて再加工している。
水銀朱という特産品を持ち、東西の文化が交わった徳島ならではの、独自性のある歴地像が出土品から見えてくる。 @阿波 阿波には、なんでこんなに貴重な遺跡が多いんだろう? あとは推して知るべし。 @阿波 >>29
死んだ漫画の話をされても悲しくなるだけだ。 石器時代の石剣→青銅剣→鉄剣の時代の流れが正しい。
青銅剣を模して石剣はつくらん。 >>49
>石器時代の石剣→青銅剣→鉄剣の時代の流れが正しい。
石器時代の石剣なんて初耳なんだが? @阿波 >>12
半島経由での渡来物はほとんど無い
中国南部から入って来たのがほとんど
半島では古い土器見つかりましたか? >>12は半島人? すごい怨念だね。 今の韓国政府とおなじ。 @阿波 どうやら「加茂宮ノ前遺跡」をみると、祭祀の起源も、倭国(阿波)のようだね。
まぁ、「忌部はん」 の職掌なんだから、当然といえば当然だね。 @阿波 黒曜石は割れば勝手にナイフになる。 極、簡単な工法。 @阿波 徳島県で現在までに発見されている銅剣数は細形,平形を合わせて
源田遺跡の細形銅剣1本, 神山町左右山の平形銅剣2本,同じく東寺で平形銅剣3本と美馬郡西祖谷山五社大明神の平形銅剣1本で合計7本となっている。
因みに、源田遺跡は阿波国分寺跡の南方約 1,700mに位置し,四国霊場第16番札所常楽寺南西のため池の西岸の丘陵斜面に立地し,
昭和23年 3月 ,袈裟祥文銅鐸 3個及び細形銅剣 1口 が発見された。 @阿波 >>57
そんなに近くでも無いけど、同じ市内ということで
横田自販機コーナーで勘弁してください。
http://jihanki.michikusa.jp/shikoku/anan/ つか、画像見たら想像した以上に剣だったw
実用性の無いものをここまで丁寧に作り上げるとは・・・。 この阿南てとこは兵庫・尼ヶ崎の「神崎製紙」の兄弟工場があったので
尼ヶ崎から移住した朝鮮人労働者とその身内が市民の半数以上を占めてる
とにかく嘘と虚構で塗りつぶされた街だから話半分に聞いておけ
100のうち99は嘘だから この辺りもともと川底でな
2000年前の遺跡なんて有るわけないんだよ
せいぜい江戸か明治あたりの遺構だと思っといて
ここの地名は「宮の前」ってんだ
勘の良い人ならだいたいわかるだろ? ブンブン振り回して「悪霊退散・悪霊退散」とかやっていたか、祈祷師の商売道具か。 >>59
妖しさが足りない
が、うどん·そばが安い >>61
さすが、狗奴国。 鉾王国。
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】
徳島県阿南市長生町に鎮座する「八鉾神社」。祭神は大己貴命。延喜式内社である。
この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。
また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。
一つは「大己貴命 木造彫刻立像」
二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」
三つ目が「二品家政所 下文 」
四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。
この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。
八鉾とは八千矛神(やちほこのかみ)。
出雲の主であり、長(おさ)である大国主神のこと。
大国主神の別名、大己貴神は、長国の偉大な主を意味している。
大国主神は、スサノオ命の子孫で、稲羽の素兎の物語で有名である。
オオクニヌシは、兄さん達から大きな袋を持たされる等、色々のいじめを受けたが、それらの試練を乗り越え、出雲国を治める立派な人となった。
オオクニヌシの子供にコトシロヌシ(えべっさん)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいる。
コトシロヌシは、式内社の事代主神社として、勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られ、タケミナカタは、式内社の多祁御奈刀祢神社として石井町浦庄字諏訪に祀られている。
平安時代に記録される3132座の式内社の中に、これら八鉾神社や事代主神社・多祁御奈刀祢神社等の国譲りに遣わされた神達を祀る神社は、阿波にしかない。 @阿波
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】
https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/47852915.html?__ysp=44CM5YWr6Ym%2B56We56S%2B44CN44CR ゴッドハンドの人はどうしてるのかね。 歴史を変えた罪は重い。 加茂の宮前遺跡は川湊的な位置づけの遺跡のようですね。
この辺、那賀川の氾濫でしょっちゅう水没してしまう所なので、
水没のリスクを考慮しても、まだそこに住み続けるメリットが有ったという事。 >>71
>水没のリスクを考慮しても、まだそこに住み続けるメリットが有ったという事。
那賀川河口の「加茂宮ノ前遺跡」は、朝鮮半島や日本各地との交易拠点だから。
吉野川河口や鮎喰川河口の交易拠点とともに、倭国(阿波)海人族の拠点の一つではある。 @阿波 >>73
縄文時代から鎌倉時代までの遺跡が重層してるってなかなか大変な事よ。
徳島の遺跡の場合、鎌倉時代で途切れてるというのは他にも有るので、
鎌倉時代に、その地を離れざるを得ない何か大きな理由が有ったと見たほうが良いかも。 >>74
それは、大津波か大洪水が原因だろう。 @阿波 「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。 大和国の 「大和」である。
「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。 阿波国なのに「倭」である。
これは、阿波国が「倭」であったことの証左である。 後は推して知るべし。 @阿波 大和の大神神社は、倭国(阿波)の「大御和神社」が本家本元である。
徳島市国府町府中の式内社 「大御和神社」は神社拝殿上に「文武天皇(七〇二年)の御宇、この閤宮(こうのみや)より、国璽の印と国庫の鍵を差し出した」と記されている。
(国璽の印とは国家の表章として押す宮印で、帝都が阿波にあったことを証明するもの)
このことから、文武天皇の御宇に、倭国(阿波)から奈良大和へ遷都したことが分かる。 @阿波
http://www.genbu.net/data/awa2/oomiwa_title.htm 奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。
阿波国国府町の観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。
ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。
それは、7世紀終末頃に阿波から奈良へ遷都(藤原京)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。 @阿波
阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354 >>1
こぢゃいうな
裏に阿南工業卒業記念て彫っとーでえか >>80
>こぢゃいうな
こぢゃいうな?? ごじゃいうな! @阿波 古代朝鮮にはビームサーベルがすでにあったらしい
それは壁画に描かれてるのでまぎれもない事実
https://i.imgur.com/L6cenIf.jpg 稲持遺跡(徳島県三好郡東みよし町稲持)は、弥生時代後期の玉作遺跡として代表的である。
斉一性の強い小型勾玉の一群が阿波地域を中心に 讃岐地域・吉備地域と西縁・伊予地域・豊前、筑前、肥前地域 に点在しており、
石材・色調・形状から特定の場所で作られたと考えられる。
蛇紋岩の製作遺跡 : 東みよし町稲持遺跡・徳島市矢野遺跡・上板町七条経塚遺跡
原石産出地 : 徳島県吉野川加茂谷川水系蛇紋岩
徳島県で勾玉が出土された遺跡 : 稲持遺跡、矢野遺跡、黒谷川郡頭遺跡、井出上遺跡など。 @阿波
>>1
> 剣は近畿地方から持ち込まれた可能性が高く、
また都合のいい飛躍を。
朝日新聞の記者もビックリだな。 >朝日新聞の記者もビックリだな。
マジで、どうしてなの? 朝日新聞ってどんなスタンスなの? @阿波 古矢聡(ふるやさとし)
淫行前科アリ
英語中学教師
いじめ加担者
神奈川県横須賀市不入斗(イリヤマズ)中学へ逃げた
教師を辞めさせよう
私達全員で全国に送信し続けています >>1
> 剣は近畿地方から持ち込まれた可能性が高く、
近畿地方にそんな工房を擁する遺跡なんて、どこにもないよ。 おそらく「加茂宮ノ前遺跡」を含めた周辺で作られたものだろう。 @阿波 阿波から西日本各地に文化発信が始まったのは、卑弥呼の時代より遥か昔の縄文時代晩期末から弥生時代前期初頭である。
「石棒」 石棒は縄文時代を代表する石器である。実用品ではなく儀礼に用いられたと考えられている。
縄文晩期末から弥生時代前期初頭に、島根県・愛媛県・高知県から東は京都府・滋賀県・奈良県・和歌山県
にいたるまでの今までになく広い範囲で泥質片岩製の石棒が出土する。
この石材はすべて銀色を呈する泥質片岩製であり、石棒の素材産出地で、製作遺跡でもある徳島市三谷遺跡が、
その一大製作遺跡であると考えられている。 @阿波 やはり、祭祀には欠かせない宝物なんだろう。 弥生祭祀の起源もこの周辺から興ったと見える。 @阿波 >>82
いつも思うんだけど
「犬のウンコ手についたわー」
「ちょ!おま、やめろよー」
にしか見えない ゴットハンドも勉強してからつくれよ
バレバレじゃん 石で実用的な剣は作れないから石剣は他の金属製の剣のコピー >>96
徳島は、各地から出土する銅剣王国。
徳島県で現在までに発見されている銅剣数は
細形,平形を合わせて源田遺跡の細形銅剣1本,神山町左右山の平形銅剣2本,同じく東寺で平形銅剣3本と美馬郡西祖谷山五社大明神の平形銅剣1本で合計7本となっている。
因みに、源田遺跡は阿波国分寺跡の南方約 1,700mに位置し,四国霊場第16番札所常楽寺南西のため池の西岸の丘陵斜面に立地し,
昭和23年 3月 ,袈裟祥文銅鐸 3個及び細形銅剣 1口 が発見された。 @阿波 神獣鏡や内行花文鏡,画像鏡などのぼう製鏡が阿波でつくられた。
「宮谷古墳」は徳島市国府町と名西郡石井町の境界をなす気延山の東に延びる気延山古墳群の盟主的な前方後円墳で、
3世紀末〜4世紀初頭の築造年代が考えられ、前方後円墳では徳島県内最古の一つである。
主軸は畿内(南北方向が中心)と相違し、東西方向という地域性(東四国に多くみられる)を有している。
副葬品では、棺内から重圏文鏡、碧玉製管玉、ガラス製小玉、鉄鏃、鉄鉾(軸身系)、板状鉄斧、やり鉋など、
棺外から鉄剣などが出土している。前方部からは「張是作」銘の三角縁銘帯六神四獣鏡、三角縁唐草文帯ニ神二獣鏡片、三角縁神獣鏡片の三面が出土している。
この内、三角縁銘帯六神四獣鏡は、京都府八幡市内里古墳、32面の三角縁神獣鏡が出土した奈良県天理市黒塚古墳などと同笵あるいは同型とされるものがあり、
一方、三角縁唐草文帯ニ神二獣鏡片も大分県宇佐市赤塚古墳などに同笵あるいは同型とされるものがある。
また、三角縁神獣鏡片も島根大学の岩本崇氏により、群馬県の天神山古墳の三角縁獣文帯五神四獣鏡と同笵との指摘がなされている。 @阿波 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています