虐殺の後が残る頭蓋骨
https://livedoor.blogimg.jp/karapaia_zaeega/imgs/0/1/010a0b5a.jpg
https://livedoor.blogimg.jp/karapaia_zaeega/imgs/3/2/32325393.jpg

 1238年、モンゴル軍がロシアのヤロスラヴリの村を襲撃、大虐殺が行われた。

 占領中、おびただしい数の住民たちが残虐な方法で殺された。今、DNA分析によって、犠牲となった3世代に渡る家族の悲劇が垣間見えてきた。

■虐殺後、共同墓地に打ち捨てられたおびただしい数の遺体

 虐殺の後、遺体はまとまった単位で共同墓地にうち捨てられた。身元がわかるようなものはなにも出てこないが、モスクワ物理工科大学の研究者たちが、ひとつの墓から発見された3遺体のDNA分析を行った。3人は女性ふたりと若い男性で、母と娘、そしてその孫息子という近親者であることがわかった。

 3人のうち年長の女性は、少なくとも55歳、娘は30〜40歳、孫息子は未成年だった。この家族の遺体が出てきた墓は、ヤロスラヴリにある9つの墓地のうちのひとつで、全部合わせると300体以上の遺体が葬られていたという。

 人類学者によるこれまでの骨の調査でも、3人は血縁ではないかと思われていた。頭蓋骨の特徴が似ていて、骨格から脊椎披裂、つまり未発達の脊髄をもつ遺伝性先天異常であることがわかっていた。

 この3人の家族は、ヤロスラヴリの中心にある城郭内の住居穴で発見され、ここには全部で15人が埋められていた。

 町が占領されていた間、この敷地の多くが焼き払われたが、わずかに残った建物や人工物から、ここはかつては裕福な屋敷であることがうかがえたという。

 殺された家族が裕福だったことは、遺体の歯からもわかる。ほかの地域の住民よりも、ここの遺体の歯はかなり虫歯が進行していて、この家族がハチミツや砂糖を含む食事を習慣的に食べていたこと、つまり身分が高い家系であったことがわかる。

 さらに、近くに葬られていた4番目の遺体も母方の血縁者である可能性が指摘されている。

■モンゴル軍によるヤロスラヴリの大虐殺

 2005年から2006年にかけて行われたヤロスラヴリの発掘作業で、1238年2月に大虐殺があったことがはっきりした。

 しかし、遺体についていた蛆虫(クロバエ)の種類や成長ステージは、成虫が遺体に卵を産みつけたのは暖かい季節であることを示していた。このことから、遺体は数ヶ月、野外に放置されて腐敗が進んでから埋められた可能性があることがわかった。

 「この人たちは殺されて、かなり長い間、雪の中に放置されていました」ヤロスラヴリ発掘現場のチーフで、ロシア科学アカデミー考古学研究所副所長のアーシャ・エンゴヴァトヴァは言う。

 「4月か5月、ハエが繁殖のために遺体に卵を産みつけ始め、5月末か6月始めに、遺体は彼らがかつて生活していた場所に埋められたのでしょう」

 13世紀始めにロシアに攻め込み、ヤロスラヴリを破壊したモンゴル軍は、チンギスハンの孫息子で、キプチャクハーン国を築いたバトゥハーンが率いていた。

 「キプチャクハーン国は平和的にロシアに領土を得たと主張する研究者もいますが、ヤロスラヴリから出てきた陰惨な証拠は、そうではないことを示しています」

 ヤロスラヴリの住民が残忍に殺された証拠は、おびただしい数の遺体にはっきり見られる。骨には穴があき、折られ、燃やされている。

 モンゴルの侵略者たちがヤロスラヴリで虐殺を行い、ロシアのこの町は徹底的に破壊された。まさに血の海で溺れた町なのだ。ここの住民の悲惨な運命はのちに伝説として伝えられるようになっていった。

 「バトゥハーンの征服は、ほかの残酷な破壊の歴史がかすむほどのロシア最大の悲劇でした。ロシアの民間伝承に組み込まれた数少ない出来事のひとつであるのは、偶然ではないのです」

9月27日(金)20時30分
https://news.biglobe.ne.jp/trend/0927/kpa_190927_7404746974.html