今まさにトロッコが5人に突っ込む様を橋の上で見てる自分

線路を切り替えるレバーを動かすは
自ら直接手を下さない。結果的にそうなった。と自分に言い訳が立つ
だから多くの人は5人の命を救うために1人を犠牲に選ぶだろう

自分の隣で同じくそれを見てるデブがいる。
そいつを突き落とせばデブ1人は死ぬがトロッコは止まり5人は助かるなら
今度は直接自分が手を下すことになる。言い訳の余地が「ついよろけた拍子に」くらいしかない
だからほとんどの人は何もせず傍観を選ぶ。結果5人は死ぬ

自分が医者で緊急患者が5人運ばれて来た。なんでもトロッコに轢かれたそうだ
5人それぞれが別の臓器を致命的に損傷しており早く臓器を移植しなければ助からない
ふと振り向くと、さらに症状の重い患者が手術室に寝かされている。
その患者は重い脳の病気でこちらはもう絶対に助からない
しかし内臓はどれも元気でそれぞれを移植すれば5人は助かる。ならば
さらに自ら決断し手を下し5人を助けるの選択をする人間の数は減る。
もう自分に言い訳の余地など完全にないからだ。

つまり人間は5人(多く)の人間を助ける、利益となるために
たとえ1人(わずか)の犠牲であっても自ら手を下したくないという基準で
道徳や物事の善悪を判断する傾向が強い。
逆を言えば自ら手を下さない状況さえ整えば
いくらでも全体の利益のため少数者を犠牲にできるのだ

いじめ問題などまさにこのケースである。自ら加担はしなくても状況を黙認する
1人の犠牲者の存在で全体に調和が生まれると考えているのだ
哲学はどんなに残酷な問題でも考えるに値する教育になると思う。