【堤防】多摩川下流部で唯一、堤防未整備区間が決壊…住民「景観が大切。家のぞかれる」 国交省の度々の説得に同意せず ★4
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12日夜に多摩川が氾濫した東京都世田谷区玉川には、下流部で唯一、堤防が整備されていない区間があった。
国土交通省によると、12日は多摩川の水位が刻々と上昇し、午後10時10分頃には堤防未整備の区間(約540メートル)から濁流があふれたことが確認された。川と市街地の境界となっている道路も越え、二子玉川駅周辺の広い範囲が浸水した。
東京都世田谷区玉川では市街地が水につかった(12日午後9時38分)東京都世田谷区玉川では市街地が水につかった(12日午後9時38分)
この地域を巡っては、2007年の台風9号で2000袋以上の土のうを積んで浸水を防いだケースもあった。同省京浜河川事務所はこれまで、「大雨が降ると多摩川では最初に浸水する」などと周辺住民に説明。堤防整備計画を進めようと説明会なども度々行ってきたが、「景観を大切にしてほしい」「家をのぞき見られる恐れがある」といった声が根強く、同意を得られていなかった。
2019/10/14 17:25 読売新聞
https://www.yomiuri.co.jp/national/20191014-OYT1T50094/
★1が立った時間 2019/10/15(火) 09:28:06.93
前スレ
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1571109480/ ただし、あの駅周辺も国有地なのか東急の土地なのか調べる必要があるかも。
堤防外であっても、東急の土地なっている可能性があり。
橋げたの近くに、台湾メーカーの自転車店がありますが、あれは占有の許可があるとは思えない。やはり私有地なのか?
明らかに河川敷なのに。 駅の南側の河川敷にもマンションとかいっぱい建っているし、弁護士事務所まであるから
私有地ですわな。なんで、河川敷なのに私有地のままなのか?不思議だ。 古地図をいろいろ見ているのですが、やはり私は当該の河川敷が私有地になったのは
戦後だと推察します。
というのは、戦後すぐの地図でも、旧堤防(玉堤通り)よう内側には、十数軒の
料亭しか存在せず、堤防はその背後、地図には瀬田河原とはっきりあります。
だから、やはり戦後間近までは河川敷の扱いだった、料亭は海の家式に
営業していたにすぎない。駅もまだありませんし、河原に十数軒の温泉旅館が
散らばっているかぎり。私有地という感じはしません。
だから、やはり富士観会館ができたり(1959)、玉川高島屋が開業したり(1959)、
駅が今より北から河川敷に移ってきた(1966)、再開発の時期に私有地に変更された
のではないでしょうか?
料亭がなんか言ったから、堤防が背後になったは、この事実を隠蔽するために
流布されたうわさと見ます。区役所側の説明が正しいと思います。
(河川敷にとどまることを許された、海の家) >戦後すぐの地図・・・地図には瀬田河原とはっきりあります
これまちがい。「瀬田河原」ないし「堤外」とあるのは、手持ちの地図では昭和6まで
です。それから戦後までは不明。 無堤防地区(玉川三丁目)の歴史
(第二版)
明治39 旧河川法制定
明治41、玉川電鉄(東急)が渋谷ー二子玉川開通
明治42、当該地区には建物確認できず、地図には「瀬田河原」
大正6 玉電に誘致された数軒の料亭が立ち並ぶ、地図には「瀬田河原」
大正10 旧堤防が料亭の背後に建設されることになり、
立ち退きを迫られるが、なんからの政治力で立ち退きを回避
(旧河川法でも堤防外の河川敷は国有地)
大正14 二子橋が完成し、玉川線は川崎方面に延長される、地図には「瀬田河原」
昭和6 当該地区にも番地が付されているが、登記いかんは不明。地図には「堤外」
昭和17-20 戦局の悪化により当該地区の温泉旅館は寂れる、
終戦時には北側には水光亭と柳屋、南側にも十軒ほどの旅館と寺。
昭和21 水光亭は占領軍相手のキャバレーになる
昭和34 水光亭は廃業し、跡地に富士観会館が建設される
昭和34 玉川高島屋が開業
昭和41 北にあった駅舎が現在の位置(河川敷)に移転
平成16 富士観会館は取り壊され、プラウドタワー二子玉川が竣工
平成30 増水で危機
令和1 台風19号により浸水 >>384
知っている駅では
兵庫県の阪急電鉄の芦屋川駅と
阪神電鉄の芦屋駅は芦屋川の上にホームが有りますね
https://i.imgur.com/lNAtnb0.jpg
尚
芦屋川の周辺は過去に(昭和13年)阪神大水害で街が被災してます。
その後
強固な堤防が作られてています
https://www.hankyu.co.jp/ekiblo/gneko/27589/ さらしあげ
ごまかすな
反日馬鹿左翼
桜の木でも難癖
世田谷は拉致被害者家族誹謗
の北朝鮮一味保坂を区長にする
くるくるくるばー 住民を叩く理由がわからない
自ら自宅を遊水池がわりに使ってくださいと言ってるんだから、感謝しかないでしょ >>379
一度だけかと思っていたら
もう、歴史的に治水工事に対してゴネまくってい過去があるんだな・・・
そりゃ荒川と多摩川の治水対策で天地の差ができるわけだ
荒川とかいろんな対策してるもんな 共和党の言い訳とスケープゴートに左翼が使われる典型
アメリカン政治のコピーだろw 反対してたのは勝手に河川敷に住み着いたゴキブリで共産が支援してたってこと? 住所を与えてしまうからこう言うことに
堤の外は住所なし扱いにすればいいんじゃね? >>393
堤防がないというのは間違いで、多摩堤通り沿いに旧堤防あるしね
しかもここの高さは他の地区の堤防よりも高いはず
だから雨がもっと降っても好きで堤防の外側に住んでいる人達の地区が水没するだけ 反対派がいようとも、もう堤防は作るべきだろ。
数人?の反対派のせいで、何千人、何億円の被害出てんだ。
そもそも、大多数の公共事業で住民意見など反映されないのに、この堤防は意見を聞くとかおかしい。
訴訟されようとも、堤防を作った方が得。 >>401
文春の記事にある通り、橋の上流側での反対運動はない
ここは堤防整備済みの下流に比べ河川敷と住宅の距離が近く、どのようにするか検討中
「二子玉川地区水辺地域づくりワーキングについて」
でググれば現状が分かる >>400
堤防が無いのは、野川のドライビングスクールよりちょっと下流から田園都市線の線路の鉄橋のすぐ下流の家まで、
旧富士観会館脇の旧堤防も一旦途切れてコンクリートの壁だけの区間が有る。
ドライビングスクールも含めて色々ややこしい事情が有る地域なんだろうな・・・とうのは前から思ってた。 さっき
NHKのニュース7で
土嚢が足りなかったから
浸水とか伝えていたけど…
堤防の設置に関する
反対運動のゴタゴタなんて何も無かったかの様な伝えていたよ
単に、国交省側が設置が遅れているかの様に演出していた
ニュース7の制作内部スタッフの中に
反対運動シンパが居るのかな >>404
NHK職員の大半は日放労って旧民主党系の労組に属してて真っ赤っか >>404
国交省の対応が遅いのは事実
本当に危険だと考えているなら一部の住民が反対しようが工事するのが国の役目だろ >>77
堤防の河川内側の所だよ
明治以降の
いわゆる三業地域だな >>85
スクショで残した方が良さそうなTwitter主だな >>172
このチラシの特定団体の代表者宅の周辺も浸水してるんでしょう?
自らの行動が招いた厄災に
現在はどう思って居るのでしょうね
反省して
表に出て
堤防に賛成していた住民らに謝罪でもすれば良いのと思った >>164
川崎市幸区戸手の川沿の地区は
戦後に砂利採取業者勝ってに住み着いたとか… >>224
その後、補償をとか
目立った行動が無いが
同じ地域住民だから言い出し難い雰囲気も有ると ふと思ったんだけど。この地域、戸建てが多いでしょ。
床下収納の蓋やサッシやトイレ、洗面台の排水溝などをシリコンシーラントのような物で、
徹底的にふさいでいたら床上浸水は免れていたのでは...と思った。
床上1m以上だと水圧で窓ガラスが割れるかもしれんけど、30cm程度ならなんとかなりそうな気がした。
最悪サッシの交換は必要かもしれんけど... >>242
平地で中古住宅を更地にして新築するなら
近所の神社の標高よりも若干高く土盛りすると安心とか聞いたよ >>264
NHKニュース7では
油面川と荒川の合流地点の水門が逆流防止の為に閉じられ
途中に有る溢水対策のポンプ稼働させていたけど
ポンプ電源の制御盤が水没でやられて
ポンプが止まり溢れるた水が浦和市中央青果市場に流込んで
市場に置いてあった収穫物が全部廃棄だって >>273
だから
早々に国会の質問審議終わったのか >>306
河川整備は
緊急性を除いて
普通は下流側から整備だからね
反対運動が無かったら
二子玉川駅の下流上流関係無く一帯で整備されていたと思う >>416
そもそも床上浸水は殆どなかったんじゃないか
越水したすぐそばにあるマンションは入り口に遮水版を装備して内部への浸水を防いだらしい 《堤外地区の視察》
当該地区に視察に行ってきました。あんまり気が進みませんでしたが。というのは、二子玉川には
無数に行ってますが、いわゆる旧堤防というのはちゃんと見たことがなかった。たぶんそのあたりが
見てはいけないものがある地帯として無意識に避けてきたんだと思います。しかし、実際に行って
みて、不分明だったことががはっきりわかったことがいくつかあります。
この問題に関して言われていること、流布されているうわさにはウソが多い。京浜河川事務所の
説明や表現にも不適切なものがある。
・不法占拠?
まず、二子玉川公園から玉堤沿い(旧堤防沿い)で北に向かって、二子玉川駅、野川沿いに小山ドライビング
スクールあたりまで歩きました。歩き始めてすぐ分かるのは堤防の外側はいわゆる典型的な不法占拠の町並みだと
いうことです。戦前からと思われる茶色くなったバラックが残っているのはもちろん、家がてんでに勝手な
方向を向いて建っていて、斜めに建ってるものまであります。道らしいものがほとんどなく、複雑に路地が
入り組んでいる。ほとんどの家が安普請で、手入れや改修の跡がなく、できるだけ金を掛けずに、立ち退きの
補償金が出るまで居座ってようという感じがありありでした。一見して、ここは現在でも不法占拠
なのではないかという印象を強くもちました。(登記関係は未確認)
戦後すぐの地図では、この地区には十数軒の旅館がパラパラと散在している程度なので、
もし占拠があったとすれば戦後だと思います。
・料亭説は疑わしい
また次にわかったのは、大正時代に料亭があって、それがごねたので、堤防がうしろになったという
のは違うだろうということです。そこが京浜事務所と世田谷区の説明の食い違うところですが、たぶん
世田谷区が正しい(堤外として立ち退き要請を受けたが、河川敷にとどまるのを許された)。というのは、
いわゆる旧堤防(この表現は適切ではない、後記)と多摩川側の当該地区の間には
かなりの段差があって、堤外地区は一段と土地が低いのであります。おそらく、そこが古い多摩川の
岸辺なのか、以前はここを野川が流れていたのか。道路側の堤防の高さが2mくらい、堤外地区から
は5m程度あります。ですから、もし堤防を作るとしたら、この段差のある古い岸辺沿いしかない。
料亭が希望して堤防の位置が変ったという話はウソだと思います。 ・旧堤防は現役
もうひとつわかったのは、いわゆる旧堤防が今も現役だということです。旧とつけると、もう堤防の役割は終えたように
聞こえますが、そうではありません。なぜなら、旧堤防の方が、新堤防(多摩川沿いの土嚢、暫定堤防)より
明らかに高いからであります。ですから、旧堤防という通称は適切ではありません。京浜河川事務所でも
正式には完成堤防と言っているようであります。でから以下、単に「堤防」と表記します。
駅の南側をすぎて北側に入ると、堤防がまだ現役だという証拠が見つかります。堤防の上に建設省か
河川事務所が立てた標識があり、そこに「多摩川 左岸、海から18km」jと書いてあるのです。この
標識のことは聞いていたのですが、戦前の古いものかと思っていたら、わりと新しい。1980年くらいの
作成のようでした。このあたりの玉堤通りは車道のみで、そもそも歩道がないので、近寄って見ることは
できませんでした。
・北側はきわめて低い
話はすこし戻って、二子橋、そのたもとにある現プラウドタワー、かつての水光亭の跡ですが、二子橋から観察
する限り、そのあたりは著しく低くなっており、そこで多摩川と合流する野川の水面とすれすれ、ですからここに
堤防や道路を通すことはそもそも不可能だと思います。埋め立てでもしない限り。だから、やはり大正時代にも
堤防は当初から現在のコースで計画されたと思います。
さらに玉堤通りに沿って北上しますと、歩道が現れますが、きわめて不充分。狭くて歩きにくいです。
堤防はしばらくは続いていますが、小山ドライビングスクールの南で途切れ、そこから先は、野川の岸壁と
多摩川の土手にわかれるので、玉堤沿いの特殊な堤防はここで終了です。1km足らずと短い。
今回視察を終えて思ったのは、最初にも書いたように、この問題で言われている、流布されている説には
明らかなウソや不適切な表現が多い。現役の堤防を旧堤防ということ、土嚢程度を新堤防と
いうこと、無堤防地区という表現もおかしい。ちゃんとした堤防はあり、当該地区は、通常どおり
堤外地区と表現すべきです。そうすると不法性がはっきりするので避けているのでしょう。はじめから
次世代のスーパー堤防ありきの表現法だと思います。
また、改めて思ったのは、当該地区の登記のいかんを確める必要があるということです。マップで
見る限りだと駅南の堤外地区にもそれなりにマンションがあり、ふつうの商業地区に見えてしまいますが、
実際に見るとかなり汚い、無法地帯然とした地区です。それに比べると、駅北側は大規模マンションが
多いので、とても不法には見えませんが、河川法上はどちらも堤外地区(河川敷)に違いないので、
もし南側が不法なら北も不法ではないかと疑われるのです。堤防上の「多摩川 左岸」という
標識も気になるところです。
一応、今回の視察の成果報告としては、ここまでです。 堤外地区(玉川三丁目)の歴史
(第三版)
明治39 旧河川法制定
明治41、玉川電鉄(東急)が渋谷ー二子玉川開通
明治42、当該地区には建物確認できず、地図には「瀬田河原」
大正6 玉電に誘致された数軒の料亭が立ち並ぶ、地図には「瀬田河原」
大正10 旧堤防が料亭の背後に建設されることになり、
立ち退きを迫られるが、なんからの政治力で立ち退きを回避
(旧河川法では堤防外の河川敷は国有地)
大正14 二子橋が完成し、玉川線は川崎方面に延長される、地図には「瀬田河原」
昭和6 当該地区にも番地が付されているが、登記いかんは不明。地図には「堤外」
昭和13 東急が玉川電鉄を合併
昭和17-20 戦局の悪化により当該地区の温泉旅館は寂れる、
昭和20 終戦時には北側には水光亭と柳屋、南側には十軒ほどの旅館が散在。
昭和21 水光亭は占領軍相手のキャバレーになる
昭和34 水光亭は廃業し、跡地に富士観会館が建設される、玉川高島屋が開業
昭和39 新河川法施行
昭和41 北にあった駅舎が現在の位置(河川敷)に移転
平成16 富士観会館は取り壊され、プラウドタワー二子玉川が竣工
平成26 南側の堤外地区に暫定堤防(土嚢)完成、ライズ完成
平成30 増水で危機
令和1 台風19号により北側堤外地区が浸水 それから当該地区は明治時代以後も何度も浸水していると思われますが、そういう記録はかわりません。 >>425
これの経緯
平成12年12月19日に、多摩川水系河川整備基本方針策定
(この頃からあの場所は危ないと認定されていた)
翌年、多摩川水系河川整備計画策定し公示
(この頃に堤防整備団体発足)
そして、平成13年〜平成21年8月まで勉強会だの説明会だのを何度もやるが反対派がゴネたまま
自治体も何回も妥協案を出すが一環して堤防反対を貫く
業を煮やした自治体が住民の過半数の同意を経て工事を着手と発表し下流側の南地区堤防工事着手手前の説明会を行うが大荒れ
翌年の頭に反対団体が裁判所に工事差し止めの仮処分申請したが、3ヶ月後の4月に却下され着工しようとするが
座り込みの妨害で更に着工遅れる
堤防工事中も反対運動しまくりで、妨害もしまくりで警察かけつけるまで発展し更に遅れる
そしてようやく南地区の堤防が仮の姿で完成(暫定堤防と呼ばれてる)
そして上流側にも工事をしようと住民への説明をしたが反対派の理解が得られず堤防がないままで
今回の台風で浸水
当たり前だよね、下流の堤防作るのに邪魔して着工仮完成遅れて上流は堤防がないんだからなるようになったんだ。
ちなみに、こいつらの代表的な団体
・二子玉川東地区住民まちづくり協議会
・二子玉川の環境と安全を考える会
・玉川1丁目の住環境を守る会
・外環道検討委員会
・景観と住環境を考える全国ネットワーク
・八ツ場ダムをストップさせる東京の会 大量に雨が降れば、結局低いところはダメ。
という事が解った台風だろ。
堤防整備を繰り返して、結局、昔氾濫したところが
今回氾濫したところが多いんだぞ。
低いところに住む覚悟が必要で、堤防整備にかける金は
無限大という事じゃないか? 確かに堤防沿いのマンションの2階とかって
1階みたいに柵が無いから窓から丸見えなんだよな。 >>422-424
新たな進展
まだ登記簿関係はわかりませんが、逆に河川区域とされている範囲は確定できないかと
探してみましたら、京浜河川事務所にありました。
リンクがNGで貼れません。
「河川区域・河川区域平面図」にある一番上の大田区〜世田谷区の河川区域図12
これによると、当該の堤外地区は、やはり「河川区域」のようです。現在も川の扱いです。
上図では赤い線が河川区域をあらわし、黄色い帯が河川保全区域を表します。
ファイル情報によると、このpdfの作成は2012年のようです。
やはり予想したとおり、現在も堤外の扱いでした。 さらしあげ
保守
かくすな
北朝鮮保坂を当選させる
世田谷くるくるくるばー 反対派だったという多摩川沿いに40年以上暮らす男性(72)は「景観維持の面や、堤防を作る分、水かさが増えると主張していた。人工堤防を作った以上、兵庫島のあたりでなぜ堤防が切れているのか疑問だ。早く作らなかったのが悪いのではないか」と話す。
意味不明だな 旧河川法では、河川区域の認定(知事)を受けた土地は、ただちに私権が排除される。新河川法では、
河川区域内の民有地も認められる。当該の玉川堤外地区でいえば、富士観会館までが旧河川法で、プラウド
タワーは新河川法です。
しかしながら、実際は事はそう簡単ではなかったようで、旧河川法時代に河川区域の認定を受けた
土地でも、登記抹消は必ずしも行われなかった。法務局担当者が強権発動を躊躇したり、
戦争中の混乱ゆえで、民有地のままになっている例も多かった。新河川法ではこれらの土地は
改めてすべて国有地とされたのであるが、ここでもまた登記法の職権の変化で、登記抹消が
行われないままの土地が残った。国有地であるはずなのに、体裁は民有地のまま。
私には実際には脱法行為の言い訳というか、ひいき、特別扱いの口実にしか聞こえませんが。
抜け道がいろいろあるのですね。
(pdf 「鬼怒川河川敷地の境界確定の留意点について」より)
、
二子玉川のケースはこれに近いのでしょうか? 河川法とか登記とか、ちょっとむつかしくなりすぎて、すみません。 さらしあげ
世田谷と杉並
反日馬鹿左翼の巣窟
なんでも反日馬鹿杉並は
中核派を当選させる基地
税金を中核はには使わせない
破防法をかけろ この手の「市民運動」のせいの責任はどこが取るんだ? >>441
>>192氏が示してくれた
反対運動幟の立ってある住宅
市民運動に賛同してる所でしょか? 俺もこんなところに堤防つくるの反対だわ
そもそも人が住むような場所じゃない河原に家を建てて、
税金で堤防作って守ってくださいっていうほうがおかしな話。
危ないと思うなら引っ越せばいいんだよ 裁判で却下?され、堤防は完成してる
決壊したのは反対側だから関係なし
って記事を読んだが
運動のせいで、両岸の工事が遅れたんでないのかな >>447
両岸じゃないよ。下流側から工事して上流側が未着工。 反日馬鹿のせいで
朝日毎日NHKの擁護に期待しような
ばーーーーーか まあ、そもそもなんで堤防外に住んでるの?ってことだな。 堤防外の土地って、駅近なのに、破格に安かったんだろうな・・・多分。 多摩川の景観って命をかけるほど素晴らしいもんじゃないような 堤防に反対してた連中をリストアップして被災者へ配布しろ >>422
これいつの話?
>ほとんどの家が安普請で、手入れや改修の跡がなく、できるだけ金を掛けずに、立ち退きの
>補償金が出るまで居座ってようという感じがありありでした。
全くないとは言わないけど、こんなのごく一部だよ
ストリートビューをみれば分かる >>459
ストリートビューで見られないところ多いよ。 >>460
見られないところを含めても、ほとんどの家が、ということはない
それ以前に他の多摩川沿いの住宅地みたいに家と川の間に堤防を作ろうというだけで、立ち退きになることはない
ライズの再開発地域からも外れている >>461
多摩川の堤外地は、二子玉川の他に、川崎の戸井と立川の野球場の横の3箇所しかないはずですが… 当該地帯は、現在も堤外、河川の扱いですよ。
当局の河川区域図を明示してあるでしょう。
政府サイトのリンクはNGなので、直接リンクはできないけど、
検索できるように、ファイル名は書いたでしょう?
それで、否認するって、
当該地帯の住人以外ありえないですよね。 当該地方は明治時代末期の地図には「瀬田河原」とあって、建物はない。
河原ですから、私有はできない。
また、少なくとも大正10年には、堤防がうしろにできてるから、明示的な
堤外地(河川)で、これは旧河川法では、ただちに国有になります。
(法務局職員が職権で、私人の登記を抹消する)
ただし、実際には政治的圧力でなっていない場所もありうる。
ただし、なっていないだけで、法律上はする必然があります。
現在多摩川を管理する国の機関である京浜河川事務所の河川区域地図でも、
当該の堤外地は、「河川区域」です。
玉堤通りの堤防の上には、「多摩川 左岸」という新しめの標識もある。
現在の新河川法(昭和39)では、河川区域に民有地も認められるようですが、
昭和34年建設の富士観会館はまだ旧河川法だった。
だから、なんらかの脱法行為があったと推測されるわけです。
駅南側の堤外地は現在も不法占拠地帯然としていますが、
北側は、不法占拠地帯に少なくとても外面上は見えない。
北側は民有地になっている可能性が高いですが、これも法律上(旧河川法)は
不適切だと思います。 あのここは、つぶやき系の書き込みでどんどん流れていくので、前を読まずに書き込む人が多いので、
何度も同じ証拠を示すのは面倒くさいのですが、
新河川法施行後の国会答弁
昭和41年2月23日
「住吉説明員/ 旧河川法当時の不動産登記法の規定は、先生のおっしゃる河川敷、河川区域に
認定されますと、河川管理者からその旨の登記の嘱託がございます。そういたしますと、この該当
土地の登記薄を閉鎖する、すなわち登記簿からそれを除きまして別とじにいたしまして、それは
生きていない登記だ、こういう扱いにいたしております。」
リンクは貼れないので、場所はグーグル 世田谷区のホームページより
多摩川沿いの料亭
大正時代に、現在の二子玉川駅南側の多摩川沿いには、13軒〜14軒の
料亭が立ち並び、当時、世田谷一の歓楽街としてにぎわっていました。
主だった料亭は、それぞれで何艘かの屋形船を持っていました。屋形船の
定員は10人ほどで船頭は2人。網を打つ小船を従え、客の目の前で鮎などの
川ざかなをとって、その場で料理しました。納涼船は砂利船の転用で、
定員30人ほどで、川の中ほどで涼風を受けながら料理を楽しみました。
大正10年頃には、多摩川堤防工事が玉川辺りまで進み、立ち退き問題が
起こりました。この時、料亭は川から離れるわけにはいかないので、洪水に
なったら立ち退くことを条件に、堤外地に(つまり河川敷に)残ることが
許されました。 昭和6年の地図にも「堤外」と書いてあるんですよ。
また終戦時には、瀬田河原には十数軒の料亭旅館がパラパラと散在する程度で、
一般住宅などはない。旅館は戦局の悪化で寂れて営業していなかったらしい。
だから、南側が一般人による不法占拠を受けたとすれば戦後です。
戦後は北側の一番大きい料亭、水光亭も米軍相手のキャバレーに落ちぶれていました。
こうした寂れた三業地の状況では、不法占拠も受けやすかったと思います。
このときは、まだここに二子玉川駅はありません。もっと北にありました。(駐輪場のあたり) 二子玉川の堤外地から対岸の二子新地は、戦前は三業地として申請、認可されています。
三業地とは警察が管理認可するところで、花街、遊郭と同義です。芸者を入れる料亭、置屋、
待合など売春関連業の営業が可能なところです。ですから、戦前は遊郭としてにぎわっていたということです。 堤外地区(玉川一・三丁目)の歴史
(第四版)
明治39 旧河川法制定
明治41、玉川電鉄(東急)が渋谷ー二子玉川開通
明治42、当該地区には建物確認できず、地図には「瀬田河原」
大正6 玉電に誘致された数軒の料亭が立ち並ぶ、地図には「瀬田河原」
大正9 警察による三業地(花街・遊郭)認可。
大正10 堤防(玉堤)が料亭の背後に建設されることになり、
立ち退きを迫られるが、なんからの政治力で立ち退きを回避
(旧河川法では堤防外の河川敷は国有地)
大正14 二子橋が完成し、玉川線は川崎方面に延長される、地図には「瀬田河原」
昭和6 当該地区にも番地が付されているが、登記いかんは不明。地図には「堤外」
昭和13 東急が玉川電鉄を合併
昭和17-20 戦局の悪化により当該地区の温泉旅館は寂れる、
昭和20 終戦時には北側には水光亭と柳屋、南側には十軒ほどの旅館が散在。
昭和21 水光亭は占領軍相手のキャバレーになる
昭和30 三業地制度が廃止
昭和34 水光亭は廃業し、跡地に富士観会館が建設される
昭和39 新河川法施行
昭和41 北にあった駅舎が現在の位置(河川敷)に移転
昭和44 玉川高島屋が開業
平成16 富士観会館は取り壊され、プラウドタワー二子玉川が竣工
平成26 南側の堤外地区に暫定堤防(土嚢)完成、ライズ完成
平成30 増水で危機
令和1 台風19号により北側堤外地区が浸水 >>3
中国人がシャレにならない性病を持ち込んで大騒ぎになってたのが原因だと思うが… 航空機離着陸数と災害死者数がピッタリ比例してる現実をアーアー聞こえないとかバカ丸出しだな
いまだに五輪中止どころか都心航路化計画に、小笠原空港建設計画まで撤回しないしな
JALだのANAだのテロ実行部隊に天下り癒着して毎日数千機もの航空機飛ばして、
鉄道の30倍もの温室効果ガスまき散らして気候変動させて災害連発させて、
マッチポンプ丸出しで公共事業の必要性なんてアピールして増税のオンパレード
賄賂くれる連中とともに私腹を肥やしまくる殺人経済を推し進める世界最悪前代未聞の悪党安倍晋三
とっととこのキチガイを殺人罪で訴追して死刑にすれば自然様の怒りも終息するわ 堤外地区(玉川一・三丁目)の歴史
(第四版b)
明治39 旧河川法制定
明治41、玉川電鉄(東急)が渋谷ー二子玉川開通
明治42、当該地区には建物確認できず、地図には「瀬田河原」
大正6 玉電に誘致された数軒の料亭が立ち並ぶ、地図には「瀬田河原」
大正9 警察による三業地(花街・遊郭)認可。
大正10 堤防(玉堤)が料亭の背後に建設されることになり、
立ち退きを迫られるが、なんからの政治力で立ち退きを回避
(旧河川法では堤防外の河川敷は即ちに国有化される)
大正14 二子橋が完成し、玉川線は川崎方面に延長される、地図には「瀬田河原」
昭和6 当該地区にも番地が付されているが、登記いかんは不明。地図には「堤外」
昭和13 東急が玉川電鉄を合併
昭和17-20 戦局の悪化により当該地区の温泉旅館は寂れる、
昭和20 終戦時には北側には水光亭と柳屋、南側には十軒ほどの旅館が散在。
昭和21 水光亭は占領軍米兵相手のキャバレーになる
昭和32 売春防止法が施行され、三業地制度は廃止
昭和34 水光亭は廃業し、跡地に富士観会館が建設される
昭和39 新河川法施行
昭和41 北にあった駅舎が現在の位置(河川敷)に移転
昭和44 玉川高島屋が開業
平成16 富士観会館は取り壊され、プラウドタワー二子玉川が竣工
平成26 南側の堤外地区に暫定堤防(土嚢)完成、ライズ完成
平成30 増水で危機
令和1 台風19号により北側堤外地区が浸水 堤防整備って極端に言えば、どこであふれさすかなんだから、反対するなら覚悟はしておかないと 反対派住民のせいで堤防いまだに造ってません、ってのが全国に知れ渡って
セレブイメージもダダ下がりだな 昔から大きな川のそばにはまともな人間は住み着かなかった、社会からはじき出された
者が住み着いた、いわゆる河原者と呼んだ訳だ、河原に舞台を造って歌や踊り芝居が
始まったのが歌舞伎の始まりと言われている、だから歌舞伎役者は元を質せば
どこの馬の骨かも判らない、出自は良くないんだよ。 ストリートビューで幟の位置調べてる時に思ったけど、景観重視の反対派はホントに一番河岸の家ばっかりやねん。1軒、模型屋が内側で反対派の幟があっただけ。
みんなの好きなサヨクは別の幟(周辺開発の反対)を上げてるからみてみ?
二子橋より上流側は元々商業開発されてて、行政も及び腰だったんだろうも思われる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています