【奈良】古代豪族・葛城氏の繁栄、体現 御所・室宮山古墳 朝鮮半島での戦闘の際、現地の人々を連れてきて葛城の地に住まわせる
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全長238メートルの室宮山古墳(手前の丘陵)。左が後円部、右が前方部=奈良県御所市で大森顕浩撮影
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竪穴式石室の内部に収められた長持形石棺。縄を掛ける突起がある=奈良県御所市室で大森顕浩撮影
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奈良盆地の南西部には古代豪族・葛城氏の勢力圏だった葛城地方が広がる。名峰・金剛山と葛城山を望む位置にある室宮山古墳(御所市、5世紀初頭)は全長238メートルの大型前方後円墳で、葛城地方最大規模だ。被葬者は日本書紀に登場する葛城氏の始祖・葛城襲津彦(そつひこ)とする説が有力。豪華な石棺や多数の埴輪(はにわ)、朝鮮半島製の土器などに、その権勢がうかがえる。【大森顕浩】
古墳そばの神社から延びる階段で後円部を登っていく。「ハイキングコースとして人気があるのです」。御所市教委の後藤愛弓主査が案内してくれた。たどり着いた平らな墳頂部にある二つのくぼみが、南北に並ぶ竪穴式石室の位置にあたる。
天井石が一つ欠けている南側の石室の中に降りると、長持(ながもち)形石棺(板石を組み合わせた石棺の一種)が見える。長さ3・5メートル、幅1・4メートルあり、縄を掛ける突起が付く。5世紀代の大型古墳の長持形石棺は、大山古墳(仁徳天皇陵)など大王(天皇)クラスとされる。後藤さんは「竪穴式石室の中に収まった状態の長持形石棺を見ることができるのは全国でここだけ。見学者が絶えません」と話す。
石室は二重の埴輪(はにわ)列で囲まれていた。内側は円筒埴輪、外側は盾、靫(ゆぎ)(弓矢を入れる道具)、かぶとなどの武器形埴輪で厳重に守っていた。
一帯は4世紀まで目立った古墳がなく、5世紀に室宮山古墳が突如出現する。大王の古墳に匹敵する規模と内容にふさわしい被葬者として想定される襲津彦は、日本書紀では朝鮮半島での軍事行動や外交を担った人物とされる。書紀が引用した朝鮮半島の歴史書「百済記」にも類似名称の記述があり、実在の可能性が高いと考えられている。
襲津彦の娘・磐之媛(いわのひめ)は仁徳天皇の皇后となり、履中・反正・允恭の3天皇を生んだとされる。「古墳の時代は、襲津彦が外戚として力をつけた時代なのです」と後藤さん。
古墳からは朝鮮半島との関連を示す遺物も出土した。1998年9月の台風7号で、未調査のままだった北側石室付近で倒れた木の根から半島製の陶質土器が見つかった。高温で焼かれた灰色の硬い土器で、この中に船形のものがあった。船首の波をよける板を模しており、文様が刻まれていた。海を越え半島に渡った襲津彦をほうふつさせる発見だった。
書紀によると襲津彦は朝鮮半島での戦闘の際、現地の人々を連れてきて葛城の地に住まわせた。室宮山古墳の南西約2キロには祭祀(さいし)場や工房などを含む大規模集落遺跡・南郷遺跡群があり、葛城氏の支配拠点とされる。室宮山古墳よりやや時代は新しいが、半島由来の土器や建物跡が多数見つかっており、渡来人の居住がうかがえる。
後藤さんが重視するのは古墳の場所。西にある金剛山と葛城山の間の水越峠を越えて大阪に向かう街道と、南下して和歌山に至る街道の交差点に位置する。付近には南郷遺跡群や、葛城氏の居館跡とされる名柄遺跡がある。古墳は丘陵の先端部を削って造成したようだ。「海外の新しい技術や文物を入手しやすい交通の要衝を押さえていた。見晴らしのいい場所で周囲から際だって見えたはず」と想像する。
金剛山と葛城山のもとに造られた大型古墳は、権力の誇示だけでなく、当時の葛城の地の繁栄ぶりを体現している。「名前の分かる具体的な人物の生きた証として、現場を訪れて歴史の息吹を体感してもらえれば」と後藤さんは話している。=次回は10月28日に掲載予定です。
■室宮山古墳
御所市室。後円部は東、前方部は西に向いている。国史跡で、指定の正式名称は「宮山古墳」。近鉄御所駅から奈良交通バス「宮戸橋」下車徒歩10分。後円部の墳頂の見学は無料。
毎日新聞 2019年10月14日
https://mainichi.jp/articles/20191014/ddl/k29/040/211000c?inb=ra てかいい加減、古代朝鮮人と現朝鮮人は別物だと教育知ろよ 区別する必要はないが渡来人なんて呼び方は歴史修正主義 クソジャップはやはり古代にも拉致強制連行してたんだな。
おい、クソジャップ、全ての加害を謝罪ろ。 氏姓制度(しせいせいど)とは
古代日本において、中央貴族、ついで地方豪族が、
国家(ヤマト王権)に対する貢献度、
朝廷政治上に占める地位に応じて、
朝廷より氏(ウヂ)の名と姓(カバネ)の名とを授与され、
その特権的地位を世襲した制度。
臣(おみ)
葛城氏、平群氏、巨勢氏、春日氏、蘇我氏のように、ヤマト(奈良盆地周辺)の地名を氏の名とし、
かつては大王家と並ぶ立場にあり、ヤマト王権においても最高の地位を占めた豪族である。
連(むらじ)
大伴氏、物部氏、中臣氏、忌部氏、土師氏のように、ヤマト王権での職務を氏の名とし、
大王家に従属する官人としての立場にあり、ヤマト王権の成立に重要な役割をはたした豪族である。
伴造(とものみやつこ)
連とも重なり合うが、おもにそのもとでヤマト王権の各部司を分掌した豪族である。
弓削氏、矢集氏(やずめ)、服部氏、犬養氏(いぬかい)、舂米氏(つきしね)、倭文氏(しとり)などの氏や
秦氏、東漢氏、西文氏(かわちのふみ)などの代表的な帰化人達に与えられた氏がある。
連、造(みやつこ)、直(あたい)、公(きみ)などの姓を称した。
百八十部(ももあまりやそのとも)
さらにその下位にあり、部(べ)を直接に指揮する多くの伴(とも)をさす。
首(おびと)、史(ふひと)、村主(すくり)、勝(すくり)などの姓(カバネ)を称した。
国造(くにのみやつこ)
代表的な地方豪族をさし、一面ではヤマト王権の地方官に組みこまれ、
また在地の部民を率いる地方的伴造の地位にある者もあった。
国造には、君(きみ)、直(あたい)の姓が多く、中には臣(おみ)を称するものもあった。
県主(あがたぬし)
これより古く、かつ小範囲の族長をさすものと思われる。いずれも地名を氏の名とする。
世襲だからな
最高位の臣の地位を一族にもたらした
>葛城氏の始祖・葛城襲津彦(そつひこ)
はそら評価されただろ 奈良県中南部には、南北朝時代から続く家は珍しくないが、さすがにこの時代から続いてる家は無いかな >>11
室宮山古墳がある御所市室地区には前川喜平の実家がある
前川家は室地区の地主とのこと >>8
この時代に半島にいたのは中国系だよ
絵便器族は10世紀以降に侵入したんだからね 御所市〜明日香村は巨勢氏じゃん?
コシ、コセ、的な地名わんさか
もちろんゴセ市も まーーたチョンが日本人との繋がりアピールしてんのかよ
最近のチョンの他人じゃないニダ作戦
エベンキとは一切何の関係ねーつってんの 埼玉県行田市稲荷山古墳の鉄剣に
獲加多支鹵大王(わかたけるだいおう)と
乎獲居臣(おわけのおみ)と刻まれてる
熊本県玉名郡和水町江田船山古墳の鉄剣には
獲□□□鹵大王 とありおそらく わかたけるだいおう
つまり雄略天皇が
東は埼玉、西は熊本まで広範囲を抑えていた可能性があって
埼玉の地方豪族には破格と思える臣の地位を与えた
天皇家の分家でも住んでたのかな また
朝鮮閨閥の藤原一族かよ
任那日本府があったんだろうから当然だろ
それより、当時はまだ倭人の多い地域だったのが
中国の歴史文献に書かれてる
馬鹿なんじゃねーの
このしつこさが、いかにも朝鮮人 >>14
地主といっても江戸時代くらいからの庄屋たったりする事があるからな
江戸時代なら新参者 強制連行強制労働強制性奴隷ニダ
銅像を作って謝罪と賠償を羊乳ニダ 倭の五王は中国の王朝に朝献して
朝鮮半島での戦いを有利に進めようとしていたと思われる
讃 安東将軍倭国王
珍 安東将軍倭国王
済 安東将軍倭国王
興 使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王
武 使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王
それぞれ宋に要請してこういった称号をもらった 宋書夷蛮伝 おそらく興と武のあたりで百済が倭国になったと思われる >>1 いわゆる鮮人ではない時期の半島の支那系の人々。 >>18
関東にある鹿島香取は三大神宮であり天津神が御祭神なのだから不自然ではない 一番貢献したといわれるけど一番反乱起こしたともいわれた氏族だったかな 奈良は遺伝子的に縄文人と朝鮮半島系の影響が強いみたいやね
今でも地名なんかにも名残りが見られる 葛城氏といえば? そうだよ一言主だよwww
なんだよ、このスレでは未出か?
そういや一言主を名乗るコテハンがこの+板にいたと記憶するが
最近は邂逅しないな? 息災かねえ
ま、それにしても古事記でいうところの
「吾者、雖悪事而一言、雖善事而一言、言離之~、葛城之一言主大~者也」
とは、なかなかカッコいい名乗りだよねwww >>7
帰化人と呼ぶべきか、隷属民として部民とするべきか? この古墳の北側にネコ塚っていう現状畑になってる古墳があるんだけど
地元民と思われる人の書き込みで昔は畑耕してると鉄剣だとか色々出てきたみたいに書いてた
いいのかそれ いま韓国にいる百済人の末裔は、
シスAB型の人、
韓国で珍しい2文字姓(8種類だけらしい)の人、
下戸遺伝子を持つ人(酒が全く飲めない)なんかがそうじゃないかな ま 帰化人の文字通り帰ってきた日本人
朝鮮半島南部は日本 >>32
いちごんじさんは雄略天皇に勝ったのか、負けたのか?
君はどう思う? >>28
>関東にある鹿島香取
日本最大の大断層中央構造線の東端にある神社だっけ
西の宇佐神社や熊本神社、断層真ん中に奈良御所、伊勢神宮、豊川稲荷とあり、南北のフォッサマグナとの交点は古代からある諏訪大社なのはなんなんだろうか 百済は日本と中国の貿易港だからね
半島南部には日本より新しい前方後円墳や中国南朝式の墓がある
大和式土器や日本産のヒスイも大量に出土する。ヒスイの産地は東アジアではミャンマーと新潟のみ
韓国人が嫌う事実 >>5
ネトウヨブログじゃないんだからさ、教科書に載る訳ない >>40
その問いについてはウィキペ先生の解釈を持ち出して回答に変えたい。
すなわち葛城氏の地位低下に比例して葛城氏の後見神こと一言主も
その霊力をさげていったというのが妥当だろうね。
身もふたもないことを言えばすべての神話も聖典も
神ならざる人間がこさえたわけだ。
で、あるならば、人間が世俗のふいんきの空気を読んで
神話聖典を改組改竄してもなにも驚くことはないよね。
そして歴史は勝者によって書かれるように、神話のテキストもかくの如し、さ。
こんなところでいいかなw 長文失敬www あの辺は一言主の土地でしょ。土佐に流されたらしいけど 東へ2キロ行ったところに日本武尊陵がある。
陵の土台部分にあたる国見山の尾根が巨大古墳かもしれない、発掘してほしいわ。
自分の先祖がここの土地をもっていて、先祖がここを掘ったら土器が出たんだよ。 >>1
>「古墳の時代は、襲津彦が外戚として力をつけた時代なのです」
ほんとかなあ?
外戚って血筋による王位継承が確立して効果があるものじゃないかなあ。
血筋による継承が確立すればそれを正当化するために史書を残すものなのじゃないかなあ。
古墳時代は血筋じゃなくて力が物言う時代だったんじゃないかなあ。 襲津彦の父ちゃんは仲哀をゴニョゴニョしちゃった張本人
そんで朝鮮人を大量に連れてきたと つまり日本の伝統重んじる仲哀を強制的に排除して
大量の朝鮮人で国造りしたのがこの時期なわけだ
仲哀死んでからどでかい古墳を沢山築造したのも朝鮮人の技術力だよ >>28
鹿島神宮のタケミカヅチは安曇族の祖である安曇磯良と異名同神とされる
つまり九州勢が関東まで勢力圏を伸ばしていたということ
もちろん間にある畿内も九州からきた神武に征服された土地
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
>民間伝承では、阿曇磯良(磯武良)は豊玉毘売命の子とされており、「日子波限建」(ひこなぎさたけ)と冠されることのある鵜葺草葺不合命と同神であるとする説がある
>(磯と渚はどちらも海岸である)。また、『八幡宮御縁起』では、磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神であるとしている。
>『磯良ト申スハ筑前国鹿ノ島明神之御事也 常陸国鹿嶋大明神大和国春日大明神 是皆一躰分身 同躰異名以坐ス 安曇磯良ト申ス志賀海大明神
> 磯良ハ春日大社似祀奉斎 天児屋根命以同神』(愚童訓より) >>5
ネトウヨ界隈の話と社会の認識の違いが分からないネトウヨ 新羅王の人質の微叱旱岐(みしこち)が一時帰国したいというので、神功皇后は微叱旱岐に襲津彦をそえて新羅へと遣わしたが、
対馬にて新羅王の使者に騙され微叱旱岐に逃げられてしまう。これに襲津彦は怒り、使者3人を焼き殺したうえで、蹈鞴津(たたらつ)
に陣を敷いて草羅城(くさわらのさし)を落とし、捕虜を連れ帰った(桑原・佐糜・高宮・忍海の4邑の漢人らの始祖)。
wiki 天皇は百済に紀角宿禰(きのつの)を派遣したが、百済王族の酒君に無礼があったので紀角宿禰が叱責すると、百済王はかしこまり、鉄鎖で酒君を縛り襲津彦に従わせて日本に送ったという。wiki 葛城の襲津彦 真弓 荒木にも 頼めや君が 我が名告りけむ >>55
一躰分身同躰異名って伊弉諾の神産みのことから来ているような気もするけどね
それに関東は征服地ではなく由緒ある地なんですよ
鹿島が中臣藤原氏で香取が物部氏
春日大社の由緒は藤原氏がタケミカヅチを分祀したもの また嘘ばっかり、日本は縄文時代から日本人の国だよ。 >>41
諏訪大社の上社前宮(=元宮)の真東、北緯39.5度の線上に鹿島神宮が存在している。
本州で一番早い日の出のパワーを鹿島が取り込み、諏訪に回さない形になっている。
ご存じの通り、鹿島の主神タケミカヅチは、出雲の大国主の息子タケミナカタを撃破して出雲の国権を奪い、彼を諏訪大社に永久封印した張本人だ。
また、諏訪大社の下社には春宮と秋宮のふたつがある。
春宮のきっちり南東(方位135度)方向の1.1km先に秋宮がある。
そして、この2つの宮のど真ん中に、熱田神宮の本殿から伸びた鬼門線(北東、方位045度)が直角で交差している。
熱田神宮も八岐大蛇の尾から取り出された天叢雲剣(草薙剣)が祀られる神社で、やはり出雲と関係している。
さらに長野県南部の伝承にこういう話もある。
出雲で鹿島の神に敗れたタケミナカタは、母の実家である北陸の越国(こしのくに)に亡命した。
彼はそこで兵を借り、諏訪の土着神モリヤの軍を破って諏訪地方を平定して再起を図った。
それを阻止すべく天津神側は支配下の美濃と尾張で兵を徴発し、伊那街道沿いに軍を北進させ諏訪軍を撃破して降伏させた。
尾張の熱田神宮に天叢雲剣が今もある本当の理由は、その故事が関係しているんじゃないかと個人的に想像している。 >>8
そもそも朝鮮半島南部は日本が支配していた
ようやく在日も古代から日本が朝鮮半島を圧倒支配してたのを認めたのか
百済も新羅も倭の属国だったと広開土王碑にも書かれていることを認めたのか
ま実際は、朝鮮半島より日本の方が気候も土地も豊かで侵略されにくい場所で憧れの移民先だった
韓国人がアメリカなどに移民したがるのも半島は夏は蒸し暑く冬は凍え死ぬような土地で
韓国人も他人に寄生したがる乞食みたいな精神の持ち主ばかりだからでしょ 海神族は全国各地にいっているから、そこをあまりに過大評価しないことだよ。 葛城氏は名族。円大臣が誅滅されるまでは、葛城王家という言い方をされることがあるくらい。
天皇の后は葛城氏から。 武内宿禰の業績は、本当は葛城氏や紀氏、平群氏、蘇我氏など後裔氏族の業績を一人の人物の業績としてまとめたのだろうか? 連れて来た言うても
当時と今じゃ半島の民族は別モンなんでしょ? 7世紀まであった倭は九州
8世紀からは奈良の大和朝廷
倭の五王、讃、珍、済、興、武も九州の倭の王
倭領であった任那滅亡で倭人が朝鮮半島から引き揚げて来て
多くの人が畿内に移住したんだ
それで関西が発展して大和朝廷が成立した。 >>75
じゃあ藤原京からでる7世紀の木簡は全部無視なのか? 九州から大和へ献上めたとかいう木簡も出てると思うが >>76
九州から藤原京へ遷都したんだよ
藤原京で政変 >>79
なぜ壬申の乱で勝った方がはるか遠くの大和のど田舎に追い出されないといけないんだ? 今尚現存し天皇家よりも古い氏族までも半島由来か
本当にこいつらを警戒しないと学校教育や、民間交流で親睦を謳いながら
日本の起源には必ず朝鮮半島由来が付くように仕向けてくる >後藤さんは「竪穴式石室の中に収まった状態の長持形石棺を見ることができるのは全国でここだけ。見学者が絶えません」と話す。
後で見学できるように、発掘した際にわざと埋め戻さなかったんだよな >>64
つまりその中臣氏も安曇系氏族だってことだよ
アメノコヤネ=安曇磯良を祖神としているからな
古代の有力氏族のかなりの部分が安曇系だ
伊都国王家である安曇がそれほど力を持ったのは九州邪馬台が東遷した証拠のひとつ 確か、忍海のあたりが半島から連れてきた人たちが住んでいたんだっけ
>>86
アメノコヤネ=安曇磯良について
ソースというか、伝承はどんなのがありますか? 集団ストーカーでおもしろいのみつけた
ここじゃないかもしれないけど、ちょっと一言
集団ストーカーは現在は簡単に言うと電気通信
通信で電気制御による嫌がらせをしてる
いろいろ書いてもほぼ電気通信一択なんだよね
ここにあるから興味ある人は見てね
火消しもできない残念レベルのアホ工作員と偽者ばっかりだからわかりやすいよ
私の書き込みは最近だけだけどね338ぐらいからがおもしろいよ
チンカス犯罪者で絞れば私のはある程度わかるかも
世界的に問題になりそうなこととか、簡単な方法でも触れる人が一切いないよ
人権蹂躙の集団ストーカー
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/rights/1401997624/
ここには書き込み少々
部落民と在日朝鮮人による集団ストーカー
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/rights/1255949063/
不正を暴こうとする人や告発しようとする人が差別や迫害されるのはまさに人権問題なんだよね
プライバシー侵害は人権侵害ネタそのもの
今の朝鮮半島の民族とは全く別の人間じゃないの?
というか半島は日本の支配下とかだったから、半島にいたのもあの頃は日本人じゃね >>85
もういいんだよw
捏造歴史ばっか信じてた悲惨な在チョンw 仁徳天皇以降は葛城氏と皇室の権力の綱引きの時代だな
葛城氏無しにこの時代は語れない 葛城氏は確かに謎の多い一族だな
仁徳天皇の頃までは特に目立ってない
この時に突然主流に躍り出る
古来の豪族の鎖から脱して新進の豪族と手を組んで思い通りの政権運営をしたいと言う仁徳天皇の意図が感じられる
奈良から離れた桓武天皇の行動に近いのかもしれないな 始祖に当たるとされる武内宿禰の子孫の一族もこの頃に繁栄してる
蘇我氏が葛城氏衰退後にその勢力を引き継ぐ形だから仁徳天皇から大化の改新までは葛城氏系の勢力の時代だと言えるな >>94
確か最初の妃が遠い田舎の日向の豪族の娘だもんなぁ
まぁ、正妻じゃないしまだ若くて皇太子時代だから本当に単純な一目惚れかもしれんけど 蘇我、巨勢、平群、紀
この辺りが葛城氏の後裔
勢力の変遷を見ると
葛城→巨勢、平群(葛城氏系)→大伴(大和古来の豪族)→蘇我(葛城氏系)・物部(大和古来の豪族)→蘇我(葛城氏系)
葛城系と大和古来の豪族が相互に主導権を握る争いをしてるのが見えてくるな
半島での権益の確保を土台にしてる葛城氏系は日本が半島から撤退すると衰退する形になる 大伴金村は任那の領土を滅んだ百済に渡して復活させたことを責められて失脚
物部守屋は仏教の取り扱いについて反対の立場を取って蘇我氏に滅ぼされる
大和古来系の豪族は葛城氏系の勢力の土台を潰そうとしてるようにも見えるな
物部氏追討で活躍したのが巨勢や平群と言う葛城氏系と言うのも注目点と言えるかも
新興の葛城氏系VS大和古来系豪族の争いが仁徳天皇以降の政治の根幹と言える この葛城氏と皇室の対立の動きの中で面白いのは応神天皇の扱いだな
反葛城氏の動きが盛んになると、反抗の起点となるのが応神天皇
血縁的に葛城氏の血統が入ってないのが応神天皇だから当然だけど忍坂大仲姫、継体天皇なども応神系
葛城氏と言う一族が如何にこの時代の朝廷に大きな影響を及ぼしていたかが分かるな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています