【おまいり】神社で「二礼二拍手一礼」は伝統的な作法ではない。宗教学者が教える“しきたり”の嘘
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初詣などで神社に参拝するときは、「二礼二拍手一礼」が一般的な作法として知られる。
この作法をイラスト入りで紹介している神社も少なくない。だが、宗教学者の島田裕巳氏によれば、
これは伝統的な作法ではないというのだ。
神社巡りといえば、高齢者の老後の楽しみと言われものだが、最近は、30〜40代の女性の参拝者が目立つようになった。
神主から朱印と墨書をいただく、いわゆる「御朱印ガール」と呼ばれている人たちだ。彼女たちは、参拝する際は
「二礼二拍手一礼」を頑なに守っているが、
「彼女たちより年輩の人たちから見れば、この作法に違和感を覚える人もいるはずです」
と語るのは、先日、『神社で拍手を打つな!』(中公新書ラクレ)を出版した島田氏である。
同書では、神社の参拝作法や除夜の鐘、初詣など、日本人のしきたりについて解説している。
「昭和の時代は、二礼二拍手一礼はそれほど広まってはいませんでした。以前の参拝作法は、基本的には、
両掌を顔や胸の前で合わせて拝む合掌でした。今でも、合掌して参拝する人もいます。
二礼二拍手一礼だと、形式だけで終わってしまう。心の中で祈る間が、この作法は含まれていない。
だから、物足らないと思っている人は多いのではないでしょうか」
島田氏は、最も美しい形の参拝として、黒澤明の映画『姿三四郎』(1943年)のワンシーンをあげる。
「三四郎は、村井半助という他の流派の年配の柔道家と対戦しますが、試合前に近くの神社を通りかかったとき、
半助の娘が、神社の拝殿の前で一心に祈りを捧げている姿を目撃します。娘は着物姿で、下駄を履き、からだをその上に沈め、
目をつぶりながら手を合わせ、懸命に祈っていました。映画の舞台は明治時代ですが、当時、神社に参拝するときは
合掌したことがうかがえます。映画を見ればわかりますが、この祈りの姿は美しいですね」
合掌が伝統的な作法
「元々神道には、開祖も教祖もいません。教えを記した教典もありません。ですから参拝の作法もありません。
そのため明治以前は、神道と仏教が密接な関係を結びます。仏教には教えの体系があるので、仏教の理論を応用し、
融合したのが神仏習合です。明治維新になるまで、神仏習合は千年間続きます。仏閣での参拝には、拍手がありません。
基本的に合掌となります。それが神社に受け継がれてきたわけですね。実際、江戸時代の1763年に、芙蓉山人(ふようさんじん)
という人物が出した、伊勢詣のガイドブックのような書物『伊勢参宮細見大全』では、参拝者の様子が描かれています。
参拝者は座り込み、合掌して拝んでいます。頭を垂れて、一心に拝んでいる人もいます。拍手を打っているような人間は一人もいません」
昔の人たちは神に祈る場合、座り込むか、それに近い形をとっていたわけだ。
「現在の二礼二拍手一礼は、立って行います。果たして神に祈るとき、立って礼拝するというのは正しいのだろうか。疑問に思いますね」
奈良時代から始まった神仏習合、当初は仏教が主で、神道は従だった。
「神仏習合の理論の代表的なものが、“本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)”です。日本の神々は、仏がその姿を仮に現わしたという考え方で、
仏が本地(本来の境地)で、神が垂迹(仏の化身)です。仏を神の上に位置づけたわけです」
ところが、江戸時代になると、神道の優位を説く思想が起こり、明治時代になると、神道を国家の基本に据えようする国学者や神道家が現れる。
「これで、神仏分離となり、神社の境内にあった寺院は破壊されます。いわゆる廃仏毀釈です。千年も一緒だった神道と仏教が
バラバラになってしまったわけですが、これが問題だったと思います」
神社への参拝で、拍手が正式に取り入れられたのは、明治時代だという。 好きにしていいよ、ってことだよね
しずかに合掌して祈るってのが古来よりの方法ではあるけども 幕末・御維新のころの下関の神社の写真でも参拝者は座り込んではなく 令和の御代と同じような型でお祈りしてる。今年は二千六百七十九年 神社合祀令
これで日本は侵略されたんだよ
明治天皇からカルトの偽物
その血を引く竹田とかおかしいだろ >>490
金持ちになりたいなぁ なら色んな神様や専門とする神様と縁を持つという話も間違いじゃないし
仕事くれ ってのなら氏神様やね。 神職さんが近くいるなら聞こえるようにつぶやくと宜し >>504
軽く一礼し、賽銭入れて鐘鳴らすだったかな 「正しい作法」って存在するのかね
原初の作法ならとっくに歴史の彼方に置き去りにされて形も残ってないだろう >>490
自宅神棚に伊勢神宮と氏神様のお神札と崇敬神社として好きな金運神社のお神札をまつって毎日祈る >>490
無理に通わなくても遥拝でいいんじゃないの? 美しい形とかそういうこと言ってんじゃないだろ
正しい形式が無いならそう言えばいいだけ
黒澤映画とかから引っ張ってきたらもう滅茶苦茶 >>346
しきたりというか、法的には知らないが明治の偉い人による決定事項 出雲大社の二礼四拍手一礼とか
伊勢神宮の八度拝八開手とか
あいつらは基地外の半端もん神社ってことやな 新羅系の神社があるのって新羅人が仏教を信仰していなかったことと関係があるのかな。 >>524
昔の人がどうやってたのかは知らないけど今の人が万歳三唱をやっているのは知ってる >>25
神祇官すら神道儀礼とかよくわかってなくて室町期に吉田兼倶に教えてもらって
それなりの形になったはず
歴代天皇はあいかわらず神道に興味なくて仏教に帰依しまくりんぐ 確か…
二礼二拍手二礼が正解なんだけどね
最後の礼を省略する不届き者が多いこと多いこと… >>1
うちの近所の神社は、二拝四拍手一拝だけど? >>469
それって神職が儀式としてやるものじゃね? 参道は神様が歩くから端を歩きなさいとか嘘だと
神様は上から降りてくるから歩かねーよって言ってたのもこの人じゃなかったかな 不動明王様だと呪文言ってねって書いてある
仏教だけど。 かといって今の時代に神前セックスするわけにもいかんしなぁ 要は神道のブランド化とか格式を高めるために後付けで作った作法でしょ
大して意味はないんだから、やりたくなきゃ別にやらなくてもいいってことでいいと思う >>535
つまり万歳三唱は間違ってるといいたいの?みんなやってるのに? 40代だけど確かに子供の頃は神社で二礼ニ拍手とかしてなかった気がする
ふつうに合掌するだけ >>1
別にどれが正しいとかどうでもいいよ
初詣は行っといて春詣で夏詣で寒詣で行かないでしょ
初詣なんて願い事だけの為に行く罰当たり行為しかしないじゃん
大晦日も早く願い事したいがために行くかイベント事でしょ 古式は分かってるけど、面倒だから立礼に簡易化
したって言えば良いだろ しかし新潮もとうとう島田裕巳なんかを持ち出すまで落ちぶれたのか
まさに貧すれば鈍するだな 誰だったか神社は世の中のの平穏を祈るところで寺は個人の幸せを祈るトコだと言っていた >>538
伊勢神宮なんて、明治時代まで天皇が近寄らなかったインチキ神社じゃん >>528
うちの神様は礼儀に厳しいから
ちゃんと挨拶、祈願したいなら 「これを欠かしたらダメだよ」 ってのがあるくらい
あとは 「これをすると怒らせちゃうからダメだよ」 ってのは、神様によってまちまち 土着の因習慣習は教義に優先する、とエリアーデも言ってなかったか? >宗教学者の島田裕巳氏によれば、
はい解散
オウム真理教のカルト支持者がほざくなカス >千年も一緒だった神道と仏教が
日本人の祖先崇拝から始まった神道は数千年の昔に遡れるでしょ。
千年をありがたがる必要なし。 いずれにせよ神道って不思議だな
宗教って善悪や道徳を説くもんだと思っていたが 神社本庁が作った 伝統 だよね
相撲協会が宣伝した 国技 と似たようなもの
お参りなんて、鈴鳴らしてお賽銭入れて拍手2回して手を合わせて祈る
それがむしろ多いと思うわ
礼 なんぞしないでしょ 本来神と人との個人的な関係なのであって
学者に指図されるのは少し不愉快ですね >>556
ていうかさ旧暦でやってないんだからもう伝統的なものでもなんでもないのよな 願掛けするのに金取るなんて、子供心に金に汚い神様だなあとは思ったわ なんだ
江戸しぐさみたいなインチキか
だまされたは
これからは好きなように参拝させてもらうは >>450
だから「シルクハット」とか、ややこしいですわな。
あれ、「『帽子』なんだけど、西洋でも『冠』の意識で使われることがほとんどの被り物」だから。
「野球帽」だって、「野球選手・監督としてチームの勝利・発展を祈願する」なら「冠」だけど、「ブァッションや頭を守る機能性衣料」として被ってるのなら「帽子」になるね。 伊勢斎王は朝廷につぐ権威があったからな
きっと初代伊勢斎王のヤマトヒメノミコトがヒミコ >>553
それも正解だよ
特に用事がなければそれでいい
二礼二拍手するのは用事がある人だけ 神社に行ったら、そこに居る木々に挨拶しないと意味無いよ
実はそっちが御神体だから >>501 明治とは何か?明治の御代とは畏れながら 神武御創業の 御事の復古である。幕府を倒した新政府は佛教儒教の悪弊を祓い清め以て善導美化するのだ 二拍は音出さなくていいぞ
でも強制じゃないから音出してもいいぞ >>568
お前さんが神だと思ってるものの中身は人間。
人間が人間に対してありがたやーありがたやーって拝んでるんや。
間抜けやで。 真面目に作法守ってたネトウヨどーすんの?
爆発すんの? 何でもいいってことだ
他人に作法を強制せんでもいい うちは神棚だからこれが染み付いてるわ
逆に仏教の法事行くとテンパる >>560
インチキ神社ではないけど、武士が治めてた時代には
天皇家はあまり大切にされなかったってこと >>1
神社がそれでいいって言ってんのに
学者がそうじゃないって喚いても意味ねぇ >>578
音を出さない拍手は葬式の時だよ
知ったか? >>565
ジャップの概念に善悪とか道徳が無いんだから
不思議でも何でもないでしょ >>565
もともとは先祖を拝んでただけだから、別に宗教でもないんだよね オウム真理教を絶賛してた人か
神道と関係ないw
オウムは尊師が救世主キリスト宣言してた尊師メシア教じゃん 地鎮祭はいつもコレだ。
嘘だとか自由でいいとか言われても困るね。 >>550
日本の神様って割と下ネタ大好きやで
そういう神社もそれなりにあるわけで
古くは風俗関係も取りまとめしてたりな (これはどちらかといえば寺管轄やけど) ぼくはパンパンしないな
ただ静かに手を合わせ目をつぶり祈る
だけだ。 二礼はおかしくねとは前から思ってた
これから2拍手で呼び出してこんにちわにしよう あとね
学者って言うんなら
参拝儀式のうんちくとかググればわかるような雑学披露ではなくて
もう少しまともな研究をして欲しいですね 神も仏もいもしないし人間の金儲けの道具でしかないけどさ
信じてる人もいるのは知ってるのでルールは守ろうと思ってるのに
ごちゃごちゃ言い過ぎなんだよ
本音はただのランドマークくらいにしか思ってないわ 神様に善も悪もないんです
邪悪なのは人間なんですわ
神を利用してこれが正解、俺が正しいなんてやってる
そういう連中は、間違いなく邪悪なんですね
神道の人たちってのは、間違いなく邪悪なんです
存在からして邪悪になってしまう、神にとっての邪悪ではなく
人間にとっての邪悪です
神は気分次第ですから(気分ってのも擬人化しすぎてるんですけどね)
気分次第で、人にとって恐ろしいことをします
人にとって嬉しいこともします
でも、それは人にとってであること忘れちゃいけないのです
それをどう意味づけして解釈するかってことです
これを天罰だとしてしまう人もいますが
それは正解ではないのです
勝手な人間の側の解釈でしかないんですね
どれが正解ってことはない
>>568
いえいえ、学者でも言って良いんです
あなたも言っても良い、誰もが言って良い
経緯として宗教家もずっと言ってきていますが
それは正解じゃないと踏まえておけばよろしいんです
宗教家の指図も不快になるべきですね、それができない人が多い
自分と神との関係を投げている人がたくさんいて、たいへん嘆かわしいわけですな 拍手するのは祝詞奏上するときのみ
一般人が祈願するのは合掌のみだよ もともと作法ではなく礼儀だったんだが、現代では意味が失われて作法になってしまったなw
何も祈らず、ただおじぎして帰ってくる方が礼儀正しくていいかもなw 伝統的じゃ無いから何なの基本の作法をこれにしましょうで良いじゃない 朝廷は日本の歴史そのものだからな
時の権力者に権力の裏付けを与え続けたのが天子さま
イニシエの時代から天子さまが一番エライ
広域暴力団ヤクザの組長の征夷大将軍を任命してたのも天子さま
コレは現代でも同じ
内閣総理大臣を任命するのも天子さま
最高裁判所長官を任命するのも天子さま
君臨すれども統治せず
天子さまはずーっと日本で一番エライ! 俺の田舎では神社でも合掌だな
当然俺も、今でも合掌
ほんとに心からお願いするときは蹲踞(しゃがむ) > 参拝の作法もありません
なら2礼2拍1礼にも文句つけんなや
ごちゃごちゃ言わんと日々の安寧の感謝の思いを伝えさせろ >>436
そちらの方が「敬虔な信仰態度」で、宗教的にはまあ、レベルが高いな。
ということで、君はエラい。 神社の人等がそう言ってるのに宗教学者が否定しても意味ねえわ
お前はただの部外者、神社ファンなだけ 保守派がいう伝統ってだいたい嘘だからね…
せいぜい明治後半とか下手すりゃ昭和の終わり頃にはじまったものだったり >>569
旧正月を祝う中国共産党の方が遥かに伝統的だねw マリックの魔術は種があるからインチキだと言ってるようなもん
伝統であろうと無かろうとそう言う神社が決まりにしたんだから
それに従うかどうかなんて個人の自由だし 正月とか人出多いときは後ろに気を使ってか二礼二拍手してすぐ一礼して帰る人とかいるけど
あれって神様からしたら大量のピンポンダッシュみたいなものなのかなとは思う >>571
あれは汚れを銭とともに祓うためのものと聞いたぞ。
だから額が多ければいいというものでもないらしい。
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