朝鮮人のアイヌ協会のことはほっておくとして、
アイヌが日本列島の原住民なのかという歴史学的論点について

紀元前3000年くらいまでが縄文、その後が弥生〜二世紀まで

日本人は縄文から弥生と変化しているわけだけど、
その縄文人がアイヌであったかどうかだ。

この経過からすると、弥生日本人は常に縄文人と接してきた。
柿本人麻呂7cに始まる征夷大将軍も蝦夷を征圧するための役職だった。
しかし、江戸時代までの本土日本人は蝦夷やアイヌには関心をもたず、
単なる土人としてまったく研究してこなかった。
江戸末期にロシアの脅威から、樺太などに間宮林蔵などの探検家を
派遣したくらいだ。

これに対して、欧米人は江戸中期あたりからアイヌに強い関心を示し、
幕末に日本に滞在したシーボルトは、間宮の著作などを研究し、
アイヌ語に通じていた最上徳内にも接触している。
シーボルトは、のちの著作で、アイヌを白人種の古型として紹介したので、
欧米で大変な関心を読んだ。幕末から明治に掛けては、これら欧米人による
アイヌの調査が続く。

むしろ日本では、これら欧米人による研究によって、のちの金田一らの
アイヌ語研究なども触発された経緯がある。ただし、考古学の知識をもたな
かった日本が、本格的にアイヌ研究をはじめた1930年代にはすでにアイヌは
日本人化しており、住居や文化も観光資源としてしか保持していなかった。
よって、古いアイヌの生活実態を民俗学には欧米の博物館の所蔵品などが
必須とされる。

先住民族としてのアイヌが注目を浴びたのは、明治初期1878の大塚貝塚の
発見である。これもまた東大動物学教授のモースというアメリカ人によって
なされた。大塚貝塚は縄文後期BC3000ころの遺跡であり、この文化の担い手が
アイヌか否かが問題になったのである。モース自身は、貝塚に人骨(食人)や土器が
含まれることから、これらを持たないアイヌは担い手ではないとした
(のち撤回)。一方、シーボルトの次男であるハインリヒは、北海道での調査も
ふまえ、アイヌを原日本人とした。
のちの日本人によるコロボックル論争(アイヌ以前の小人伝説)なども基本的には、
このモースとハインリヒの論争の繰り返しである。

一方、欧米人のアイヌ研究には白人種の先祖というロマン以外にも、領土的野心が
含まれることを見逃してはならない。ドイツ・プロイセンは北海道を植民地にする
希望があったようだし、追放後のシーボルトはロシアに自分の知識の売り込みを計っているのである。
ソ連時代のロシアは、国内に居住する少数のアイヌを民族としては認定していなかったが、
プーチン時代になってから、アイヌをロシアの先住民族のひとつとして認定している。