<薄れゆく「青い光」 JCO臨界事故20年> (下)半端な反省「ムラ」温存2019年9月29日 朝刊

小ぶりの倉庫のような白い建物は、今もそのままになっていた。一九九九年九月三十日に臨界事故の現場となった核燃料加工会社ジェー・シー・オー(JCO)の「転換試験棟」だ。

 内部は見せてもらえなかったが、同社東海事業所の増井久志副所長(57)が「この壁の向こうに(臨界が発生した)沈殿槽がありました。今は全て撤去して、がらんどうです」と説明した。

 臨界収束後も出続けた放射線を遮蔽(しゃへい)するため急ごしらえしたコンクリートの壁が裏手に少し残る以外、事故を思い起こさせるものは何もない。ただ、構内では現在も設備の撤去や除染、ウランを含む廃棄物の管理といった作業が続く。

 事故後、当時の所長ら六人は業務上過失致死、JCOは原子炉等規制法違反の罪などに問われ、有罪が二〇〇三年に確定。一方で判決は、管理監督の不十分さを指摘され「隠れた被告」とも呼ばれた科学技術庁(現・文部科学省)の責任を否定した。原子力安全委員会(原子力規制委員会の前身の一つ)が設置した事故調査委員会の報告書も、国に甘い内容だった。

 ウラン溶液を作る業務を発注した、現在の日本原子力研究開発機構の責任も追及されなかった。末端の民間企業に全ての罪をかぶせて幕引きした形だ。

 事故の経緯に詳しい民間シンクタンク「原子力資料情報室」(東京)共同代表の西尾漠さん(72)は「JCOが不正な作業に手を染めた背景には、発注者の無理な注文に応じようとしたことがある。不正な作業を見過ごしていた国の責任も大きい」と指摘する。

 中途半端な反省で「原子力ムラ」の安全を軽んじる体質は温存され、その後も事故は続いた。関西電力美浜原発(福井県)では〇四年、配管から蒸気が噴き出し作業員五人が死亡。〇七年には、北陸電力が志賀原発(石川県)の八年前の臨界事故を隠蔽(いんぺい)していたことが明るみに。ムラは何も変わっていなかった。

 それどころか、国や原子力業界は「原子力ルネサンス」の旗を掲げ、原発の新増設や海外輸出に狂奔。そして「3・11」を迎えた。

 JCO事故当時に村長だった村上達也さん(76)は、教訓を生かせなかった国やムラが東京電力福島第一原発事故を防げなかったのは必然だと感じている。「JCOを原子力業界が深刻に受け止めたとは思えない。表面を取り繕っただけで何も変わらなかった。JCOから福島へは一直線だった」

 「福島」後も、核燃料物質のずさんな管理は後を絶たない。茨城県大洗町の原子力機構の施設で一七年、プルトニウム入りの袋が破裂して五人が被ばく。一九年にも東海村の原子力機構の施設で、ウランとプルトニウムの混合酸化物(MOX)粉末が室内に漏れた。

 今月十九日、福島の原発事故で業務上過失致死傷罪に問われた東電の旧経営陣に無罪判決が出た。国会の事故調査委員会は「人災」と断じたが、責任の所在はあやふやなままだ。

 今も、なお原発は動き続ける。歴史は繰り返されないのか−。不安の声は、かき消されようとしている。 (宮尾幹成)


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