【上り兵法下り音曲】
昔は京都が日本の中心であり京都に行くのが上りである。
したがって上り兵法とは関東から京都に行くことで、兵法は鹿島の剣を中心に関東が盛んであったから、兵法は関東から京都に伝えられ、逆に音曲は京都が本場であったから京都から関東に流れたのである。
文化武芸及び交流経路を伝えている。

幕末には音曲でも東に敗けとる
清河八郎
京師・大坂あたりの芸子どもは誠にとるにたらぬ下手ものばかりにて、見るにたらぬなれども、田谷村連は外の気合をしらぬ故、
唯国元の事にのみ比しならぶるゆへ、至て上手の様に思われけれども、江戸の積にすれば、素人よりも面白からで、越後新潟の足もとも及ばぬなり。
一体上方は気の緩きところゆへ、歌舞ともに張りあひのぬけたる風にて、殊に未熟の様に思わるなれども、田舎よりはじめて来るものは、
いまだ目のきかぬ事ゆへ、時によると彼らの為に惑さるる事ままある也。
吾等などは関東、新潟辺にて修練のもののみ見聞きするゆへ、上方の歌舞妓は却て酒興の邪魔に思わる。
(岩波文庫)